第21話 フラッシュバック
あたしはバルコニーから朝焼けの空を眺めていた。
幼い頃、ラジオ体操に出かけた時の思い出はいつも朝焼けの空。
毎日そうではなかったけれど、ママに連れられて、嫌々ながらに早起きした朝の空が印象的だったのだろう。
その記憶は今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。
フルーツみたいな色の空。
東の彼方のマンゴーとパパイヤ。西に進むとブルーベリーの中に透けて見えるプラム。
ぽつんと淋しそうな白いお月様。
あの日に見た空と同じ色の下で、あたしはひとりで泣いている。
何故だろう。涙が止まらない。
オオルリの鳴き声が聞こえる。ヒバリのさえずりも聞こえる。それなのに、あたしの涙は止まらなかった。
時間はいつもと同じように流れている。
早起きしても、シャワーを浴びても、歯磨きをしていても、眠ろうとしても、食堂や中庭やホールの隅でもあたしは泣いていた。
みんなはわからない。
あこちゃんがいなくなって、花屋さんはあまり部屋から出なくなってしまった。
作家さんもそうだ。
ダンサーさんは外れ劇場の客席に座ってステージを見つめている事が多くなった。
絵描きさんは気丈に振る舞ってはいるけれど、毎日まぶたが腫れている。
ジュディーさんは紳士と一緒に、東京大島の火葬場へと一昨日向かった。
おしゃべり男は、みんなであこちゃんの最後を見届けた後に行方をくらましてしまった。
絵描きさんは「心配しないで、いつものこと」と言っていたけれど、あの日の出来事がショックだったに違いないとあたしは思っている。
三月十日の夕刻だった。
みんなであこちゃんの部屋に集まって、それぞれの想いを伝えていた。
あこちゃんは目を閉じて、眠っているだけのようにも見えたけど、酸素マスクで呼吸をしているその息づかいはとても弱々しかった。
小さなモニターに映し出された心電図の波はとても長い波動を描いている。
それでもあこちゃんはきっと聞いてくれていたと思う。時折、目頭がかすかに動いたりしていたから。
あこちゃんとお話しする時は、みんなは必ずあこちゃんの手を握った。
あたしは両手でその手を包み込んだ。少しでも繋ぎ止めておきたかったから―。
「あこちゃん。あたしね、もっともっと一緒に出かけたりしたいな…あたしね…あこちゃんと一緒に旅行したり、お買い物したり、おいしいもの食べに行きたいんだ…ビーフシチューのおいしいお店、あたし知ってるよ…だから…行こうよ。ね。行こうよ」
あたしには、それ以上の言葉はかけられなかった。
紳士があこちゃんの頭を撫でながら語りかける。
「あこ。よかったね…お姉ちゃんだよ…。あこが前から欲しがっていたお姉ちゃんがさ、あこの目の前に現れたじゃないか…」
あこちゃんの頬に、一粒の涙がこぼれ落ちた。
ダンサーさんは何も語らなかったけど、あこちゃんの手に幾度も頬ずりをしていた。ジュディーさんは「ありがとう、ありがとうね」と涙ながらに感謝して、絵描きさんは「また一緒に暮らそうね。必ず」と語りかけた。
おしゃべり男は部屋の隅で目を真っ赤にして泣いている。作家さんはあこちゃんの頭を撫でるだけで何も言わなかった。多分、何も言えなかったのだろう。
花屋さんはまだ状況を受け入れられないのか、紳士があこちゃんへの言葉を促しても首を横に振るだけだった。
そして心電図の波動は線を描いて、酸素マスクから聞こえていたかすかな息づかいもなくなってしまった。
二十一時〇三分、お医者さんがそう告げると、紳士は「ありがとうございました」と頭を下げた。室内のすべての音が消えた。
「ほ…」
花屋さんの声がした。
何度も首を横に振っている。
「ほ、ほ、ほ、ほんとうですか?」
何度も何度も、誰に問いかけるわけでもなく呟いていたけど、それに返す言葉をみんなは失っていた。
「ほ、ほ、ほ…」
花屋さんは隣にいたおしゃべり男に詰め寄っていた。
「ほんとですか!ほんとですか!ほんとですか!」
おしゃべり男は何も言えずにいた。
