鶴に殉ず

夢見里 龍

鶴に殉ず

 あれは鶴でなければならなかった。


 ………………


 さらさらと笹の葉が騒めく。

 暑さもやわらぎ、朝晩には寒いほどの風が吹き渡るようになった夏の終わりだった。

 月のさえ渡る竹林のなかには泉があった。

 静かな水鏡は月を映し、満々と輝きを湛えている。月の溢した雫が溜まってこの泉ができたのだといわれても疑えぬほどに美しい泉だった。

 静まりかえった泉のほとりでは姑娘むすめがひとり、身を清めていた。

 雪を欺く青ざめた肌に宵の帳よりも黒々とした瞳。凍える霜の風を集めて縒った糸のようなしろがねの濡れ髪は結いあげることなく、項から胸もとにさらりと流されている。ひき締まった柳腰に絹帯ひもを結び、白絹で織りあげた衫襦じゅばんを肩に掛けていた。

 紅を乗せずともあざやかな口唇がじゅんと月影に潤む。


 嘴もなければ翼もない。

 しかしながら満月の晩に泉にいるのは鶴ばかりと、昔から決まっている。それこそ乳飲み児の頃から童謡がわりに繰りかえし聴かされる話だ。

 故にあれは、鶴でなければならなかった。


 鶴は華奢というには細すぎる素脚に漣を絡ませながら、泉の中程、腰のあたりの深さまで進んでいった。

 月の真下で立ちどまり、しゃらりと衫襦を肩から落とす。

 何度みてもこの瞬間はぞくりと胸が騒ぎ、鶴の幻聴が頭によぎる。きぬずれの騒めきと、遠くから響きわたる鶴のこだまは似ている。鼓膜を逆撫でにされるような言葉につくし難い感触が、何処か。


 白い背が月前に浮かびあがる。


 鶴が、いた。

 翼を拡げていまにも舞いあがらんとする、それはそれは美しい鶴が。


 刺青のようであって刺青ではない。或いは青いすみのかわりに水銀を刺しいれたような彫り物だった。鶴の文様は嘴から羽根の細部に到るまで、あたかも呼吸をしているかのようにいきいきに彫りこまれている。

 月を吸って、文様は青みがかった白銀を帯び、あえかに瞬きだす。星が雲に陰るように時折暗くなったり明るくなったりと繰りかえしながら、双つの翼は肌のなかで滾々と息衝いていた。


 だからあれは、鶴なのだ。


「……鶴呤カクレイ様、お寒くはありませんか」 


 声を掛けると鶴は緩やかに振りかえった。

 幼けなさを残り香のように漂わせた華のかんばせがこちらにむけられる。


「敬語はおやめと、何度いったらわかるの、鶫刹トウセツ

「そうはいわれてましても、大家様だんなさまに知られたらお叱りをうけるのは俺ですから」

 

 鶴呤はふふと微笑んだ。

 艶やかな唇が緩い弧をかたどり頬がもちあがる。幼さがすうと遠のいて、おとなびたふんいきが漂った。つつましやかな月季花ばらの莟が牡丹を咲かせるような移ろいだった。


「そう、おまえが叱られるだけよ。安心おし。よほどのことがないかぎり、誰もいまさらおまえを解任したりはしないよ。誰も鶴のまもりなどは、やりたくはないからね」

「鶴の衛には祟りがある、でしたか」


 鶴。

 これはショウの一族に脈々と受け継がれてきたしきたりだ。

 鶴は一族を取りまとめる宗家の姑娘むすめから択ばれる。鶴呤は齢五つのときに鶴となることがさだめられた。

 鶴は満月を映した浄瑞だけを吸って十年掛けて育ち、天に昇る。

 文様が拡がる――鶴が育つともいうのだが、身のうちを焼かれるような激痛をともない、その晩からしばらくは熱にうなされる。鶴は日を嫌うので、昼に出掛けることはおろか、暮れるまでは窓の側にも寄れない。鶴が育ちきるまであいだにいのちを落とすものは数知れなかった。

