珈琲は月の下で / 孤独の影

秋色

珈琲は月の下で / 孤独の影




 私はその夏の初めには、前野卯月を最強のアイドルで王子だと認定した。前野卯月はモデル出身の俳優であり、歌手。背が高く色は透き通るように白く、笑顔に人を引き付ける力がある。 


 その夏はことのほか暑い夏で、大学の講義の合間には友人達と大学併設のカフェテラスでアイスカフェラテばかり毎日飲んでいた。そのカフェテラスはガラス張りの天井で、頭上には空が広がり、テーブルにはいつも陽光ひかりが降り注いでいた。顔ぶれはその日の講義で微妙に違うけど、優花とまりんはたいていいつも一緒。

 そしてやっと夏休みが始まり、それも終わりに近づいて。でも実は私にとってその夏のメーンイベントはこれからだった。

 私は大学一年生の夏休みの終わりにパパの単身赴任先を一週間訪れる事にしていた。春先から続けてきたバイトも、一週間きっかり休む事にして。

 表向きは忙しくて帰省できないパパの様子見と、パパの部屋の大掃除のため。でも本当の目的は都会の街でのショッピングとそれに、卯月のライブハウスコンサート、そして卯月のテレビ番組の公開生録画観覧のためだった。


 私はその夏、アイドルの前野卯月に本当に夢中だった。卯月には幸せの要素があふれている。グラビアに写る、明るく屈託のない笑顔。動画やテレビ番組での茶目っ気のある軽やかな仕草。ラジオ番組での素直で前向きなメッセージ等。

 

 私の中の季節は四季折々で、しかも大雨、長雨、強風の日が多かった。でも卯月の季節は常に青空の広がる夏。私達ファンは、様々なメディアを通じて毎日いっぱいの元気をもらい、そして同時に励まされ、和まされていた。

 去年の野外コンサートの日は人生で片手の指に入るくらいの素晴らしい日だったし。

 でもそんな野外コンサートでの幸せな思い出話をしても、まりんからはめいっぱい引かれていた。現実に目を向けなよ、そんなんじや現実の男の子と付き合えないよ、と。私はこれでいいんだからとついふくれてしまう。優花は私、秋歩が幸せならそれでいいんじゃないと言う。


 そして今日は夜の生放送番組の公開録画のある日。私は抽選に当たったハガキを手にして、胸をときめかせていた。パパは今日は残業の予定で、収録が終わる夜の十時はおろか私の帰り着く十一時にもまだ帰宅していないだろう。もし残業のない日なら娘がこんなに遅く帰る事に小言だけで済んだかどうか。

 番組の収録は九時からだけど、観覧者は一時間前に入場する事になっていた。

 私は一番綺麗に見えると言われたキャミワンピを着てお気に入りのラインストーン入りのサンダルを履く。朝から晴れで、真っ青な空は駅への道を歩く私の気分と重なった。でも夏も終わりのせいか、心なしか涼やかな風も少し吹いている。地下鉄の駅に貼ってある化粧品の広告のモデルにも笑顔を返したくなるような日。





 公開録画の会場となるホールの目の前には大きな公園があった。そこに着いたのは夕方の六時ちょっと過ぎ。八月の終わりの六時過ぎはまだ明るい。公園の中を行き交う人、芝生でくつろぐ人の姿も多かった。

 七時過ぎにはちょっとした軽食をとろう。それまでどうやって時間を潰そうか? 私は公園の一画の、池のほとりのベンチに座った。何だか手持ち無沙汰で、大学の事、友人の事等考えてみる。ゼミの論文を仕上げないといけない事、最近、キャンパスのカフェで出会った新しい友達の事等。

 池の中を泳ぐ水鳥を見ているうち、辺りはだんだんトパーズ色がかって暗くなってきた。同じ公園の風景も夕暮れには何だか淋しい風景に見えてくる。陽が暮れる時の時間が経つのって意外と早い。七時を過ぎたので私は、軽い食事をとれる場所を探してみた。公園入口の向かい側には有名珈琲店のチェーン店があるけど満席みたいで、少し行列まで出来ている。公園の中の奥まった所にオリーブグリーンの色の看板が見え、木の葉に見え隠れするオレンジ色の灯りが見えた。目を凝らすとカフェだ。静かで人の姿は少ない。ここにしよう。

 公園の奥のこの辺りはかすかな虫の音が聞こえ、夕暮れの風はひんやりしている。

 このお店では狭い店内のカウンターでも、野外に置かれたテーブル席でも、自分の好きな方の席を選べるらしい。カウンター席は常連さん向けっぽくて敷居が高いので私は外のテーブル席に座る事にした。空にはもう青白い月が昇っていた。



 注文を取りに来たマスターを見た時、私ははっとした。年齢はずっと上だけど、卯月に似ている。卯月は私と同じ十九才。でもこのマスターは三十代か、若くても二十代後半位で、年齢にふさわしく大人っぽく見えた。

