第3話
時間の感覚とは曖昧な物である。
歳を取れば取るほど、体感している時間は短くなっているはずだったが、あの小説に出会ってからは、大幅なブレーキをかけられているように、一日一日が引き延ばされていた。
気づけば、半年。
いつかは飽きるのではと言う不安も、既に時の彼方へ置き去りにしていた。今や朝一で新聞を受け取り、朝食までの間に今日の分の小説を読み終えるのが、渡瀬の日課になっている。
物語はいよいよ佳境に入り、面白さには拍車が掛かかっている。話の展開を巡る入居者同士の会話も弾んだ。
「なんか最近元気そうだね」
何時ぶりかに顔を見せに来た孫に、そう言われた渡瀬は驚いた。
気にしていなかったが、確かにこの半年、気持ち的な沈みや疲弊はない。むしろ、前以上に日々を楽しんでいる。理由は考えるまでも無かった。
小説の事を話す渡瀬を見て、孫娘は嬉しそうに笑う。
「へぇ、よかったじゃん。やっぱり私の言った通り」
「お前の言う通りにしてよかったよ」
そう返すと、孫は大きく息を吸って少し躊躇いがちに、渡瀬を見据えた
「じゃあさ、もう一個だけ。私の言う通りにしてほしいことがあるんだけど」
彼女は渡瀬の返答も待たずに、続けて言う。
「私ね、結婚するの。来週、結婚式も。だから、おじいちゃんも来てよ」
娘を見たのは数年ぶりだった。老人ホームへ捨てられるも同然に連れて来られて以来だ。孫の結婚式は見事な物で、成長した彼女の姿に涙を流したが、感動すればするほど、娘の式に出なかったという罪悪感が重しのように圧し掛かって来た。
これを期に弁明をしようと思うのは自分勝手だろうか― そんなことも考えたが、結局娘とは一言も口を利かず、言うべきことも、伝えることも、何も、出来ずじまいだった。
それでも、孫の新居で過ごした一週間はいい刺激になった。世の中的に言えばもう若いとは言えない孫の世代でも、彼からすれば新鮮さ溢れる存在だ。老人ホームでは味わえない感触が彼の気持ちを満たしてくれた。
心残りがあるとすれば、件の小説が読めない事だった。孫の家が新聞を購読していないのであれば仕方がない。今どき、律儀に新聞を取っている人間はそう多くはないのだろう。
結婚式を終え、一週間ぶりに戻って来た老人ホームには奇妙な圧迫感が充満していた。
その理由は直ぐに分かった。
入居者が亡くなったのだ。それ自体は珍しいことではないのだが、問題は数だった。渡瀬がスタッフづてに聞いた人数は四人。
確かに死を待つ老人が集まっているとはいえ、一週間で四人と言うのは気持ちのいいものではない。その中には、小説を読んでいたあの新沼という老人も含まれていた。
「終わったんだよ」
幾らかの空席が目立つ食堂で、横に腰かけた金子が言った。
「終わった?」
「例の小説」
渡瀬は少し、考えて顔を上げる。
「ああ、もう完結したんですか」
金子は渡瀬の方を向かず、小声で話しながら朝食を摂る老人達を眺め、大きな息を吐いた。
「だから、死んじまったんだよ」
「へ?」
金子の鋭い声に手を止める。
「あんた、千夜一夜って知ってるか?」
「アラビアンナイトですか?」
「シェヘラザードが毎晩、話を続きのまま終わらせたのは、王様を飽きさせないためだ。王様の興味が尽きない内は殺されないからな。それと同じだ」
「まさか」
渡瀬は神妙な顔をする金子を笑い、パンを手に取ってちぎる。
「じゃあ、なんです? もうお話が終わって興味が尽きたから死んでしまったと、そういうわけですか?」
「言っただろう。ここにいる連中は皆、何の目標も、生きる希望も無かったんだ。でも、あの小説が命を繋いでいた。せめてあの続きを読み終えるまでは生きていようってな」
「じゃあ、なぜあなたや、その他小説を読んでいた人たちは死なないんです」
渡瀬はきっと金子は言葉に詰まると思った。だが、彼は重苦しそうにすぐ口を開いた。
「俺は………まだ結末を読んでいない。あんたが結婚式に行ったあと、腰をやってな。数日は小説どころじゃあなかったんだよ。ほかの連中もきっとまだ読み切っていないんだろう」
突拍子もないその話に笑止千万だった渡瀬も、三日経つ頃には金子の話を信じる方へ気持ちが大きく傾き始めていた。
また、二人入居者が死んだのだ。
二人とも件の新聞小説を追って読んでいた読者だっただけでなく、その内の一人が新聞を、それも小説の書かれた面を握りしめ、満足気な表情で逝っていたのである。
老人が言った言葉が頭の中で反芻する。
完結するまでは死ねん― では、完結したら………? 死の事を考えると、渡瀬の手
が小説に向かうはずがない。
しかし―
「じゃあ、俺達は何の為に生きてるんだ」
金子は言った。
「私も、妻に先立たれ、会いに来る家族ももういない。夢も希望も無く生きている。あの小説だけが生きがいだったんだよ。だったら、何を恐れることがある。確かに死は恐ろしく怖い。今までの自分がそこで終わってしまうと思うと、震えが止まらなくなる。だが、あの小説の結末を知らないまま死ぬ方が、俺は怖い」
渡瀬には返す言葉は無かった。金子の声は、まるで自分自身にそう言い聞かせているように落ち着いていた。
「渡瀬さん。俺が死んだら、このスクラップ、あんたにやるよ」
悲壮感のない金子の顔が、窓ガラスに反射していた。
つづく
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