 されどもつつがなく鶴が昇れば、むこう五十五年に渡り豊穣が約束され天候の禍に見舞われることはないとされる。

 このことから邵の一族は帝からも重んじられ、鶴を昇らせることができれば宗家の娘をひとり、側室に迎えてもらうことができる。そうなると一族には多額の財がまわってくる。辺縁の地にひっそりと隠れるように暮らすせいぜい三百あまりの一族にとっては、それだけがよすがのようなものだった。

 それほどのことだというのに、鶴の儀に誰も立ちあわないのにはわけがある。

 月を啜る鶴の側にいると祟られると言い伝えられているからだ。


「ばかばかしい。俺なんか五年はあなたに就いていますが、祟りなどありません」

「けれどもこれまでわたしにつかえてきたものはみな、ひととせも経たぬうちに死に絶えた。死ななかったのはおまえだけよ」


 月盤のようにまるい瞳がきゅうと細められ、俺を映す。


「前任の衛は殺された。知っているでしょう」

「……虎に喰われたんだろ。虎を殺せなかったほうが悪い。俺は殺せる、虎でも熊でもやまいぬでも」


 背に掛けていた槍を抜きはなち、緩やかにまわす。抜き身のやいばが月を弾いて鈍い輝きを放った。いつ、どこから獣が襲いかかってきても殺せる。

 その獣がなんであろうと。

 

「そうね。おまえはちゃんと、殺してみせたものね」


 頬を綻ばせ鶴呤は再び望月に憩いはじめた。

 砕いた貝殻を練って乗せたような艶のある肌に月が華やかに映える。

 てのひらを桶がわりにして水をすくいあげては、彼女は肌で味わい舐めとるように月とたわむれた。そらされた喉から裸の胸にかけて水の筋が流れる。つつましやかな膨らみのあいだを細滝のようにとうとうと落ち、みぞうちをつたってなめらかな腹に滴る。

 果実の瑕のようなへそのくぼみが、何故か哀しかった。

 彼女は卵から産まれたわけではない。

 それでも彼女はいま、鶴だ。


 鶴呤は静かに月を振り仰いでいる。その澄みわたる沈黙のなかに幾ばくの想いがあるのか、俺には察することはできない。


 こわくはないのか。

 

 おもわず声を掛けたくなって、言葉を飲みこんだ。そんなことをいって、どうなるのか。

 

 鶴の衛は鶴の身のまわりの雑務をし、外敵からまもるというのが表むきの役割だが、鶴がどこにも逃げないように見張るのがほんとうの任務だ。それをおそらくは、鶴呤も知っている。


 どれくらい時間が経ったのか、段々と月が傾きはじめた。

 泉の縁に掛かるほどになって鶴呤は泉からあがる。蚕のまゆをほどいたような髪が肌に張りついて背の鶴を覆い隠す。その肩に乾いた外掛をそっと被せる。いつのまにか、肩にまで鶴の文様が拡がっていた。ほんの微かに腕が震えていた気がして、とっさに視線を逸らす。


「帰りましょうか、日が昇らないうちに」


 朝は遠い。



 ………………

 