花屋さんの声は大きくなっていった。室内にはその声だけが響いていた。
「ほ…あ、あ、あれ…前言ってた!命、よみがえらせて!出来るって、出来るって言ってた!い、い、い、今!やって!」
おしゃべり男は泣きながら言った。
「俺…俺…」
「や、や、やって!言った!言ってた!あ、あ、あ、あれ、よよよ、よみがえらせて、く、く、く、ください!」
花屋さんはおしゃべり男に掴みかかろうとしていた。その時だった。みんなにもはっきりと聞こえた。それは奇跡の音だった。
あこちゃんの酸素マスクから、長い呼吸音が三秒間ほど聞こえたのだ。
看護師さんがあこちゃんの頭を撫でながらこう言った。
「あこちゃん、偉いね…偉かったね…ちょっとだけ戻ってきてくれたんだよね…みんな喜んでるよ…よく頑張ったね。もう大丈夫だからね…安心してね…」
看護師さんも泣いていた。先生も泣いていた。
ベッドの上ののあこちゃんは、穏やかに笑っているみたいだった。
―オオルリやヒバリのいつもと変わらないさえずり。いつもと同じ時間の流れ。
いつものように風にざわつく木々。バルコニーの手すりの冷たい感触や扉の重み。それらが今のあたしには残酷だった。
それでも自問自答しながら堪えなきゃと思っている自分がいる。だけど「もっと悲しんでいる人はいる」と、心の声がする。
わかっているけど、涙は止まらない。
「あたしは偽善者? そうじゃない! 悲しんでいる自分に酔いしれてるの? そうじゃない! 出会って間もないじゃない?どうしてそんなに悲しいの? だって本当に助かってほしかった!少しでも元気になってもらいたかった!妹みたいにかわいかった!それじゃ駄目なの?泣いたらいけないの?」
あたしは心の中で何度も問いかけては答えていた。
灰色の雲は太陽に覆い被さるように朝日を遮っている。
あたしの瞳からは、涙があふれ続けている。
ママやパパが恋しくなった。無性に聞いてみたくなった。泣きはらしたぐちゃぐちゃの顔で、あたしはとぼとぼと歩き始めた。
「泣いたらいけないの…」
と呟きながら。
行き先は決まり切っていた。
あこちゃんとみんなで最後に過ごした場所。
非日常な世界の中で、たったひとつだけの穏やかで楽しい時間を過ごせた日常の空間。
ありふれた光景―どこにでもあるけれど、なかなか見つからない世界は食堂しかなかった―。
家族の団らんが、そこにはあったように思う。
あたしは今まで何不自由なく暮らしてきたけれど、身体中に傷が現れ始めたあの日からはひとりぼっちで生きていた。
だからたまらなくあの食堂での時間が愛おしかった。
笑い声、素敵な匂い、みんなとの会話があたしの心にフラッシュバックしている。
それを思うと、忘れなきゃいけないのかもしれないけれど、涙はいつまでも流れ続けている。
そこに意味などなかった。
「それはただの甘えでしょ? 本当にあこちゃんがいなくなった事への涙なの? 自分の境遇への慰めなんじゃないの?」
またあたしの心で声がする。
あたしはそれと対峙しながら歩き続けている。ホテルの二階フロア。ホールへ通じる階段。カウンターを通り過ぎて扉の前で立ち止まる。
あたしは思い出した。
いつかここで、紳士とあこちゃんの秘密の会話を立ち聞きしたことを。
今思えば、あの時すでにあこちゃんは何かしらの覚悟を決めていたのだと思う。
「あなたはただの愚か者よ」
ずっと無視していた心の声に我慢できなくなって、あたしは想いをぶつけた。
「そうかもしれないけど、なぜそこまでひどいことを言うの? なぜあたしをそんなに責めるの! どうすればよかったの! どうしたらいいの…どうしたら…」
あたしは扉を開けた。
目の前に薄暗くて、冷たい空間が広がっていた。
誰もいない。
おいしい匂いもしない。
笑い声もない。
あるのは大きなテーブルと椅子。
ジュディーさんの歌声も聞こえない。
おしゃべり男の声もしない。
作家さんの独り言も聞こえない。
紳士の微笑みも、あこちゃんのかわいい声もしない。
ダンサーさんどこに行ったの?
