この作品を初めて読んだ後、しっかり真面目に読んでいた自分に笑ってしまった。
しかしよく読むと、作者が提言した説はあながち間違いではないかも――と思えてしまう。不思議。
だがよく考えてほしい。
この作品は、我々に地球で生きる上で何か大切な事を教えてくれているのではないだろうか?
地球には限りある資源がある。命もそうだ、食料もそうだ。
ありとあらゆるモノが、地球に生きているのだ。つまり同じ星に生きて存在しているモノはだいたい同じだろうという理論に至るのは理解できる。
いや、やっぱりそれは無理があった。ごめん。無理やりこじつけてしまった。
何が言いたいかと言うと、つまり我々はこの作品を読んでガハハと笑うべきなのである。
これは学術記事の体で書かれたSF小説である。頭のネジがはずれたような新説をわりと真面目に論じました風の文体がギャップを伴っている。油断すると不意にパスタやイタリアへのディスりが入ってくるのもまたおかしい。
本作はCバリュー・パラドックスに挑んだ意欲作であり、ジャンクDNAだのエピジェネティックだのは、一行目に前提として含まれてしまっている。笑いとは知識の共通認識の上に成り立つものだから、厳密に言えば作者と同程度にトマトの知識を持たないと真の面白さは理解出来ないのかも知れないが、逆にまっさらの状態で「マジかよ!トマトヤバいじゃん!」と焦ったり、古代人の記憶が突然よみがえるようなことがあったとしても心配はない。「月刊ムー」に投稿して早急にあなたの仲間を探すべきである。くれぐれもいきなりツイッターに投稿してジャガトマ警察みたいなのを呼び集めるような事態だけは避けたいものだ。
ロシアには昔から「トマトが赤くなると、医者も赤くなる」ということわざがある。トマトと同じように医者もベルリンも全ては自然に赤くなるという意味だろう。太古より人類に寄り添ってきたかに見えるトマトだが、その悠久なる歴史としたたかな戦略を前に実は我々の方がトマトに寄生している側なのではないかと恐れさえ抱くのである。