 邸の回廊には夜通し絶えることなく火が燈されている。

 鉄製の吊り燈籠に照らされた中庭では芙蓉に芍薬と夏の花々が咲き群れていた。軒端では百日紅が盛期を迎えている。

 いつみても宮廷のような邸だ。

 政にも戦にも関与することのない一族の邸がこれほどまでに華やかな贅をつくせるのも鶴の恩恵の賜物だった。

 鶴呤カクレイの暮らす扎敷ざしきは橋を渡ったさき、邸の離れにある。

 薄絹の外掛だけを羽織った鶴呤に供だって回廊の角をまがると、豪華な襦裙きものの裳をひきずった姑娘むすめが女官と一緒にこちらにむかって進んでくるところだった。

 こちらに気がついて、彼女はすすっとすりあしで近寄ってきた。 


「まあ、鶴呤お姉様ではございませんか。今晩は満月でしたものね」

毘翼ヒヨク様」


 俺が横によけ、頭をさげた。

 毘翼ヒヨク。彼女は鶴呤の双子の妹妹いもうとにあたる。

 鶴呤とまったく鏡映しの貌をしているのに、表情が違っているだけでこうも印象が違うものなのかと驚かされる。

 毘翼は宵の帳のようなぬばたまの髪を双輪に結いあげて珊瑚の簪を挿していた。鶴呤も幼い頃は彼女と変わらぬ見事なまでの緑の黒髪だった。鶴が育つにつれて白髪になってしまったが、艶やかさはいまも妹妹に勝るともおとらない。

 毘翼は鶴呤の細い肩に鶴の文様が刻まれているのをみて、いかにも憐れむように眉根を顰めた。


「ああ……なんておいたわしいんでしょう、お可哀そうなお姉様」


 触れるか触れないかといった際まで手を差しのべ、けれどもついに鶴呤の腕を取ることなく、毘翼は項垂れる。


「わたくしね、ほんとうに胸がひきしぼられる思いなんですのよ。何故、お姉様が鶴に択ばれてしまったのでしょうか……いえ、わかっておりますの。一族にとって鶴はほんとうにたいせつなものなのだと。それでも、お見掛けするたびにつらくて」


 毘翼はそのおおきな瞳からなみだをぼろぼろと溢れさせた。


「だってわたくしは翌年の春には後宮にあがり、帝のお側につかえて華やかな暮らしができますのに。お姉様はもう、春を迎えることはできないんですもの。早ければ錦秋の頃には……そんなの、あんまりですわ」


 鶴呤は黙っている。いったいどんなきもちで騒ぎたてる妹妹をみているのだろうかと横から窺えば、彼女は嘴のように唇を硬くつぐんでいた。


「わたくし……ほんとうにお姉様が不憫で」

「毘翼様、どうかそのくらいに」


 横から口を挿めば、毘翼はいらだたしげに俺を睨みつけてきた。


「何故。わたくしはただ、お姉様のことを想っているだけよ。あなたのように卑しいものに責められるいわれはないわ」


 ふんと、毘翼は顎をあげる。

 腹のなかでぐるりと怒りが渦を巻いた。鶴呤もたいがい驕慢だが、毘翼の態度はなんとも鼻につく。俺のことはいい。一族のなかでも余所者の血が雑ざった俺は昔からずっと蔑まれてきた。

 だがあれは。鶴呤にたいする侮辱だろう、違うのか。

 無意識なのか、わざとなのか。鶴呤のことを憐れみながら蔑むところがいやらしくて嫌いだ。遠まわしにでも言いかえせないものかと考えていると、ついと漢服の袖がひかれた。

 鶴呤だ。鶴呤は頭を真横に振ってから、歩きだす。毘翼はまだなにかいっていたが、俺も揖礼をして鶴呤の後ろを追い掛けた。


 回廊から橋に差し掛かる。

 橋の軒には数えきれないほどの風鈴がつるされていた。宵の風が吹き抜ける度に錫製の風鈴が頭上で雀のように賑やかな音を奏でる。音の御簾は現と異界の境界線だ。橋を渡り、離れの扎敷にもどる。

 窓のない扎敷だ。昨晩焚いた香のかおりがまだ噎せかえるほどにわだかまっていた。最低限の家具と香炉、竹簡ちくかんの他にはなにもない。おおよそ年頃の姑娘むすめ房間へやではなかった。鶴は望めばどんなものでもあたえられるのだが、彼女はなにも欲しがらなかった。たまに桃酥タォースウ包子パオズを食べたいだの、季節の花を摘んでこいだのというくらいだ。それらは全部すぐになくなるもので、つまりはそういうことなのだった。

 鶴呤は倚子いすに身を投げだす。


妹妹いもうとは愚かなの」


 細くたちのぼる紫煙のような吐息をまじえて、彼女はいった。


「一族の長の娘などなべて捧げものよ。鶴になるのも帝の側室になるのも然したる変わりがないのに。違うとおもうのが愚か。けれどもいわないであげるの。そのほうが幸せだもの」


