おやすみ、老人
諸星モヨヨ
第1話
年老いていくのは肉体だけではないのだと、
残された時間を無為に消化して行く感覚は、日に日に強くなる。が、それも無理はない。
渡瀬はその人生すべてを仕事に捧げて来た。時代の所為もあったし、彼の気質がそうさせた部分もあった。休みなくというのは全く比喩ではない。本当に毎日、365日、24時間働き続けた。仕事のために生きているような人間、それが彼だ。
結果、地位も名誉もそして三人の家族が暮らしていけるだけの潤沢な資産も手に入った。
だが、そんな彼でも、家族からの愛だけは終ぞ手に入れることが出来なかった。
それについて悲観的な気分になるつもりはなかった。彼自身、家族を(目に見える形では)愛してこなかったのだ。テイクだけは貰えない。
それでも、妻が先立った後、娘夫婦が有無を言わさず老人ホームへ自分を入居させたときは、流石に心が揺らいだ。
介護が必要な体ではない。血を分けた我が娘は、自分とただ暮らすことすら拒んだのだ。家族と言う一団を追い出されたも同然だった。
一人なってしまうと、自分には何もないことに気づいた。
目的地を失った旅行は散漫になる。仕事と言う人生の目的地を無くした彼には今、何も残っていなかった。
することも、楽しみも無い。日がな一日、時間を浪費して行く日々。それは驚くべきスピードで心の中にある若さや活力までも奪っていく。
渡瀬は今、心身ともに確かな死へ向かっていた。
「なにか、趣味を見つければいいんじゃないの?」
そう言ったのは彼の孫娘だった。顔を見せに来るのはもっぱら彼女だけ。それも1人だ。不思議な感覚だった。孫に対してだけは、ありのまま、自然体で接する事が出来る。それが娘に心を開いてこなかった反動なのか、それとも反省の気持ちから来る物なのか、彼には分からなかった。
二十代後半に差し掛かった孫の顔が時折、娘と重なる。
目鼻立ちがよく似ていた。
「趣味か………」
「おじいちゃんって趣味あるの?」
首を振った。仕事一貫で生きて来た彼に、時間を潰すような趣味は皆無だった。四六時中仕事の事を考えていたのだから、暇をつぶす必要はない。
「ずっと、ぼーっとしてるよりかはさ、なんか自分が楽しめる物を探した方が、私はいいと思うな」
孫にそう言われた次の日、食堂で隣に座っていた老人が渡瀬に話しかけて来た。
「渡瀬さん、本読みますか?」
中肉中背で、頭髪が焼け野原ほどしかもう残っていないその老人は―
食後のコーヒーを口に運んでいた渡瀬は咄嗟に聞き返す。
「いやね、渡瀬さん。入居してきてからこっち、ずっと一人で過ごしてるでしょ? だから、よかったら暇つぶしでもと思ってね」
金子はそう言いながら、渡瀬に一枚の紙を渡した。
ざらついた紙質と、鼠色。敷き詰められるように配された文字はぼやけて読めなかったが、正体は直ぐに分かった。
「新聞………ですか?」
「ええ、でも記事じゃあないよ?」
金子はそう言いながら、胸ポケットに掛けられた老眼鏡を取り出す。
「新聞小説ですよ」
渡瀬は頷きながら眉をしかめ、ピントを合わせる。『グスタフの遠吠え』と大きな書体で書かれたタイトルと、第364回という副題が見えた。
「昔はよくあったんだけどね、今どき新聞小説なんて珍しいでしょう?」
「面白いんですか?」
「そらあもう。面白いのなんの。ほら、そこの新沼さん。それからほれ、あの村上さん。そんからそこと、そこと、そこも。ここにいるみんな読んでるって言ってもおかしくないね」
金子は手に持った老眼鏡で食堂の中を指して回ると、やっと自分に掛けた。
「私も読んでるよ」
しわがれた声に振り返ると、一つ後ろのテーブルに着いた老婆が笑っていた。
「あんたは、読んでんじゃなくて聞いてるんだろ、え? 江川さん」
金子が言うと老婆は息苦しそうな声で笑った。
「ハイカラってやつでさ。新聞社が毎日朗読した音声をインターネットに出してるんだと。江川さんは眼が悪いから、それで聞いてるってわけよ」
「そこまでするほど、面白い………と」
さして興味は湧かなかった。最後に小説を読んだのは大学生の頃で、働き出してからは仕事に関する本しか読んでこなかった身だ。いつもならば適当にあしらい会話を切りあげる彼も、この時は先日孫に言われた言葉が頭を過った。
小説自体は興味が湧かなくとも、会話の種ぐらいにはなるかもしれない。
「これは、続きからしか読めないんですか?」
そう言うと金子は待ってましたとばかりに机の上へ一冊、スクラップブックを広げた。
「初回からずっと、取ってあるんだよ」
糊でたわんだ紙が膨らみを見せていた。
金子は一番新しいページへ、慣れた手つきで糊付けをすると、
「よかったら、貸そうか?」
渡瀬が是非と答えて微笑むと金子は頷いた。
「ただし………今日のを俺が読んだ後でな」
つづく
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