05
こってりとした脂が乗った牛肉のステーキ。
青々としたレタスと真っ赤に熟れたトマトで飾られたサラダ。
小麦粉をたっぷりと使い、酵母を用いて熟成させたほかほかのパン。
それらが、大きな石造りのテーブルの上に乗せられていた。三百年前までの『古代人』達は日常的、とまではいかずとも、さして苦労もなく入手出来たとされる料理。
それが今、テーブルの席に着いているアカネの前に並んでいた。
「……………」
「おおおおおお姉ちゃん! 凄いよ! 凄いご飯が!」
思わず出てきた生唾を出来るだけ音がしないように飲み込むアカネの隣で、妹のアオイが目を輝かせながらはしゃいでいる。料理を前にして大興奮など、十六歳のレディとしては些か恥ずかしい言動と言わざるを得ない。
だが無理もない事だ。三百年前の人類が主食にしていたという小麦すら、現代では金があろうとも巡り合わせが悪ければ出会えないほどの珍品なのである。ましてや小麦より生産量が少なかった野菜や、大量の小麦を餌として与えていたという牛など、最早神話に出てくる秘薬にも等しい品だ。凡人では生涯に一度お目に掛かれるかも分からない食べ物が目の前にずらりと並べば、理性を失うほどはしゃぎたくもなるだろう。
しかし、アカネはこれを喜ぶ訳にはいかない。
何しろ此処にある食材は、アカネとテーブルを挟んで向かい側に座る『男』が用意した品物なのだから。
「ははっ! それだけ喜んでもらえたなら、こちらとしても用意した甲斐があったというものだよ」
アカネと向かい合う若い男……コウはとても上機嫌な笑みを浮かべながら、気障ったらしく自身の金色の髪を掻き上げる。片目を閉じ、ちらりと見てくる視線がウザったい。
彼が自分達を『マグロ』の群れから助け出してくれた当人でなければ、アカネはその気障ったらしい態度に悪態の一つでも吐いていただろう。
アカネ達は今コウの船に招かれ、食堂にて豪勢な料理を振る舞われていた。料理が気にならないと言えば嘘になるが……アカネは本能を抑え、コウと向き合う。
コウはアカネ達より少し年上の、若々しい青年漁師にして『漆黒船団』の団長だ。漆黒船団は数十名から成る漁師のチームで、数々の海生物を捕ってきたエリート集団。アカネ達の船である『わだつみ』は現在自動操縦により、その漆黒船団と共に航行している。団長であるコウは漆黒船団のまとめ役。故に漆黒船団の事は、コウ一家と呼ぶ事の方が多い。
屈強な海の男を纏め上げるだけにごりごりの筋肉体質かと思えば、彼の身長は百六十センチ台と決して長身ではなく、身体付きは女物の服が似合いそうなほど細い。女性的でもある端正な顔立ちは、しかしハッキリと男だと分かる程度には雄々しく、凜々しい。
そして彼は海生物出現の更に数百年前、中世ヨーロッパの貴族が着ていたというマントやブーツなどの、アカネ的には奇妙な出で立ちを好む。今日もまた腰にサーベルなんかを差しており、胸には勲章が付けられていた。剣なんか使っても海生物には勝てないし、勲章を与えてくれる『クニ』なんてものはとうの昔に瓦解しているのに。
変な奴、というのがアカネの正直な彼への印象なのだが、どうにも世の女性達はこれがカッコいいと思うらしい。おまけにコウ自身、かなり手が早い。
「コウ様ぁ、私のご飯、食べてくださいよぉ」
「もう、今日は私がコウ様とのお食事を楽しむのよ!」
「コウ様……あの、私も、スープを作りまして……」
彼の周りには三人の若い女性達が集まり、彼の食事の世話をしようとする。モテモテなのは結構だ。個人の恋愛に口出しするほどアカネは暇人でも嫉妬深くもない。
「いやはや困ったね。妻達が姦しくて」
しかしながら三人全員(そして此処には居ないが、更にプラスもう一人)がコウの妻となれば、思うところもある訳で。
本当に困ったように呟くコウに、アカネはたっぷりと蔑みを含んだ眼差しで睨み付けておく。
