第4話

 二日後。


 渡瀬は雨を見ていた。

 談話室の窓辺に腰かけた彼は窓の外で降りしきる秋雨を何をするでもなく、ただ見つめていた。彼の手元にはスクラップブックがあった。

 それは昨日、スタッフたちに見守られながら静かに息を引き取った金子が残したものだ。


 表紙に手を置き、静かに呼吸をすると様々な思いが脳裏に去来する。

 自身の七四年に渡る人生は、一体何だったのだろう。何のために生き、自分は何を成したのか。

 後悔を断ち切ることは難しかった。何も、父親らしいことなど何もしてやれなかった。そしてその結果が、この孤独だ。

 だがそれも我が人生と割り切ることも出来る。最後の最後で孫にそう気づかされたのがせめてもの救いではなかったか?


 孫の晴れやかなウェディングドレス姿が頭を過った。

 もう心残りはない。

 渡瀬は老眼鏡をかけ、スクラップブックのページを強く掴むと、めくり始めた。

 読んでいなかったのは最後の六回分。これを読み切ってしまうと自分は死ぬ。今の彼には強い確信があった。

 受け入れてしまえば、左程の恐怖は感じなかった。胸の激しい動悸は、物語の結末を読む興奮だと自分に言い聞かせた。

 ゆったりとした時間が流れ、一話、また一話と渡瀬は話を消化して行く。面白さは相変わらずだ。

 終始、気の抜けない展開と激しいカタルシス。死の事も、家族の事も少しの間は忘れることが出来た。


 最終回―そう書かれた文字をなぞるシワ塗れの指先。

 深呼吸をすると、渡瀬は老眼鏡を整え直した。


と、けたたましい電子音に彼は手を止める。彼の携帯が鳴っていた。


 ディスプレイには孫の名前。

『もしもし、おじいちゃん。私、子供が出来たの』

 電話口で孫娘は明るく、そう伝えた。

『でね、おじいちゃんに名前、つけてもらおうと思って』


 電話を切った渡瀬は激しく動揺した。ひ孫が誕生するという喜び半分と、たった今受け入れかけた死を突き放さなければならないという不安。

 孫の話では今、妊娠一ヵ月。少なくとも一年は待たねばならない。

 小説の結末と孫との約束。

 迷う間もない………はずだった。

 

 スクラップブックを閉じようとした手が震えていた。視線を落とすと、無意識に文字を追ってしまう。残りはあと五千字程度。たった五千字の中に謎が謎を呼ぶストーリーの結末が詰まっている。それは凄まじい誘惑だった。

 しかし、この五千字の中には同時に自分の命も握られているのだ。

 読んではならない― 渡瀬はスクラップブックを閉じるより先に、眼鏡を放り投げた。ぼやける視界では、肝心の小説は物理的に読めない。

 手探りのまま本を閉じると、渡瀬は胸を摩り、気分を落ち着ける。あと一年。何があっても生き続けるのだ。最後に、せめて家族らしいことをしてやる。


 その時だった。

「グスタフの遠吠え。作 天里あまり 亜里あり 最終回。超列車砲グスタフは―」

 低音のハキハキとした男性の声が談話室に響いて来た。かすむ目で見回すと、遠くの席に一人座った老婆がぼんやり見えた。

 江川さん― 渡瀬は直感した。目が不自由で朗読された小説を聞いているのだ。

 止めなくては。渡瀬は這いつくばって、投げ捨てた眼鏡を必死に探した。目は閉じることが出来ても、耳は自分から塞ぐことは出来ない。指で耳朶を塞いでみても、遠くの方で朗読はシッカリと聞き取れた。


 探すことを諦めた渡瀬は速足で、老婆の元へ駆ける。途中、何度も机にぶつかり、よろけながらも駆けつけた彼は、机の上に置かれた黒い棒状のスティックを掴み上げた。

 それが音楽プレーヤーであることは、きっと普段であれば即座に分かったであろう。しかし、この状況。朗読は容赦なく進み、未読の五千字をやすやすと通過して行く。

 この音をどうやって止めるか、今の渡瀬の頭にはそれしかなかった。

「な、なにするんだい!」

 江川が伸ばしてくる手を振りほどき、渡瀬は地面にそれを叩きつける。それでも音は止まらなかったので、彼は幾度となくプレーヤーを踏みつけた。

「私の! 私の!」

 叫ぶ老婆に渡瀬は怒鳴り返した。

「私は、私はまだ死ぬわけにはいかないんだッ!」




 74回目の一年。それは渡瀬が過ごした中で最も長い一年だったのではないだろうか。日を紡ぐ小説とは違い、今彼が目指しているゴールは遠く果てしない。それは長い孤独だった。心を許した老人たちは去り、産気づいた孫はしばらく顔を見せなくなった。

