エピローグ

 灰が降り積る中、僕は雪原に突き刺さった棒切れのように佇んでいた。眼前には、ヴィクトリアのベッド。枕元にはハートのクッションにもたれかかるようにして、フリル着きのドレスを着た西洋人形が置かれていた。ただ呆然と宙を見つめるその生気のない瞳を隠すように、灰がポツポツと落ちている。

 色々な感情が濁流となって一気に押し寄せ、渦を巻いたそれに意識が飲まれそうだった。頭蓋の中で、脳がぐるぐると回転しているような気分だ。今は、何も考えられない。

「ご主人様……」

 アメツチの声がした。ふと手元を見ると、彼女の手は依然として、スティンガーベルを握る僕の手に重ねられたままだった。ヴィクトリアの頭を撫でていたアリーと同じ、白魚のような指先。

「ご主人様、大丈夫か?」

「ああ……大丈夫。カオスのせいでちょっと眩暈がしただけだよ」

 笑みを向けると、アメツチが眉根を寄せながら頬を緩める不思議な顔をした。

 アナライザーに目を向ける。侵襲率がみるみる下がり始めていた。大気中のカオス濃度も同様に、減少し続けている。

 形骸を浄化すると、淵源を断たれたカオスは自壊する。でもその原理については、未だに解明されていない。

 僕はそこで大事な事を思い出した。エハウィがアリーを死ぬように仕向けた事を。彼女はアリーをみすみす死なせたんだ。調律師である僕の目の前で……。結果的に僕が殺したも同然だ。エハウィはどうして、アリーにシールドをかけなかったのだろうか。

「エハウィ……。君はどうしてアリーを見殺しにしたんだ……? 彼女はサーバーに戻され、無事だったはずだ。ここで死ぬ必要なんて無かった……」

 背を向けたまま、努めて落ち着いた口調で尋ねる。ヴィクトリアはアリーが来たことで攻撃を止めた。確かにそのお陰で戦闘を終わらせる事が出来た。けれども、タルパとはいえ一人の人格を囮のように使ったんだ。到底納得のいく行為では無かった。

 でもエハウィは現実主義者だ。彼女はきっと、この仕事をやり遂げる事を優先したかったのだろう。現実は甘くない。そんな厳しい答えが返ってくると僕は予想していた。でも、背後から響いたのは意外にも、告解室で奏でられるような閑寂とした音色だった。

「……アリーが望んだのよ。そうして欲しいって」

「そんな……」

 予感はしていた。でも、どこかでそれをあり得ないと否定していた自分が居た。振り返ると、エハウィが腕を組んだままため息交じりに続けた。

「死ぬ必要は無かった……。あなたは本当にそう思う? 親にとって、我が子を失う事がどれほど辛いことか……。彼女は一度、味わっているの。死よりも辛い、二度と経験したくない悲しみをね」

「でも……彼女はタルパだ。それに本物の母親じゃない。娘を失ったのも、彼女じゃなくて本当の母親だ。それなのにどうして……」

 

 タルパは、ホストの意思に反して自ら死を選ぶことは無い。これは仮想世界における常識と言ってもいい。その事実こそが、『タルパに自我と感情はあるのか』という論争に決着がつかない所以だ。自ら死を選ぶという強い感情を持たないなら、自我を持つとは言えない、というのが否定派の論調だ。アメツチというレジットを持つ僕も、どこかでその意見を否定しきれずにいた。

 

 エハウィが長い睫毛を伏せる。

「彼女が自らシールドをかけないで欲しいと願い出たのは本当よ。結果的に彼女は自ら死を選んだ事になるわね……。ただ……何が彼女にそうさせたのか……。ホストが彼女を生み出す時に移植した悲しみの記憶か……それとももっと別の何かなのか……それは彼女以外誰も知らない事よ」

「…………」

アリーは自ら死を選んだ。それが事実であれば、これまでのタルパに関する常識が根本的に覆される。

 僕は一瞬、エハウィが嘘をついているのではと疑った。代理権を持つ彼女であれば、アリーに死を選ばせる事が可能だ。でも、ヴィクトリアを怯ませ、戦闘を終わらせるのが目的なら、わざわざ死なせずとも連れて来るだけで充分だ。つまり、彼女には嘘をついてまでそれをするメリットが無い……。

