第11話 ホテルあばらや

その人の、ポケットの中身は何が入っているのかしら。

クッキーや、チョコレートやグミなら良いのだけど、得体の知れない何かが入っていて、それを目にした途端に私の人生は終わる。

マイクロバスの車内で、私はずっとそんな妄想に駆られていた。


「ほんとうですか?」


という言葉のやり取りの後で、その人は急に走り出したので、私も全速力で追っかけてはみたけれど、どんどん引き離されて、ついには見失ってしまった。

私は途方に暮れながらへたり込んでいた。

すると、砂埃を巻き上げながら近づいて来るマイクロバスが見えて、有難いことに目の前で停まってくれたのだった。

お陰で。健康的な妄想に取り憑かれているけど、あの場で放置されて、ミイラになるよりかマシだと思う。

マイクロバスは真っ赤な車体で、スマイル君やウサギが仁王立ちしているイラストが描かれてある。

大きな虹が輪っかになっていて、その中でピエロが尻餅をついている。

笑っている太陽のそばに、泣いている可愛そうな三日月。

ボディーの中心部の、アルファベットの白抜きの文字、私に希望を持たせてくれた。


HOTEL ABARAYA


運転席の男性は、眼鏡がとても似合う紳士で、ゆっくりとした話し言葉が印象的だった。


「宿をお探しですか?」


私は小さく頷いて車内に乗り込んだ。

助手席には、真っ白なワンピースの少女が座っていて、私を見るなりにっこりと微笑んでくれた。

その時に思ったのだけど、私の傷だらけの顔を見ても驚かないのは何故だろう。

まるで、全てを受け入れてくれてるみたい。

そんな不思議な感覚は、私をどこか遠くに連れて行ってくれる儀式に思えた。

後部席の私の隣には、その人が座っていて、相変わらずぶつぶつ言っていた。

よく見ると、両手が小刻みに震えていたけど、私も他人の素振りは気にしないでおこうと心に決めた。

だって、この人は私を救ってくれたのだし、急に走っていなくなったのも、この車を呼びに行ってくれたのだと信じたかった。


マイクロバスは舗装された通りを抜けて、険しい山道へと入って行った。

車が一台しか通れない細い道。

時折大木に掲げられた。

「あっち」

「こっち」

の、行き先案内板も気になったけど、私は気付かないふりをした。

触れてはいけないものには知らんぷり。

それは、愛情表現なのかも知れない。


「パパ、私ね、今年は海で泳ぎたいんだ。もちろん浮き輪でぷかぷか浮かんでいるだけでいいんだけど…」


少女は、真っ白な歯を覗かせて笑っていた。


「もうちょっとだね。今はまだ我慢しなくてはいけないよ。それに―」


「なに?」


「あこは泳げないじゃないか」


バックミラー越しに見える、親子のやりとりはとても微笑ましくて、私はなんだか羨ましかった。

あこと呼ばれた少女は幾つぐらいなのだろう? 