 俺は倚子の側に膝をつき、鶴呤の踵を取ってひき寄せた。誤ってちからをこめたら砕けてしまいそうなほどにちいさな孩子こどもの踵だ。何処にも逃げてはいけない脚だった。

 梅のはなびらをはりつけたような爪がならぶつきさきに視線を落とす。


「あなたも供物ですか」

「鶴は供物よ」


 胸にひゅうと風が吹きこむ。


「あなたは鶴か」


 言葉の端がみっともなく震えていた。

 俺は彼女にどういって欲しいのか。なんと、いわせたいのか。

 鶴呤が指を差し伸べ、するりと俺の顎をすくいあげてきた。視線を絡め取られる。黒々としたそのひとみからは情緒というものは覗えず、ただ縋りつくような目線をした俺だけが映りこんでいた。


「わたしは鶴よ」


 その言葉を聴いて、無意識のうちに張りつめていた呼吸が肺からすうと抜ける。安堵してしまった。

 俺はいま、確かに安堵したのだ。彼女が鶴であることに。

 やましさを感じずにはいられなかった。

 胸が焼けつくほどの呵責を覚え、おもわず彼女の指を振りほどき、よろめくように後ろにさがった。とっさに顔を背ける。

 彼女は鶴だ。けれどもそれは、悲しいことではないのか。つらいことではなかったのか。

 なればこそ、俺は、俺だけは彼女を。

 鶴ではないと、いわせるべきではなかったのだろうか。


「違います、俺は」

「違わない、わたしは鶴だもの」


 いまさら弁解は許されなかった。

 鶴呤はつまさきで俺の胸をこつんと蹴る。わざと遠ざけるように、あるいは罠にかかってしまった憐れな動物を逃がしてやるように。


「喉が乾いた、なにか潤うものをちょうだい」

「……はい」


 項垂れるように頭をさげ、鶴呤の扎敷を後にする。

 いつのまにか、月は雲に隠れていた。



 ………………

 

 

 鶴を、はじめてみたのはいつだっただろうか。


 満月の晩に竹林に踏みいらないのが一族の掟だった。

 鶴のことは一族にとって暗黙の了解で誰もが知りおよぶところだが、実際に鶴を見掛ける機会などはそうはない。普段鶴は宗家の邸にある離れにこもっており、満月の晩に泉に赴くときをのぞいては邸のなかを歩きまわることもない。まして邸から数里離れた集落で暮らしているものにとってはよけいに縁遠く、満月の晩に竹林からひかりがあがったら鶴がのぼったのだと祭りを催す、その程度のことだった。


 だから俺は冬の晩、日も暮れかけているというのに、猪を追いかけて竹林を突き進んでいた。十八だった。勇敢だったし考えなしだった。けっきょく猪は取り逃がしてしまい、雪が降りはじめたせいで足跡が埋もれ、帰り道もわからなくなって竹林を彷徨うことになった。

 宵の帳が落ちてから、どれくらい経ったか。

 いつ虎がでるか、やまいぬがでると神経をとがらせて歩き続けていたせいもあって、満月が竹の頂に掛かる頃には草臥くたびれきっていた。凍てついた雪がはらはらと舞っているのに、雲もなく月ばかりがこうこうと冴え渡る奇妙な晩だった。

 進み続けていればなんとかなるだろうと雪をかぶった笹を踏み分けていた俺は、青竹と青竹のはざまからぼうと青みがかったひかりが洩れているのをみて、誘われるようにひかりのもとに寄っていった。


 月だ。

 竹林にかこまれて満月が落ちていた。いいや、月がふたつもあろうはずがない。まして地上に。あれは泉だ。透きとおったみなもに月が映り、満々と、泉の縁から溢れださんばかりにひかりを湛えているのだった。

 水月に擁されるように裸の女孩むすめがたたずんでいた。

 