「困るってんなら一人に絞れば良いのよ。四人も奥さんを持とうなんて欲張るからそうなるの」
「いやいや、これは手厳しい。君は五人目の妻ではなく、僕のただ一人の妻になりたいのかな?」
「はんっ、アンタなんかお断りよ。大体私はね、アンタみたいなちゃらちゃらした奴じゃなくて」
「ねぇねぇねぇ! これ、た、食べて良い!?」
悪態を吐こうとするアカネだったが、アオイの本能塗れの言葉がそれを邪魔した。
「いや、アオイ。コイツちょっとガツンと」
「勿論良いよ。君達が食べてくれなければ、他の者の胃に収まるだけだからね」
「いただきます!」
止めようとするアカネだったが、アオイが従ったのはコウの言葉。アオイは言うが早いかナイフをステーキにぶっ刺した。ナイフをステーキに、だ。取り乱しぶりがよく分かる行動だった。
妹の大変素直な反応を見ていると止めるのも気が引けて、アカネは深々とため息を吐く。が、仕方ない事だと割り切る。これだけの高級食材を前にして、許しが出たのに食べるのを我慢するなどあり得ない。
自分だってコウへの嫌悪がなければ、同じ事をしていただろうという確信もあった。
「……食べ物で釣ろうってつもり?」
「そんな気はないのだがね。愛する人に美味しいものを食べてほしいと思うのは、おかしな事かな?」
「おかしくはないけど、そーいう台詞を妻が傍に居るのに顔色一つ変えず言える奴は信用ならない」
アカネの棘だらけな言葉の数々に、コウを囲う女達は睨み付けてきて、当のコウは肩を竦めるだけ。まるで堪えていない。
アカネは忌々しげにコウを睨み付けるも、ふと鼻をくすぐる匂いによって、その目付きが段々弛んでいくのを自覚した。
匂いがする方を見れば、アオイがはふはふ言いながらステーキを頬張っている。どう考えてももっと細かく切り分けねばならないサイズの肉を、息が詰まるのも惜しまず食べようとしていた。とても可愛らしくて、とても残念な姿だった。
やがてアオイがステーキ肉を食い千切ると、ほわんと濃厚な香りがアカネの鼻まで漂ってくる。肉汁が飛び散り、机の上を汚した。
アカネは今まで色々な海生物を仕留め、一番美味しいタイミングで食べてき。だが、ここまで濃厚な香りは嗅いだ事がない。噛み切った時に肉汁が飛び散る海生物なんて出会った事もなく、牛の身に詰まった旨味がどれほどのものか想像も付かない。そもそも牛を今まで食べた事がない。
ごくりと、ついにアカネは喉を鳴らす。
そして目の前には、自分の分として置かれたステーキが、ほかほかの湯気を上げていた。右手が無意識にナイフへと伸び、左手が勝手にフォークを掴む。
気付いた時にはステーキを切り分け、一口大になった肉塊が、フォークの先端と共にアカネの口へと迫ってきた。鼻先までやってきて、一層強く主張する香り。我慢など出来る筈もない。
ぱくり、とアカネはステーキ肉を頬張り、
「んふうんんんんっ!」
思わず声が出た。
その瞬間から、アカネから理性的な考えは吹っ飛んでしまった。
まだ口の中に残っているのについ新たな肉を頬張り、その溢れ出る美味さに身悶えする。濃厚な油分で口周りがべたべたになろうとも、サラダを一口食べればすっきり爽やか。植物など海藻しか食べた事がなかったが、野菜達は海藻と違いシャキシャキとした独特な歯応えをしていて、噛むと瑞々しい汁と香りが口の中を洗い流してくれる。トマトなど、本当に大昔ではこんなものが日常的に食べられていたのかと思うほどに甘い。パンと肉のハーモニーは、頭が真っ白になるぐらい美味しい。
そこから先の記憶は殆どなくて。
「……はっ!?」
気付けば重たいぐらいの満腹感と、目の前に無数の空っぽの皿があった。
「はぁー……しあわへぇ……」
「気に入っていただけたなら何より。アカネが僕と結婚してくれるなら、毎日でも出してあげるよ。勿論アオイちゃんの分もあるからね」