 僕は何も言えなくなった。彼女は真実を話しているんだ。

 押し黙っていると、傍らに居たアメツチが肩をすくめながらエハウィに尋ねた。

「……エハウィは何で、タイミングよくここに来たんだ?」

「ココから連絡があったの。レシオが急上昇して、あなた達と連絡が取れないって。その時私は丁度、代理権を得たアリーの処分について検討してたの。彼女を呼び出して、色々と話を聞いていたわ。娘の事や、夫の事……。彼女は自分の事をタルパだと自覚していて……その上で、娘に会いたいと言っていたわ。私はそこで不思議に思ったの。ホストの娘はとうの昔に亡くなったと聞いていたし、ホストと契約した彼のタルパに関する代理権の中に、彼女の娘は含まれていなかったから……。私があのタルパ……ヴィクトリアの存在を知ったのも、アリーに話を聞いたからよ」

 僕は思わず眉をひそめた。

 

 サーバーを依代に顕現する通常のタルパは、主人格の死後も仮想世界に存在し続ける。それ故に、死後のタルパの処分については、親類や友人、若しくは虚構の管理を請け負う企業などに代理権を与え、委任しておくのが一般的だ。また、今回のホストのように虚構の管理を第三者に委託する場合、タルパの代理権についても同じ業者に任せるのが通例――つまり、契約の中にアリーの代理権が含まれていたのに、ヴィクトリアのそれが存在しないというのは妙な話だった。

 

「……どういうことだ?」

 尋ねると、エハウィは神妙な面持ちで僕と視線を交わした。海のように深い青色の瞳は、既にその答えを物語っているようだった。吸い寄せられるように見つめていると、数秒の沈黙の後、彼女は徐に口を開いた。

 

 

「……彼女の娘は、『レジット』だったのよ」

 

 

「なっ……!?」

 アメツチが短く声を上げた。エハウィは視線をアメツチの方へ移すと、まるで不愛想なウエイターが運んできた料理をテーブルに並べるような調子で、淡々と説明を続けた。

「サーバーを介さず、現実世界の脳を依代にしてこの世界に顕現するタルパ――『レジット』。彼女もその一人だった。アリーが言うには、オリジナルである生前の彼女と夫、二人で生み出したらしいの。二人の脳を依代にして生まれたタルパ……それがあのヴィクトリアよ。複数の人間の脳を依代にするなんて……およそ聞いた事のない話だったけど、でもこの目で見たのだから、信じるしかないわね……」

「ちょっと待ってくれエハウィ……! 母親は既に死んでいて……父親はここで形骸化していたのに、どうして……どうしてヴィクトリアは存在していたんだ……?」

 思わず声が大きくなってしまった。卵型の部屋に、自分の声が反響して妙な気分になる。ヴィクトリアがあれほど叫んでもほとんど響かなかったのに、今はあの毛細血管の消音材が無いせいでやたらと音が響く。

 エハウィは再びため息を吐きながら言った。

「それが一番の謎よ……。仕組みはわからないけど、彼女は依代である主人格の脳が破壊された後でも、この世界で顕現し続けた。異形の存在としてね。それが、この世界の深層を満たしているカオスの仕業なのか……それとも、彼女自身が持っていた何らかの特異性なのか……。彼女が消えた今、その答えは闇の中。要するに、私達はこの世界についてまだ全然知らないという事……。それだけは確かね」

 釈然としない。でも恐らく、いくら考えてもその答えは出ないのだろう。

 僕はエハウィにつられるように鼻で長い息を吐いた。

「……エハウィ。すまない。手間をかけさせてしまった……」

「いいえ。これに関しては私にも非があるわ……。虚構の中にまさか申告されていない別の虚構があったなんて……。あらゆる可能性を考えるべきだった。それに、私があなたに手間をかけるのは当たり前の事よ。だってあなたにこんなところで死なれたら困るもの」

 彼女は目を細めて微笑んだ。煌びやかな装いとは対照的に、まるで野花のように控えめな笑顔だ。僕はエハウィのこの表情が好きだ。いつもならそれだけで元気が出るのに、今はとてもそんな気分にはなれなかった。