 一瞬、呼吸ができなくなった。

 あしもとから旋風が吹きあげて、身ごと浮かびあがるような浮遊感があった。眩む風景のなかでその純白のすがただけがくっきりと際だって、確かだった。

 舞い散る雪華をはたいたような白皙に柘榴を割ったような紅の唇。玻璃に彫りきざんだような額から鼻までの曲線。黒曜石の瞳には月が映り、薄っすらとではあるが、瞳そのものが青い輝きを帯びていた。

 濡れ髪から雫を滴らせて、彼女はまっすぐに月を振り仰いでいる。

 人ならぬ月魄かとおもった。いましがた月からおりてきたのだといわれても疑わない。それほどに幻想じみていた。

 彼女は寒さなど感じていないかのように雪の降り続けるなかでも泉に腰まで浸かっている。ゆらりと漣をたたせて、なにげなくこちらに背をむけた。


「っ……」


 とっさに口を塞いだ。そうでもしないと声をあげていた。

 その女孩の背には翼の彫り物があった。


 視線を感じたのか、女孩がふいとこちらを振りかえる。

 すかさず雪を蹴り、走りだしていた。みてはならないものをみたのだという震えがこみあげてきた。誰も追い掛けてはこなかったが、けっきょく集落に続く道に転がりでるまで立ちどまることはできなかった。

 そのあいだ、死んだ大爺じじから嫌になるほどに繰りかえし刷りこまれた話が頭のなかに渦巻いていた。


 満月の晩に泉にいるのは鶴ばかり。

 鶴ばかりなのだ。


 俺はそれを誰にもいわなかった。いえるはずがない、掟を破ったのだから。

 それなのに、わすれられない。月が満ちると透きとおるようなあの姿が瞼に甦り、喉が渇くような、肌がひりつくような焦燥に捕らわれた。あの鶴のすがたが夜ごと夢を濡らし、胸を掻きむしられる。

 俺は、恋をしたことはなかった。

 幼くして親がいなくなってからというもの、おのれが喰うことばかりを考えていた。

 だからこれが恋といっていいものなのかどうかはわからなかった。


 満月の晩に俺は再び、なにかに誘われるようにあの泉に赴いていた。

 鶴はいた。春めいてきたとはいえ、まだまだ身を斬るほどに凍てついた水になめらかな肌を濡らして。

 それからは月が満ちるのを指折り数えては鶴に逢いにいった。逢いにいくとはいっても俺はいつも隠れて、鶴が月を啜るすがたをぼうと眺めているだけだ。鶴の側にはいつも衛がいた。声を掛けることはできず、だが不思議なことに満たされていた。


 白紙のような桜が散って、徐々に雨が増えてきた暮春のことだった。

 泉にたどりついたものの、その晩はいつもと様子が違っていた。泉のなかに鶴のすがたがないとおもって視線だけで捜せば、彼女は草場の影で若いおとこに組み敷かれていた。

 豺のようにほっそりと引き締まったからだつきをしたおとこだった。あれは確か、鶴の衛だったはずだ。

 それが何故、鶴を害するのか。

 鶴はなにをされそうになっているのかもわからないのか、抵抗もせずに裸身を投げだして漠然と月を眺めていた。けれどもこころを凍らせたような頬に一筋、きらりと清らかな雫がこぼれていた。

