傷女地獄

みつお真

第1話 災い

あなたの傷を私にください



心の傷は

生きている証


登場人物


藤倉未来 大学生

やっこ  未来の幼なじみ

ヤス   未来の大学の同期

ママ

パパ

おまわりさん


紳士(池田 秋人)

あこ(池田 秋子)

おしゃべり男(奥山 春男)

ジュディーさん(田中 夏美)

花屋さん(夏八木 聖)

作家さん(津田 利春)

絵描きさん(宮本 実冬)

ダンサーさん(秋吉 太一)


ゆきだるまくん

ペンギンさん

先生

看護師




私の身にふりかかる災いのはじまりは、大学を退学した後のことで、前触れもなく突然にやってきた。

自分で決めた人生だから、7年間の大学生活に未練もないし、後悔もしていない。これから先の生活には何の支障もないと思っていた。

だけど、友達や親戚に。


「学校は卒業したよ」


と、偽る自分に嫌気がさしていたのも事実。

何故なら、私は根っからの楽観主義者だ。

生きる意味なんて探さないし、運命や宿命も信じない。

将来はどうにでもなるし、今を楽しまないでどうするの?

限られた時間を、無意味な思考で無駄にするなんて人生悪。

私の揺るぎない哲学は、本質は変わっていないと信じているのだけど、今では空々しいだけのおまじないに聞こえる。

友達は社会人になってスキルを磨いて、結婚して家庭を築いたり、実家に戻って家業を手伝ったり、自分の人生を着実に歩いている。

私はひとり、取り残されている気がしていた。

だから、SNSは嫌いになった。


「それはそれで良いんじゃない?」


そう思えなくなったからだ。

私が大学に行かなくなったのは、学業がつまらなくなっただけの話。

彼氏と同じ時間を共有して、大好きな映画やドラマを見たり、音楽を聴いたり、原宿や下北でお気に入りの古着を買って、インスタで紹介された流行りのカフェでカプチーノを楽しむ。

そんな在り来りな生活を続けていたら、学業や就職に興味すら無くなって。


「意味のない人生なのだから、好きなように暮らしていこうよ」


と、私の中の誰かが、甘く囁いてくれたお陰で、望み通りの自由を手に入れた。

岩手の両親からの仕送りは、毎月申し分のない金額だったけれど、それでも欲望を満たしてはくれないから、カードで高い買い物を続けた。

大きな荷物を抱えた私を、彼氏は呆れ顔で眺めていたけど、いつも笑ってくれていた。

そんな彼氏にも不満はあった。

優しすぎるし物足りない。

もっと大人になって欲しいけど、男の色気には期待できそうもなくて、私はリアリティーの世界でマッド・デイモンを探した。

浮気を繰り返す度、虚構の自分に酔い痴れて、日常の中の非現実世界にのめり込んだ。女優気分で。


だけど…。


私はもう二六歳。

年齢を重ねる毎に、疑問は深まっていった。

結局、なんにも残らないんだもの。


私はだあれ?

私は何がしたいの?

私は私を楽しめている?

私は正直に生きている?

答えはノー。


彼氏とはこの前別れた。

理由は、詳しくは聞けていない、

別れの原因なんて知りたくもないから。

でも、かえって良かったのだと思う。

自分を見つめ直すキッカケになったのだから…。

それでも、私の心は必死に闘っていた。

あれだけ嫌っていた就職活動を始めたからだ。

ひとりで悶々と生活するにも限度があるし、出会いも正直欲しかった。

内定はどこからも貰えていないから、ぼっちにされた広すぎる部屋の中で、慣れない手つきで履歴書を書く毎日が続いている。

アンティークの壁掛け時計。

ふたりで買った、お気に入りのカウチソファ。

クローゼットの中で、山積みにされた大好きな洋服たち。

テレビなんてつまらない。

前はあんなに大好きだったのに。

無駄な時間が、加速度を増して過ぎていく。

証明写真が、思い詰めた私の顔を覗き込んで笑っている。


「あなたはただの愚か者よ」


だって。

私は、やりきれなくてシャワーを浴びた。

熱めのお湯が、全身を包み込んでくれる。

伸ばし続けていた髪の毛は、私の唯一の誇りみたいなもの。

念入りにシャンプーをして、コンディショナーで整えて、トリートメントで潤した髪の毛にタオルを巻く。

真っ白な肌は、以前よりは肌理が粗くなっていて、そろそろエステを予約しておこうかと考えてみたけどやめた。

身体を見られたくなかった。

私は、自分の左胸に手をあてて、何度もやさしくさすった。

脇の少し下の辺りから、胸の膨らみに沿うように斜めに入った大きな傷跡。

彼氏が部屋を出て行った夜に、ソファに座って泣きじゃくっている時に出来た傷だ。

最初はチクリとした痛みがあって、その後は焼けるような熱い感覚と、恐ろしく早まる動悸で息が出来なかった。

ソファから転げ落ちてのたうち回り、胸を押さえながら、酸素を求めて仰け反って、痙攣しながら天を仰ぐ。

次第に意識が遠ざかって、目の前がかすみ始めた瞬間、私の口から一気に空気が溢れ出た。

むせ返り、咳き込みながら洗面台の鏡に映る自分を見ると、目は充血していて涙がポロポロ零れていた。

唇の震えが止まらない。

ガチガチと、歯が重なり合う音がした。

心臓に手を当てて、深呼吸を繰り返す。

彼氏のことなんて忘れていた。

ドクンドクンと聞こえる生命の鼓動。

いつもよりも早いその音は、私の後頭部と耳の後ろを熱くさせた。

胸に違和感を覚えたのはその時だった。

指先に伝わる、いつもと違う感触。

気になってシャツを脱いで、私は思わず息を呑んだ。

紫色をした、大蛇のような長い傷が、みぞおちから左胸を斜めに抜けて、脇の下へとのびていた。

出血はなく、傷の周りは赤く腫れていた。

私は消毒薬を塗って、傷に触れない大きな服、出て行ったばかりの元彼のTシャツを着て、タクシーで救急病院へ向かった。

診察を終えると、医者がはっきりと言った。


「原因は解りません」


やさしそうな美人の先生。

もう日付は変わっているのに、この人には彼氏はいないのかしら?

年齢はいくつくらいなのだろう。

あたしとは全然違うんだわ…等々、関係のない事を考えていると、先生の静かな声がした。


「ストレスを感じている事はありますか?」


私は薄笑いを浮かべた。

彼氏と別れたばかりなんです、そうは言えなくて。


「毎日のように…」


と、だけ答える。

別れを理由にしたら、負けた気がするから強がって見せた。

先生は、私を見ずに。


「心の病気は身体に現れる事もありますから、急に耳が聞こえなくなったり、右半分の顔だけが赤く腫れたりする、そんな患者さんもいらっしゃいます」


「こんな傷が出来る事もあるんですか?」


「いえ、何もしていない状況でこのような傷が出来るとは考えにくいです。でも原因にストレスがあるすれば、その治療が最優先かと思います。紹介状を書きますから、一度そちらの病院で診療されてみてください、安心できる心療内科です」


私は黙って頷いた。

きっと先生は、自傷行為を疑っているのだろう。

丁寧に言葉を選びながら、ゆっくりと話してくれているからわかる。

もちろん、自分で傷つけた訳ではないから、心療内科へは行かなかった。

あれから1週間。

傷は次第に薄れてはいるものの、まだ私の身体で居座りを続けている。

身をくねらせた寄生虫のように。

私は、頭に巻いていたタオルを取って、髪の毛の水分を念入りに拭った。

自慢の髪にまで、寄生虫に侵されそうで怖かった。




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