第2話
目がじんじんと痛む。
老眼になり始めたばかりの頃はそれなりに防止策を講じて、何とか歯止めを効かそうと試みたが全て失敗に終わり、老化に任せていた。
コメ粒ほどの小さい文字群は老眼鏡無しでは読めない程に小さく、話を読み進めていくのには人の倍以上の時間が掛かった。
翌朝、朝食を摂る為に食堂へ降りて行った渡瀬は、強い力で目頭を揉んだ。窓から指すような日差しは疲労の溜まった眼球には堪える。
彼は食堂奥の席に金子を見止めると、速足で近寄った。
「これ、ありがとうございました」
声で振り返った金子は、渡瀬が手に持っていたスクラップブックを見て驚く。
「あれ、面白くなかったかい?」
その逆だ。
彼も最初は数ページ読むだけで、やめるつもりだったのだ。しかし、平易でそれでいて巧みな文章と、絶妙なセリフ回し。そして手に汗を握る謎が謎を呼ぶストーリー。
憎いことにストーリーは毎度、絶妙にいいところで終わる。これからどうなるのか?この後主人公たちはどうなってしまうのか。
続きを読ませるために書いていると分かっていても、読む手は止まらなかった。
結局、渡瀬は一晩かけて新聞小説を最新回まで読み切ってしまったのだ。
金子は充血した渡瀬の目を見て、ニッと歯を見せる。
「渡瀬さんもハマってしまったようだねぇ」
「ええ。久々です。徹夜したのは。毎回いいところで終わるので、休まる暇もないというか」
金子は声を出して笑うと
「だろう? あんた、子供いるかい?」
そんな事を言った。
渡瀬は驚いて
「え? はい。いますけど……」
「じゃあ、夜寝る前読み聞かせとかしてやっただろう?」
渡瀬は金子の言葉に、口を半寸ほど開いて静止してしまった。
「ん? しなかったか?」
いや、していた。渡瀬はたった今その事を思い出した。唯一、娘にしてやった父親らしい事。それが夜寝る前の読み聞かせだ。だがその理由は情けない物だった。
娘と直接会話をするのが、妙にくすぐったかったのだ。それで、せめて何か接点を持とうと始めたのが、就寝前の読み聞かせだった。無論、数回程度。渡瀬でも覚えていなかったのだ。娘は記憶にすら残っていないだろう。
「子供に読み聞かせてやる時にはな? 毎晩決まっていいところで終わらせてやるんだ。すると当然子供は、続きはどうなったの?なんて催促してくる。それが面白くってさ。俺は絶対そこまでしか読まない。むずがる坊主を、続きはまた明日、おやすみって寝かしつけてやったもんだよ。それと一緒」
思慕の念が入り混じった金子の口調はどこか嬉しそうだ。
「今度は我々が続きはまた明日、おやすみ、と言われる番というわけですね」
頷きながら金子は続ける。
「続きをねだる子供は真剣なんだよ。それが不思議で堪らなかった。そんな一日もかけて期待することか、って。でも今なら分かる。明日が待ち遠しいという感覚。それが若さなんだよ。きっと。ここにいる老人達も一緒さ。みんな残された時間をどう過ごしていいのか分からず、ただただ時間だけが過ぎていく。でも、続きが見たいとか、新しい物への探求心、追及心なんかがあれば、もう少し長く生きたいと思うだろ? だから、この小説なんかはいわば私達の原動力なんだよ」
斜め向かいに座っていた老人―新沼が笑った。
「わしゃあ、この小説が終わるまで死ねんでの!!」
「そうじゃな! 死ねん!死ねん!」
追従するようにその隣の老婆が声を上げると、食堂中に伝播して行った。
精神の老化を防ぐ方法、それはこんなことだったのか― 渡瀬の胸をかつてない高揚が包んだ。
つづく
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