 ゆるせなかった。ゆるせるはずがないだろう。愛を騙りながら幼いその身を乱暴に暴こうとした鶴の衛を槍で幾度も貫いて、殺した。

 後にはただ、虎に喰い散らかされたような骸だけが残った。

 鶴は細竹に掛けられていた襦衫を取るでもなく、血まみれの俺を無表情に仰いでひとつ、訊ねてきた。


「おまえはだれ」


 血の滴る槍を握り締めて俺は喉を震わせた。


「俺は虎だ」


 鶴はなにをおもったのか、不意に視線をさげ、笹の影に倒れたむごたらしい骸をみる。


「そう……だったらあれは、虎に喰われたのね」


 彼女は眉根を寄せて憐れむようにうっそりと、濡れた頬をもちあげた。

 白皙の微笑はぞくりと背筋が痺れるほどに美しく、それでいて触れればあとかたもなく崩れてしまいそうなくらいに果敢なかった。


 ああ、これが。


まもりが虎に喰われていなくなってしまったの。ねえ、おまえがかわりにわたしの衛になってちょうだいな」


 これが美しいというものか。


 親をなくし、猟師の大爺に拾われ、ずっと喰うためだけにいきてきた。思えば、なにかを美しいとおもったことなど、ひと度たりともなかった。桜をみても月をみても、こころは動かなかった。美しいということは知っていたが、それは単なる詞だった。

 すくなくとも、こんなふうに身が震えるほどの実感をともなうものではなかったのだ。

 俺はがっくりと崩れ落ちるようにして草地に跪いていた。齢十。ひとまわりも幼い女孩むすめのあしもとに額をすりつけて、降服する。

 恋ではなく、愛かどうかもわからず。


 それでも、あのときから俺は、鶴の衛になったのだ。



 ………………

 


 最後の月は美しかった。

 重さを感じるほどにおおきく、つうと傾いて落ちてくるのではないかと竦むほどだった。

 異様なまでに美しいものというのはひとのこころをざわつかせる。美しさとおそろしさは常に背中あわせだ。美しいものはいつだって張りつめた弦のように静かなのに、まわりにいるものは胸をかき乱され、穏やかではいられない。


「鶴呤様」


 呼び掛けながら跪けば、泉のほとりにたたずんでいた彼女が緩やかに振りかえった。白の髪が翼を模して風を巻きこみ、拡がる。

 文様は項から頤のほっそりとした輪郭をたどり、頬にまで掛かりはじめていた。きらきらと頬の瞬くさまは彼女が堪えてきたなみだの氾濫にもみえる。


「あなたを、遠いところにさらいたいといったら、ついてきてくださいますか」


 最後の満月。今晩には鶴が天に昇る。

 俺は、鶴をさらうと決めていた。鶴呤がそれを望んでくれるのならば。

 

「……何故?」


 ややあって、鶴呤は訊ねてきた。


「愛しているからです、あなたを!」


 問いかえされるとはおもってもいなかった俺はなかば、いきりたつように声をあげた。あるいは怒鳴るほどの勢いがなければ、言葉にはできなかった。

 雲が月を隠すように鶴玲の瞳に影が差す。



「そう、それならばわたしは、おまえとはいかない。だっておまえは、鶴ではなくなったわたしのことは愛せないもの」

 

 がく然となり、けれども俺はゆるゆると観念して項垂れた。そんなことはないと嘘を重ねるには俺はあまりにも愚かで、彼女は敏い。

 俺には鶴ではない彼女がそもそも想像できない。それは嘴のない鶴を、春に咲かない桜を思い描けというようなものだった。

 俺にとって彼女は、どうしようもなく、鶴だった。

 

「わたしが鶴でなければ、わたしがこんなふうに美しくなければ、あなたはわたしを愛さなかった。わたしにつかえることもなかった……違う? 違わないはず」

「そうだ。俺は……あなたが鶴だったから、とても、美しい鶴だったから……あなたの側にいたかった」


 言葉を重ねながら、おのれを恥じる。美しかったから愛した、鶴だったから側にいた、というのはなんともばつが悪かった。でもそれだけじゃないと喉に刺さる棘はついに抜けず、吐きだすことも飲むこともできない。


「おまえは愚かね。鶴ではないわたしは、そもそもわたしではないのに」

「それでも……あなたは、鶴呤だ」


 鶴であるまえにひとりの姑娘むすめであるはずだ。


「だからこそよ。わたしから鶴をきり離すことはできないし、鶴からわたしだけを取りあげることもできない。だってそうでしょう。熱にうなされて一睡もできなかったあの朝が、再びに青い空を仰げないのだという諦めが、それでも鶴ならば鶴としてあろうという決意が。いまのわたしをかたちづくったのだもの」