花屋さん出てきてよ。
絵描きさん、ひとりにしないでよ!
あたしは泣き崩れた。
また心の中で声がする。
「泣いたら済むと思っているから駄目なんだよ。いつもそうじゃない?」
あたしはふらふらと立ち上がって、キッチンへ向かって行った。
「泣いたらいけないの…泣いたらいけないの…」
それしか言葉は出てこなかった。
シンクの脇に果物ナイフが見えた。
あたしはそれを手に取ると、左の手首に押し当てた。
安心した。不思議と心が落ち着いてくる。
それでも心の声は聞こえる。
あたしを笑っている。
罵っている。
叱っている。
馬鹿にしている。
涙で視界がぼけてしまった。頭の中も霞が広がっているみたいだ。
視線の先に、あたしが以前につけた傷が見えている。左手首に蠢くような蛇の跡―。
これがあたしなんだ…。
氷みたいに冷たい果物ナイフの感触が手首に伝わると、あたしの気持ちは抑えられなくなっていた。霞んだ世界で、またひとりぼっちになってしまった。
望んでもいないのに…。
「藤倉さん」
と、背後で声がした。
聞き慣れた声だったけど、名前で呼ばれたのは久しぶりだ。
振り返ると、絵描きさんが立っていた。
涙と鼻水であたしの顔はパンパンだ。頬が熱い。まぶたも重たくて…でもこれが今のあたし。正真正銘のあたしの姿。
絵描きさんはゆっくりとあたしに近づきながら語りかけてくれる。
幻覚でもなく幻聴でもない本当の世界。
絵描きさんは微笑みながらあたしに語りかけてくれている。
「やめなよ…」
あたしは声が出なかった。けれど、しゃくり上げながら泣いていた。
「やめなよ…」
「…」
「辛くなったんでしょう?」
「…」
「淋しくなったんだよね?」
あたしは何度も何度も頷いた。息が苦しい。足も震えている。
だけど頷き続けた。
「ひとりぼっちだったんだよね?」
あたしの涙は止まらない。
恥ずかしさもない。
これがあたしなんだ。
生まれて初めて人に見せたあたしの、ありのままの飾らない姿なんだ。
子供のように、駄々をこねた子供みたいにあたしは泣いた。
絵描きさんはあたしの手を取った。両手でしっかりと、あたしの左手を包んでくれた。
果物ナイフが床に落ちる。乾いた音が響いた。
あたしの左手首の傷を、絵描きさんは優しくさすりながら言った。
「でもさ…」
「…」
「でもね…」
「…」
「そんなにがんばらなくてもいいんだよ…」
あたしはその場で泣き崩れてしまった。力がすぅっと抜けていった。
絵描きさんはしっかりとあたしを抱きしめてくれている。
その手が、その声が、その髪の毛の匂いも息づかいも全部、温もりとなってあたしの心に響いている。
あたしは聞いた。うまく声にならなかったけど、絵描きさんは顔をあたしに近づけてくれていた。
「…泣いたら…あたしは…泣いたらいけないの?」
絵描きさんはにっこりと微笑んだ。そしてこう言った。
「もう泣いているじゃない」
あたしは絵描きさんの胸に顔を埋めながらむせび泣いた。
背中に伝わる一定のリズムはママと同じだ―。
遠くの方から聞こえるオオルリのさえずり。
ヒバリやキビタキの声もかすかに聞こえる。
春を告げる音だ。
満開の桜も風に舞っているだろう。
綿菓子みたいに真っ白な雲。ソーダ水みたいなあまい空。
涙は涸れたりはしないんだ…あたしは気が済むまで泣いた。
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