四月某日、東京に雪

南雲 皋

結局私は立ち止まったまま

 その思い出とは、もうきっちりお別れした筈だった。

 箱にしまって蓋をした筈だった。


 それなのに。


 彼のことを思い出してしまったのは、四月某日、東京に季節外れの雪が降ったから。



 去年の冬は珍しく雪が降った。

 私は天気予報を見ておらず、まんまと雪の積もった車を前に、間に合うか遅刻かと脳内で必死にルート検索をしていた。


 そこに声を掛けてくれたのが彼だった。


 一階の端、自分の家からホースを引っ張り、ぬるま湯で雪を溶かす手伝いをしてくれた。


 結局少し遅刻してしまったのだけれど、間に合ったということにして、お礼を言うついでに家に上がり込んだ私はかなり非常識だったと思う。

 私の好きな酒と、鍋の具材を持ってきた私を、彼は追い返さなかった。

 垂れた眉毛に丸い眼鏡が何とも可愛らしい人だった。



 そのまま雪と共に私の心に積もった彼は、雪解けと共に私から消えてしまった。

 何も言わずに、引っ越してしまった。


 私が押し掛けたから、私が酒を呑ませたから、私が眼鏡を外したから、だから彼は消えてしまったのだろうか。


 いくら考えても答えは出なくて、彼の住んでいた部屋は空室のままで。

 いっそのこと、その部屋に引っ越してやろうかと思ったりもした。



 彼と同じ丸い眼鏡をかけても、つり眉の私には似合わない。

 眼鏡屋さんで丸い眼鏡ばかりを試す私に、店員は似合いませんよとは言わなかった。



 春の気配が漂って、私は彼を忘れようと思った。

 またいずれやってくる冬に泣く前に、三つの季節で彼を忘れようと思った。

 そうして乗り越えて、今年の冬は雪が降らなくて、思い出を箱にしまって、それでおしまいの筈だった。


 それなのに。


 どうして春が来て、新しい出逢いに期待した私を、前に進めなくするのだろう。

 だってまた私は車を雪まみれにして、バイパーも上げないままで、彼の声を、言葉を、こんなにも待っている。


 溢れる涙で全ての雪が溶けるまで、私はここで泣いて暮らすのだと思った。


 会社に休む旨を連絡した時、電話口の向こうから心配する声がした。

 涙も鼻水も止まらないまま電話していたのだから当然だ。

 私は会社を休んで、ひたすら雪を溶かし続けた。



 動かせるようになった車に乗り込んで、エンジンをかける。

 彼が消えてしまってから、何もかもを仕事で忘れようとした私は目が悪くなった。

 視力の矯正をしなければ、車の運転ができないほどに。


 ダッシュボードには、当て付けのように四角い眼鏡が入っている。


 次の雪は、いつ、降るのだろう。

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四月某日、東京に雪 南雲 皋 @nagumo-satsuki

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