 アナライザーを見る。侵襲率もカオス濃度も、共に数値はゼロだった。

「ありがとう……。今日はもう休むよ」

 手を挙げながら、部屋の出口へ向かい、彼女の傍らを通り過ぎる。

「ええ。明日事務所に来てくれる? 話があるの。報酬はいつも通り口座に入れておくわ。今回はお詫びの意味も込めて色を付けておくから」

「すまない……」

 部屋のドアにはノイズゲートの穴が開いていた。屈んでそれを潜り抜けようとすると、アメツチが追い付いてきた。

「おい……ちょっ……ご主人様いいのかこのままで? 灰まみれだぞ? 花瓶に花が一輪どうたらって……」

「……もういいんだ。それに、灰はそのうち消える」

 そのまま穴を潜り抜ける。

「お、おいっ! ご主人様ッ……!」

 背後でアメツチが何度か僕を呼んだ。でも彼女はそれ以上追いかけて来なかった。

 

 建物の外に出ると、ポーチの階段の手すりに背もたれてココがガムを膨らませていた。塗装の剥げたボロボロの手すりは音を立てて軋んでいるが、彼はお構いなしと言った様子でオーバーオールのポケットに手を突っ込み、船を漕ぐように前後に体を揺らしていた。

「ん……? クモキリ、もう帰るの?」

「ああ……。今日はもう休むよ。君にお礼を言ってからと思って出て来たんだ。ココ、ありがとう」

「クモキリ無茶するよねぇ。エハウィがあとちょっとでも遅かったら死んでたかもしれないのにさ」

 ココは器用にガムの風船を維持しながら話している。いつもなら無邪気な子供の態度だからとスルーするけど、今は生憎虫の居所が悪かった。

 黙って睨みつけると、タイミングよく風船が割れた。皿のように丸くした目を瞬かせるココを見て、なんだか拍子抜けしてしまった。

「……いざとなったらログアウトしていたよ。カオスフィールドの一部になるなんてごめんだからね……。それじゃ、僕はこれで……」

 アナライザーを操作し、ログアウトの項目を選択する。身体が淡い光に包まれた。文字盤ではログアウトまでの待機時間――十秒のカウントダウンが始まっている。

「う、うん……またねクモキリ……」

「また……」

 カウントがゼロになり、視界がブラックアウトする。

 

 仮想世界では、アナライザーを操作すればどのタイミングでもログアウト可能だ。たとえ重傷を負って死にかけていても、ログアウトさえすれば何の問題も無い。再ログインすれば、無傷の身体で戻ってくることが出来る。

 そもそも、僕達現実世界で肉体を持つ人間は、仮想世界で死んでも基本的に現実では死なない。僕達人間が死ぬのは、侵襲率が100%に達して脳が破壊された時か、絶望して形骸化した時だけ……。

 

 ……この世界において、本来の意味で死ぬのは、疑似人格であるタルパだけなんだ。



 ***

 


 ヘッドギアを外し、ベッドから体を起こす。薄闇の中に、カーテンの隙間から淡い光が漏れていた。喉の渇きが気になったけど、何となくナイトテーブルのグラスの水に伸ばしかけた手を止めた。立ち上がり、窓の方へ歩み寄る。カーテンを開けると、青白い光がまるで水槽のようにぼんやりと室内を照らした。そのまま窓の外を眺める。

 地上58階。家賃の割に眺めは悪く無い方だ。ここからは街の通りが一望出来る。でも周りのビルは、このアパートよりも随分高い。通りに並ぶ繊維補強合成石材の壁面には、ほとんど窓が無い。景色は虚構で事足りるため、展望という物があまり意味をなさなくなってしまったからだ。無骨な灰色の壁。その上をまるで生き物のように、大小様々なパイプと電線が這い回っている。

 この百年間で、都市の様相はまるで変わってしまったという。昔の街をモデルにした虚構にも何度か足を運んだことがあるけれど、確かにその当時からすれば今の街並みは想像を絶するだろう。

 道を我が物顔で埋め尽くしていた自動車達はほとんどその姿を消し、通りを歩く人の数もまばらだ。夜空を照らすビルの灯りも、かつてのような輝きはなく、どこか亡霊じみた光を放っている。まるで都市そのものが死にかけているようだ。水槽を眺めているのは僕の方かもしれない。この街は、魚の消えてしまった水槽に似ている。

 この百年間で全てが変わってしまったと言われている。

 でも僕は思う。本質的なものは恐らく何も変わっていないんだ。


   ***つづく***

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虚構調律師クモキリ N岡 @N-oka

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