「お姉ちゃん、さっさとこの人と結婚してよ」
「アオイ!?」
食べ物で簡単に裏切る妹に、アカネは少なからずショックを受けた。アオイを誑かした不埒者を睨もうとしたが、コウは顔を背けて笑いを堪えている。どうやらアオイのこの反応はちょっと想定外らしい。ここで怒ると逆に惨めな気がして、喉元まで来ていた言葉を唸り声に変えるしかなかった。
それでも憤りは収まらず。
「ふんっ! 毎日これだけ美味しいものを食べられるなんて、さぞ良い暮らしをしてるんでしょうねっ!」
せめてもの反抗心から、こんな嫌味を言ってしまう。
そう、これは嫌味。コウが顔でも顰めてくれればそれで十分な言葉。
「ははっ。まぁ、毎日は流石に冗談だけどね。ただ、次の仕事がかなり危険そうだから、その景気付けにはなると思ってさ」
しかしコウは、アカネの言葉にこう答えた。
アカネの顔が強張る。嫌悪ではなく、一人の『漁師』として。
「……危険な仕事?」
「『沖』の海生物が来ているという噂は聞いているだろう? どうやら、そいつがこの辺りの海域に棲み着いているらしい。それを退治する」
「えっ!? 『沖』の生き物って、滅茶苦茶強いんじゃ……それに、ほっとけば帰るって言うし、お金になるか分からないし……」
アオイが訊き返せば、コウはこくんと頷き肯定した。笑顔を浮かべたまま、何時もと顔色一つ変えずに。
「金銭的な問題はない。知り合いの成金がね、その海生物の剥製を高値で買い取ってくれる約束だからさ。それにそいつは、かなり漁場を荒らしているらしい……そろそろ退治しないと、この辺りの漁師の生活も危うくなる。やり甲斐があるだろう?」
「……成程。この大艦隊は、その『沖』の生き物とドンパチするため戦力と。やっと合点がいったわ。私達を助けたのも、戦力補強の一環かしら?」
「あまりうちの一家を見くびらないでくれよ。そこまで戦力には飢えていないからさ」
意地悪く尋ねるアカネに、コウはきっぱりと否定する。
自分への悪口は許せても、『家族』への悪態は見過ごせないのだろう。
「……ごめんなさい。不躾だったわ」
「そーいう素直なところも可愛くて好きなんだけどね」
ぽつりと謝れば、コウから飛んできたのは口説き文句。やっぱり謝らなきゃ良かったと、少し後悔した。
「そういう訳だから、この辺りの海域の探索をしていてね。君達の護衛はそのついで、という訳さ」
「ふん。最初からそう言えば良いのに」
「もぉ、お姉ちゃんったら。助けてくれるんだからちゃんとお礼言わなきゃ」
「つーん」
アオイの小言からそっぽを向き、アカネは見せつけるように唇を尖らせる。
それでも、不機嫌という事もなく。
後から出てきたアイスクリームなるもの ― 古典曰く、子持ちの牛しか出さない乳に、高価な砂糖を山ほどぶち込み、凍らせるという意味不明な手間を掛けた一品 ― を見た途端二人の少女は目を輝かせ、夢中になってそれを頬張るのだった。
……………
………
…
「美味しかったねぇ……」
「美味しかったなぁ……」
『わだつみ』に帰ってきたアカネとアオイは、狭いベッドの上に並んで寝転がりながら、幸福に満ちた言葉をぼやいた。
貧乏漁師であるアカネ達には縁遠い、高級にして美味なる食材達。食用海生物が不味いと思った事はないが、あれほど多様にして美味なものに囲まれていた古代人達が実に羨ましい。
「コウさんと結婚したら、毎日とはいかなくても偶にはこーいうの食べられるのかなぁ」
だからといって、アオイの独り言に同意する気はなかったが。
むくりと起き上がり、アカネはアオイをじとっとした眼差しで見据える。姉の不機嫌表明に、アオイもむくりと起き上がってアカネと向き合う。
どうにもアオイは、結婚という言葉を軽々しく使う。