顔立ちは整っているけど、少し疲れた感じで翳りがある。



「お客様、何になさいますか?」

「ケーキセットをお願いします」

「ケーキはチーズケーキになりますが、宜しいですか?」

「はい…」

「お飲み物は何になさいますか?」


 メニューにはカフェラテもあったけど、私は今日はコーヒーにしようと思った。それがこのカフェには似合う。


「ホットコーヒーをお願いします」


 私には変な空想癖がある。思いついた空想をうっかり口にして、優花やまりんに笑われる事もあった。

 その時、私には、卯月が年をとって時間のワープでここまでやって来て店を開いているんじゃないか、という奇妙な空想が頭をよぎった。まさかね、と自分で自分に苦笑いしたけど、奇妙な感じはずっと続いた。


「はい、ケーキセットです」


 ぼーっと考え事をしている私を見てマスターの目は少し笑っていた。

 こんな苦いコーヒーを飲むのは初めてかもしれない。家で明るいLEDライトの下で飲む薄いインスタントコーヒーにはたっぷり砂糖を入れる。そして陽の光が射す大学のカフェで出されるカフェラテはとびきり甘い。甘くないコーヒーがこんなに香ばしくて風味があるなんて今まで知らなかった。凍ったような白い月の下で飲むのに、ちょうど良いくらいの深い味。

 やがて店の奥から一人の髪の長い女性が現れた。お店の関係者のようだった。でもマスターと話す会話の感じは仕事仲間というより常連のお客さんとのような、もっと個人的に親密な何かがあった。


「ね、この間も言ってたよ。ほら…そうじゃない?」

「うん、そうかもね」


 その女性は多分マスターと同年代で、大人の女性の雰囲気がある。でもあまり美人とは言えない。素顔の白い顔にはソバカスがあった。着ているのはシンプルな白いシャツと黒いツイルのスカート。でもなんだろう? この共有している感じ。

 何か分かりあえている雰囲気が二人にはある。他の人には割り込めないような。私は密かに傷ついていた。自分には割り込めない絆に。理不尽だとは分かっていた。なぜならこのカフェにいるのは卯月ではなく、全くの別の人物なのだから。でもこの傷付く気持ちには言葉に出来ない、ふかふかとした居心地の良いソファーに座る時のようなほっとした感じが同時にあった。なぜだろう?


「コーヒーはおかわりが出来ます。いかがなさいますか?」

私はいつの間にかテーブルの脇に来ていたマスターに声をかけられた。

「では、もう一杯だけお願いします」


 女性は狭い店内のカウンターの中で何か書き物をしていた。やはりお店の関係者なのだろう。美人ではないかもしれないけど、絵になる。私も年齢を重ねた時、あんな風になれるだろうか。もしなれたら卯月の心を分かってあげられるような大人になれるのかもしれない。


 その時ふと気が付いた。これまで前野卯月はいつも屈託がないアイドルだと思っていたけど、実はそうではなかった事に。

 何かの瞬間に表情の奥に微かに広がる孤独の影があった。それはまるでファンデーションで隠して見えなくしてあるソバカスが光の加減で、拡大された写真では見えてしまうようなもの。例えば海辺での元気なショットにちょっと寂しげな表情が垣間見えてしまったり。

 そうだ。私の中で苦手な卯月の映像作品に、デビューしたての頃の「六月物語」というオムニバス映画がある。四話あるうちの二話目に卯月は出演していて、ウイルス戦争に備え、謎の白い部屋に入り自ら鍵をかける役を演じた。この映画を見た日の夜、私は夢の中で同じような白い部屋にいた。そこにいくつもの黒い人の影が集まり、怯え、相談している様子を見た。とても怖い夢だった。

 本当はこの青年の役に卯月の心はシンクロしていて、だからこそ私はあの映画を好きになれなかったのかもしれない。


「コーヒーのお代わりをお持ちしました」

そう言うとマスターは、香りの高いコーヒーをテーブルの上のチーズケーキのお皿の横に置いた。

「日が暮れるともう涼しいですね」とマスター。

「そうですね…」


 店内に戻ったマスターが隣の女性の肩越しに、女性の言葉に微笑んでいる姿が見える。その時、私は夢の中に出てきた黒い影が照れるように現れ、マスターの側のカウンター席で安心したように頬杖を付いて居眠りしている姿を見た気がした。もちろんそれは晩風に吹かれた木の葉がそう見えただけの錯覚だろうけど。


 今、向こうに見えるカフェの店内で、オレンジ色の光の中にいるマスターは、卯月とは違う。でももし未来の卯月のタイムワープしてたどり着いた先だったとしたら、寂しい彼がやっとここでほっと出来る誰かを、居場所を見つけたのに違いない……そんな無茶な空想と祝福をして、私は二杯目のほろ苦いコーヒーを飲んでいた。少し幸せな気分で。空には銀色のコインのような月が浮かんでいた。カレンダーはもうすぐ八月から九月へ。公開録画の少し前。












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