声は幼いけれど、顔立ちはとても端正で大人びて見える。

こんな妹がいたらいいなと素直に思えた。


「ねえ、お姉さん」


不意に呼ばれて、私は我に返った。


「私ですか?」


と、しどろもどろな返事を後悔する間もなく、明るい笑い声が車内に響き渡っていた。


「お姉さんはひとりしかいないよ。私はまだ子供だし、花屋さんはお姉さんじゃないもん」


「花屋さん?」


私が「その人」と呼んでいた相手が、男性であるのがこの時判明したけど、それは案外どうでも良い事実で、むしろ、花屋さんという愛称に驚いてしまった。


「こら、お客様に失礼のないように振る舞いなさい」


「あ。ごめんなさい…」


穏やかな紳士の声と。幼さくてか弱い声。

それと混ざって聞こえる、花屋さんの独り言。

車内には、ヨーロッパの絵本みたいな空間が広がっていた。

私はとても心地が良くて、本当の居場所を発見できた気がした。


「みみみ、みち、みつけけ、て、た」


花屋さんが、ポケットの中を探りながら言った。

見ると、パサパサに乾燥しきった一本の花を取り出していた。

あこちゃんは、それを受け取って匂いを嗅いだ。


「きれいなお花」


「よ、よ、よ、よい、よいか、か、か、かお」


「良い香りね」


「ほ、ほ、ほんとうですか?」


「ほんとうよ」


ふたりの会話を聞いていた紳士は、愉快そうに笑った。

紳士は安全運転だったけど、でこぼこ山道のせいで車内はすごく揺れていた。

陽はゆっくりと傾き出して。


「今はまだ真冬だったんだ」


と、私は実感した。


ホテルABARAYAは、険しい山道を抜けた丘の上に建っていて、赤レンガ造りの平屋建て。

左右対称に翼を広げたような外観と、窓という窓は全てがステンドグラスになっている。

ホテルというよりは、教会に近い神秘さを兼ね備えていた。

駐車場とは名ばかりの、狭い空きスペースにマイクロバスが停まると、真っ先に駆け降りたのは花屋さんだった。

紳士はあこちゃんの肩にそっと手をかけて、その華奢な身体を労わる様に支えながら歩いて行った。

私もその後をゆっくりと追った。

ふたりの背中を見ていると、パパの背中が思い浮かぶ。

幼い頃は、広くて大きかったパパの背中は、私が成長するに連れてどんどんとちいさくなっていった。

それは、とても淋しい現象だった。

紳士は、時折振り返りながら私を気にかけてくれた。


「もうすぐゆっくり出来ますからね。長旅だからお疲れでしょう?」


「あ、あの…」


「はい」


「なぜ、長旅だと思われたんですか?」


不意に出た言葉だった。

本当は素性を知っていて、放火犯の私の顔写真を、テレビで見たから長旅だなんて思ったのだろうか等々、不安が過ぎる。

紳士は笑いながら。


「服装ですよ。この辺りの島の人間なら、この時期は長袖一枚で充分なんです。気候も穏やかだし、真冬でも日向に入ると温かい」


「服装?」


「ええ、それ以上の理由など何もありませんよ」


私は、紳士のやわらかい声に安心した。

石畳の周囲には、色鮮やかな花々のプランターがずらりと並んでいる。

そのお花たちは、そよ風に揺れていて可愛かった。

いやだいやだと、駄々をこねている子供みたいだ。

ホテルの玄関の前で、花屋さんが。


「ホー、ホー」


と、声を出していた。

あこちゃんが。


「花屋さん、花屋さんはものすごく足が速いから、私たち着いていくのがやっとだよ」


「ほ、ほ、ほほほ、ほんとうですか?」


「ほんとうよ」


花屋さんは飛び跳ねていた。

魔法にかかった、おとぎ話の小動物みたいに。

ホテルABARAYAの玄関は建物の中央部分にあって、その、自分の背丈の倍の高さはある木製の純白の扉には、これまた不思議な絵画が施されていた。

ウサギの顔をした羽の生えた天使たちは、膨れた大きなお餅を取り囲んでいる。

よく見ると、手には銀のスプーンやフォークを持っていた。

天使たちを眺めながら、扉の四隅に猫の顔をしたお侍さんが、ほほ笑みながらその光景を眺めている。

私は考えた。

そっか、お餅はフォークでは食べられないんだわ…。

まほろば島のABARAYAの扉が、軋んだ音を周囲に響かせながら開いていく。

私の身体はゆっくりと、奇妙であたたかい木洩れ日の中に堕ちていった。



白い雲は甘い甘い綿菓子。

頭の上の真っ青な空は、私の髪の毛に触れるくらいに、懐かしい香りを漂わせ広がっている。

大きなストローをそこに突き刺すと、ソーダ水が私の喉を潤した。

足元の綿菓子をつまんで口にして、ソーダ水をごくごく飲む。

遠くの虹は飴細工。

綿菓子の切れ間から見える街並みは、クッキーやおせんべいや、スポンジケーキやカステラで出来ている。

たくさんの車のボディーはチョコレート。

タイヤはドーナツ。

高速道路は柔らかいクレープ生地で、そこを行きかう色鮮やかな車は、ポンポンと宙に舞いながらなんだか楽しそう。

ひっくり返ったり、跳ね飛ばされても安全なトランポリンロード。

とても愉快で、お菓子な可笑しな街。


ロールケーキを立て掛けたような電信柱のてっぺんには、イチゴやキウイやバナナや洋ナシがあって、私は届くわけもないのに手を伸ばしてみた。

すると、私を乗せた綿菓子は、イチゴを目掛けて一直線にぐんぐんと降下していった。

周りのふわふわ浮いている雲も、全てが綿菓子だと勝手に思い込んでいたのだけれど、身体や顔にぶつかる柔らかい感触で、その考えは間違っているのに気が付いた。

迫り来る、あのおおきな雲はメレンゲ。

私は笑いながら口を開けた。

ふんわりとろける隠し味。

答えはバニラエッセンス。

帽子みたいな形の雲は、濃厚なクリームチーズ。

かわいいトッピングのラズベリー。

蛇みたいな雲も迫ってきたのだけど、今度はちょっと様子が違っていた。

くねくねと身を躍らせながら、私の身体にぶつかって散ってしまったのだ。

ふと胸元を見ると、ぐにゃりとした冷たいものがこびりついている。

それを手に取って匂いを嗅ぐと白滝で、私はたまらず大笑いしてしまった。


「なにこれ?」


すると、頭上に影が出来て、真っ青な空を隠しながら、巨大な雲の塊が私に接近した。

仰け反ってよく見ると、それは四角い豆腐の塊で、遠慮なしにどんどん迫り来る。

乗っていた綿菓子も固くなっていて、私は潰されながらこんなことを考えていた。


「木綿豆腐? 絹ごし豆腐?」


そうやって、私のお豆腐サンドイッチの出来上がり。

霞掛かった目の前で、ペンギンさんが私をじっと見つめている。

赤色をしたペンギンさんはドングリの帽子を被っていて、黄色いマフラーをしていた。

大きな瞳は、何かを語りかけることもなく、私だけを―というより、私がペンギンさんの目線に立ち入っているだけかもしれない。

その証拠に、私が寝返りをうつと、ペンギンさんの視線から逃れることが出来たもの。

セミダブルのベッドは寝心地は良かった。

寝起きは清々しいものではないけれど、不思議な国の境界線と、現実世界とを行ったり来たりしていたせいか、身体はまだずしりと重たい。

ベッドにダイブした、昨夜には思いもしなかった。

それでも、レースのカーテンから差し込んでくる陽光は、まるで春の柔らかな日差しそのもので、私の心を解き放つには充分だった。

深く息をしてみると、タンポポの淡い香りが漂ってきそうなお日様の温もり―。

私は、それを身体いっぱいに浴びてから立ち上がって、ミニ冷蔵庫の中のミネラルウォーターを口にした。

壁掛け時計の針は、十一時ちょうどを示している。

私の肩や背中には針金でも入っているのだろうか。

関節を動かしただけで、バキバキと骨が鳴っている。

頭をぐるりと回す度に、天井に描かれた奇妙なペンギンさんと目が合うのだけど、私はお構いなしに、彼…彼女?を、無視し続けることに決めた。

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