アカネは如何にも怒ってるぞとばかりに口をへの字に曲げながら、アオイにお説教をする事にした。
「あのねぇ、アオイ。結婚ってのは、そーいう事だけで決めちゃ駄目なのよ。分かる?」
「別にご飯だけで勧めてる訳じゃないよ。コウさん、悪い人じゃないでしょ。冗談めかして言う事はあっても、基本的には真面目で誠実じゃん」
「うぐ……」
お説教のつもりが言い返されて、アカネは言葉を詰まらせる。確かに、その通りだとはアカネも思う。歯の浮くような台詞ばかり言うが、嘘は吐かないし、仕事には真面目に取り組む。でなければ何十もの漁師を束ねる一家の頭など名乗れはしないし、いくら美形でも女達だって付いてこないだろう。異性として見れば、間違いなく魅力的な存在だ。
加えて言うならば。
「あとお姉ちゃんはコウさんの駄目なところとして、女癖が悪いところを挙げるけどさ。今時一夫多妻なんて珍しくもないじゃん」
アオイが言うように、時代に合っていないのはアカネの方だったりする。
働き盛りの男ですら食糧を十分に確保出来るか分からないこの時代、女性にとって結婚は、一つの『生活保護制度』と化していた。恋愛結婚がないとは言わないが、食事も用意出来ない相手とするのは心中と変わらない。だから一般的な女性は、安定的に食糧を買える富裕層か、自分で食糧を手に入れている人物を結婚相手に選ぶ。
こうなると男性側で結婚出来るのは金持ち、或いは食糧生産職(大抵は漁師)だけ。当然ながら全ての男達がそこに属せる訳もなし。該当する男性は一割にも満たない。そのため一夫一婦制ではどう足掻いても大部分が余るし、結婚出来なかった女性は飢えて死ぬしかない。人口は世代を経る度に十分の一となり、人類滅亡待ったなしだ。
現代社会の婚姻制度が一夫多妻……自分以外も養えるリソースを持った少数の男性が、社会体制を維持出来るぐらい大量の子を作る社会体制なのは、正しく『時代』に適応した結果なのである。そしてこの観点から言えば、アカネの考えは時代にそぐわない、淘汰されるべき思想。アカネ自身、それは自覚しているつもりだ。清純さを守るため、人類に滅びの道を突き進めと言うつもりは毛頭ない。
しかし、だけど、だとしても。
「……それでも、私は、旦那様には、私だけを愛してほしいもん」
自分の夢だけは、譲る気になれなかった。
「……ほんと夢見る乙女だよねぇ、お姉ちゃんは」
「う、うっさい! 文句あるの!?」
「別にないけどね。あーあー、なんでコウさんったら私を選ばないのかなぁ。私だったらすぐOKしちゃうのに、お姉ちゃんったら勿体なーい」
「うぐ、うぐぐぐ」
アオイの言葉に、アカネは唸るばかり。意地を張ってるのは自分の方だという自覚はあるが、だからといって煽られてすんなり受け入れられるほど、恋する乙女の心は広くない。
「というか、そんなんじゃお姉ちゃん、一生結婚出来なさそうだよね」
ましてや、言ってはならぬ事を言われたら。
「う、うるさーいっ!」
アオイの煽り言葉に、アカネはついに手が出る。ポカッ、とアオイの頭から可愛らしい音が鳴ったが、アオイはケラケラと笑うばかり。
まるで堪えていない妹に、アカネのボルテージは右肩上がり。留まる事を知らない。
「こ、この! バカバカバカっ!」
「あははっ、ごめんごめん。言い過ぎたからもう叩かないでよー。何時かお姉ちゃんを迎えに、白馬の王子様が来てくれるって……まぁ、馬なんかもう絶滅してるし、王政が残っているとも思えないけど。ぷくく」
怒りを露わにしても、アオイはどんどん油を注いでくる。お陰でアカネの怒りは収まらず、ポカポカポカポカ、延々アオイの頭を叩き続けた。わいわいぎゃーぎゃーと、賑やかに騒ぐ。
仲良し姉妹の夜は、お互いに疲れ果てて倒れるまで続くのであった。
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