第6話 不孝者
浅い眠りが続いていたある日、私は夢を見た。
それは、非現実的な世界ではなくて、ずっと昔のありふれた思い出―幼い頃の記憶なのはわかっていた。
夢の中のパパはとてもロマンチストで、真っ黒なふさふさの髪をしていた。
髪質はパパ譲り。
目元も、大きな口もパパ譲り。
周りの大人達が、私を見てよく口にしていた言葉だ。
夢の中のママは、真っ白なワンピースを着ている。
今では礼儀作法に厳しいママだけど、ツンと上を向いた鼻は可愛くて、私よりも若かった。
前屈みになると、胸元のネックレスが申し訳なさそうに揺れた。
透き通るような白い肌は、きっとママに似たんだな……夢に中でもそう思った。
冬休みになると、家族で出かけた雪山の別荘のバルコニーで、ちいさな私と、パパとママは星空を見上げていた。
真ん中に私、左にパパ、右にママの温もり。
室内の暖炉の炎が、鯉のぼりみたいに泳いでいる。
大きな窓はすっかり曇っていて、なんだか可哀想。
私たちは、ステンレスのマグカップで踊るミルクの鏡に、何度も何度も口をつけていた。
私は言った。
「ポカポカだね」
ママは、ふふと笑っているだけ。
でもその声は、愛おしくて懐かしくて。
そして、パパの声は低音でセクシー。
「ああ、ポカポカだね」
と、囁いてくれる。
素敵な記憶が、頭の中を通り過ぎていく。
居心地のいい夢の世界は、ゆりかごみたいだった。
甘い甘いミルクは、家族の味がした。
私は頭上の満点の星空を、首が痛くなるまで見上げた。
黒真珠みたいに澄んだ空で、赤や白や、黄色い宝石たちがちらちらと瞬いている。
青白い宝石は、時折大きくなったり小さくなったり。
パパは自慢げに。
「それはね、とても元気な若いお星さまで、ほんとはね、いっしょにミルクを飲みたいんだよ」
と、笑っていた。
私は、三つ仲良く並んだ宝石たちを見て聞いた。
「じゃあ、あの並んだお星さまは仲良しなの?」
「そうだなあ」
パパは悩んだ末。
「あのお星さまはね、家族なんだよ」
「かぞく?」
私は、びっくりしてママを見た。
ママはゆっくりと頷いている。
やさしい笑顔で。
パパの声がする。
「ほら未来」
「うん」
「三つのお星さまの近くに、明るい光が見えるだろう」
「どこ?」
私は、目玉が飛び出すくらいに、夜空を見つめた。
だけど、たくさんの宝石が有りすぎて、パパの言っている明るい光がどれなのか見当もつかなかった。
パパは私を膝の上に乗せて。
「あのお星さまと、あそこのお星さまと、そして、あのお星さまだね」
パパの指さす方向に、三つの光を見守っている宝石が見えた。
私は、嬉しくなって叫んでいた。
「でもってあそこ!」
パパは笑いながら、私の身体を高く高く持ち上げてくれた。
夜空が、ぐんと近づいたり遠ざかったりしている。
ブランコみたいで面白かった。
「明るい光はお家なんだよ。その中に、仲の良い家族がいてさ、幸せに暮らしているんだね」
「パパとママと私だあ!」
「そうだねえ」
私たちは笑った。
ミルクも楽しそうに笑っている。
遠くの方でトントントンと、太鼓のような音が聞こえているけど、知らないふりをしてこのままでいようかな。
トントントン……。
私は目が覚めた。
通販で買ったこたつで、いつの間にか眠ってしまったのだ。
喉も痛いし身体も重たい。
食べかけのみかんは、プラスチックみたいに硬くなっていた。
ドンドン!
と、玄関から扉を叩く音がする。
私は、みかんを頬張って立ち上がった。
モニター越しにママの姿が見えた。
「ちょっと待ってて!」
私は、カーディガンを羽織って扉のノブに手をかけた。
ママの声がしているけれど、やさしい声がやり切れなくて、私は不機嫌になった。
扉も開けないで叫ぶ。
「いきなりなに? どうしたの?」
私の手は、ドアノブをと捉えたままだった。
「ごめんね未来ちゃん、何度か電話したんだけれど、繋がらないから心配でねえ……」
「だからっていきなり来られても迷惑だよ、私だって都合あるの!」
「ごめんね……」
扉一枚隔てた向こうの空間が、遙か彼方の世界に感じた。
心配をかけているのは私なのに、かすれる声で理由もなく謝り続けるママの声。
その響きは痛々しくて、不愉快で淋しくて、好きにはなれなかった。
それに、フランケンシュタインみたいな継ぎ接ぎだらけの顔や、身体じゅうに出来た傷を見られるのも嫌だった。
「なんの用なの?」
「いえね……お部屋でお昼でも食べない? 今日作って来たんだよ」
「勝手なこと言わないでよ! 友達いるからダメだってば!」
「そおなの、ならすこし外で――」
「ダメだったら!」
私は声を張り上げた。
泣きそうだった。
ドアノブは冷たい。
嘘をついた私みたいに冷たい。
ママの、弱々しい声はまだ聞こえる。
こんな声だったかな?
私は、夢の中のママの声を思い出せなかった。
「じゃあね、お弁当置いて行くからね、ちゃんと食べるんだよ」
「うん」
「それとね、困ったことあったら何でも言ってちょうだいね、身体には気をつけるんだよ……今日は元気そうな声が聞けて、ママとても安心したからね」
「うん」
ママの言葉が心に突き刺さった。
謝ろうと思って扉を開けようとした時、心臓の辺りに火花が走った。
あの痛みが襲いかかってくる。
ナイフでゆっくりと皮膚を切り裂かれていくような痛み。
そのナイフは焼けるように熱く、ヌラヌラと筋を描きながら、胸からお腹へとのたうち回る。
私は、自分の右腕を思い切り噛んだ。
痛みで声が漏れないように。
「そうそう、パパね、ちょっと体調崩しちゃったみたい。お酒の飲みすぎなんだって。お腹の石を今度取るからね。近いうちに、病院に電話してあげてね、きっと喜ぶから」
私は、早く楽になりたかった。
この痛みを取り除きたかった。
ママが悪いわけではない。
ここを出て行った後は、いつもの狭い歩幅でトボトボと駅まで歩いて行くのだろう。
そして、慣れない都心の地下鉄や、JRを乗り継いで東京駅へ向かうだ。
ママはきっと泣き虫だから……新幹線の中で泣いちゃうのかな?
そして親不孝な娘に、懲りもせずに電話をかけてくるのかな。
やめてよ。
いい加減にしてよ。
これ以上、私を傷つけないでよ。
私は、とうとう口にした。
「早く帰って!」
ママは何にも言わなかった。
足音が遠ざかって行く。
私の耳に、はっきりとこだまするその音。
痛みと一緒に、涙も熱くなっていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
私は、声をあげて泣いた。
しゃくり上げながら泣いた。
痛みが治まった後で扉を開けると、風呂敷包みの御重箱が、ちょこんと廊下に置いてあった。
一段目にはたくさんのおにぎり。
海苔が巻いてあるのが梅干し、ゴマは明太子、なにもないのは焼き鮭。
昔から変わらない、ママの決まりごと。
二段目には、卵焼きと昆布巻き。
そして一番上には、私の大好物のから揚げ。
その味を確かめたくて、私はから揚げにかぶりついた。
にんにくと胡椒の利いた柔らかいお肉の味が、口の中いっぱいに広がっていく。
ちっとも変わらない家族の愛情が、今の私には痛かった。
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