 誰しもがそういうものではないの、と鶴玲はいいきった。


「おとこであることを取り除いたおまえはおまえではないし、そも、わたしと逢わなかったおまえもおまえではない」


 竹藪に風が渡る。

 一瞬、鶴が舞いあがったのかとおもった。

 だが違った。鶴玲が衫襦を脱ぎ棄てたのだ。真っ白な絹が風を受けて拡がり、月に吸いこまれるようにして吹きあがっていく。


「わたしは鶴よ。そう望まれ、わたしもまた鶴であろうと決めたのよ。ゆえにわたしほどの鶴はいないと知りなさい」


 鶴の矜持ではなかった。鶴が供物でしかないことを聡明なる彼女はとうに知っている。より穏やかで純然と透きとおった誇りがいま、彼女を彼女たらしめていた。

 鶴玲は踵をかえすと満々と月影を湛えた泉のただなかに進んでいった。裸足のつまさきで曇りのない水鏡を踏みくだき、戦に赴くように。それでいて、華やかに舞でも演ずるような足取りで。

 背に刻まれた文様がしらじらと輝きはじめた。翼がぼうと浮かびあがる。


「おまえが鶴ではないわたしを愛するなど、決して許さないわ。わたしではない他の鶴に惚れることも許さない」


 彼女はもはや振りかえらず、ただ、美しい裸の背をさらして、いった。


「憶えておいで、鶫刹トウセツ


 それが、最後の言葉だった。

 背の、鶴が啼いた。咲きこぼれるように純白の翼が肌を破って、あふれだす。腰の曲線をなぞり、あるいは肋骨にそって、その身を華やかに飾りつけていった。祝福するように鵬翼ほうよくが姑娘を擁く。

 宵の風を従えるにふさわしい、白。

 羽根はかぎりなくわきあがり、季節はずれの地吹雪のごとく舞いあがった。


「鶴呤様……ッ鶴呤」


 おもわず声をあげ、かけ寄ろうとしたが、羽根の嵐にはばまれて泉のほとりで立ち竦む。

 

 翼のなかでなにかが弾けた。

 

 鶴だ。

 しらじらと燃えながら、一縷の鶴が舞いあがる。こうこうとひと際清んだ声を響かせて竹林の頂をつき抜け、月に還っていく。

 後には泉を覆いつくすほどの純白の羽根だけが残された。


 どれくらい泉の側にたたずんでいたのだろうか。

 風にあおられるように崩れ落ちる。膝をついて、茫然と月を仰いだ。水のおもてに漂う羽根をすくいあげてもむなしい。ただ、なみだがあふれてとまらなかった。

 鶴は遠くにいってしまった。俺をおいて。

 あなたを知らなければ、食い繋いでいくだけの日々になに悲しむこともなく、生きながらえていけた。

 それでも逢わなければよかったとはどうしても想えないのだ。美しいもののいないせかいに絶望することは不幸ではない。不幸ではない。


「鶴玲、そちらでも俺につかえさせてくれないか……あなたがいないと、俺は」


 俺では、いられないから。


 槍を背から抜き放ち、俺はひと息にみずからの胸を貫いた。

 血潮が喉にせりあがり、溢れる。腹のうちから焼けつくような劇痛がじわりじわりと拡がっていく。ああ、彼女もずっと痛みにたえていたのだろうか。

 からだを起こしていられず、水際に倒れこんだ。羽根に埋もれ意識まで白に覆いつくされていく。


 風が吹きおろしてきた。青竹が縺れ、笹の葉がこすれあってざわざわと騒いだ。ふとそれが、きぬずれの調べに聴こえた。鶴が遠くから呼んでいるような。

 舞いあがることはできずとも、冴えわたる月の底に沈んでいけることが何故だか、とても、幸福だった。 


 ………………


 翌朝になって、一族のものが泉に確かめにいくと、そこにはみなもを蓋いつくすほどの鶴の羽根だけが残されていた。それらは月よりも純白しろかったが、水際に打ち寄せられた羽根は血潮でも吸ったように紅かったという。

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