 孤独が心を蝕み始めると、逃げ場を求めるように心の奥から誘惑が立ち昇って来る。小説の結末を知りたい。彼は猛烈なその欲求が沸き上がる度に、孫との約束を思い返す。約束を果たすことは、これまで顧みなかった家族への償いなのだと自分に言い聞かせた。

 彼の決意とは裏腹に、肉体は急激な衰えを見せ始め、次第に歩くことはおろか、ベッドから身を起こすことすらも苦痛が伴うようになって行った。小説を途中まで読んでしまった事で、体が死への準備を始めていたのだ。

 それでも彼は生き続けた。


 やって来た孫娘の顔は、もう何年も会っていなかったかのような郷愁に満ちていた。ベッドから身を起こすと、彼女の夫がしきりに挨拶するのも聞かず、腕の中に抱きかかえられた赤子を見つめた。

 その、なんと愛おしいことか。

 言葉を発するより、涙を噛みしめることで精一杯になる。

「女の子」

 孫娘から渡された曾孫を抱くと、ずっしりと重かった。命の、一年間待ち続けて来た命の重みだった。


 つぶらな瞳は自分の娘や妻を内包している。確かにこの子は自分の家族だ。そう思うと、自然と笑みがこぼれた。

「おじいちゃん。約束、忘れてないよね」

 赤ん坊をあやす渡瀬に孫が言う。

「ああ。忘れてないとも。名前は、ひまりだ」

「ひまり………いい名前」

 孫は口の中で何度かその名前を繰り返すと、夫と顔を見合せ、嬉しそうに微笑む。それを見て、渡瀬もホッと胸を撫で下ろした。

「色々考えてくれたの?」

「いや、女の子だったら、最初から決まってたよ」

「え? どういうこと?」

「ひまりは元々、娘に付けようと思っていた名前だ」

「お母さんに?」

「ああ。娘には何もしてやれなかったからな……せめて……」

 寂しそうにつぶやく渡瀬を見た孫娘の旦那は声をひそめて言った。

「やっぱり、お義母さんも部屋に呼んだ方がいいんじゃないかな………?」

 孫は少しの間、黙って渡瀬を見つめると、思い立ったように部屋を出て行った。



 少しして居室に戻って来た孫は、渡瀬の娘と一緒だった。

 対面するのは実に数年ぶりだ。二人は言葉無く、視線を逸らし合った。孫夫婦達は、やるべきことはやったと言わんばかりに、音もたてず赤子を連れて部屋を出て行く。


 凍り付いたような沈黙が部屋に漂い、一言

「久し、ぶり………」

と、娘が言い、渡瀬もそれに短く返した。

 それきり、また二人の間には沈黙が戻った。

 まともに言葉を交わし合ったのは下手をすれば数十年ぶりかもしれない、渡瀬は思った。言うべきことは山とあった。だが、何から言いだせばいいのか。尻の座りの悪さはどう誤魔化せばいいのか、誰も教えてくれない。


 黙ったまま、娘はベッド脇の椅子に腰を掛けた。大きなため息と、乾いた呼吸音以外に部屋に音はない。

 唐突に娘が発した言葉を渡瀬は聞き逃し、尋ね返した。

「名前。あの子の子供の名前」

「ああ、名前」

「あの子に聞いた、私に付けるつもりだったって………」

「…………すまんな。………すまんな。何も、してやれなかった。父親らしいことは何も」


 彼女はバッグから何かを取り出すと、横たわった父親のベッドへそれを載せた。

「本は読んでくれた」

 驚きの顔で娘の手元を見る。『グスタフの遠吠え』と書かれた一冊のハードカバー本が握られていた。

「それは………」

「あの子に聞いた。これ読んでたんでょ?」

「途中………までだけどな」

「よかった。頭から読むことになったらどうしようかと思った」

「え………?」

 娘は渡瀬の方を少し見て、微かに口角を上げると本を開き、読み始めた。

「終章、超列車砲グスタフに陽光が当たる。大佐の顔が―」

 清閑な部屋に娘の声が響く。暖かなその声に載せて語られる物語の結末。

 老人は静かに目を閉じた。



おわり

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おやすみ、老人 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

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