最終話 これが俺のスフィアだ

 海へ行く当日。陽妃ようひは俺を見るなり怪訝な顔つきになった。そりゃなると思う。俺はスフィアを連れてきていたから。


「正気なの?」

「物凄く正気だ」

「じゃあヤバいよ」

「知ってる」


 スフィアをそれと気付いた人は、目を背けたりひそひそ話をしたりと大変そうだった。駅員は俺とスフィアを二度見して、駆け寄ってこようかどうしようか迷ったような素振りを見せて、結局来なかった。これが問題なら、割とあらゆることが問題になる社会だからな。


 電車に乗って、さすがにスフィアの分の席を確保するのは申し訳なかったので、俺が立つことにした。


 電車を降りて浜辺に向かって歩いて行く。道中人は少なかった。まだ海開きもしてないから、そりゃそうだ。


「俺さ、いろいろ考えたんだけど、スフィアを愛することにする」


 陽妃が固まった。歩くことを忘れて固まった。


「ああ、違う違う。広義の意味で」

「広義の意味でもわけわからないよ」

「そうだろうな」

「なに? 私にフラれて頭がおかしくなったの?」

「あれ? 俺、フラれたの?」

「いやそう言うつもりじゃあないんだけど。ごめん、変な言い方して。でも、白瑠はくる君がおかしなことを言うから」


 俺はスフィアに目を落とす。スフィアは怪訝な顔つきで視線を返してくれる。


「どうしたんだよ?」

「愛しているよ」


 スフィアは頬を赤らめてそっぽを向く。


「ばっかじゃないの!?」


 怒られてしまった。陽妃もスフィアと同じことを言いたいようで、うんうんと頷いている。


「俺はさ、たとえどれだけ俺であろうとしても、俺であることを認めてくれる人が一人も居なくなったら俺じゃあないんだ」


 俺がこう言う系統の話をするのは初めてではなく、陽妃はどちらかというとこの面倒くさいときの俺が好きだったりする。と言うのは、彼女の目や相槌の打ち方を見ていればわかる。


「この前一人ぼっちになってわかったよ」

「だからごめんって」

「いいよ。仕方のないことだし、そのおかげでこんな当たり前のことに気付いた。陽妃が傍に居なくなってから、自分が変態陰キャぼっちだってことに気付いた。と言うか、そう理解せざるを得なかった。今まで俺を俺足らしめていたのは、俺のことを理解してくれる人、陽妃が傍に居てくれたからなんだ。人々が孤独を避ける理由は、多分これなんだろうなと思う。あ、だからと言って別に今から付き合ってくれと言うわけじゃあないから安心してくれ」


 海が見えるところまで歩いてきた。もうすぐ浜辺だ。


「スフィアは男性恐怖症で、俺が触ると蕁麻疹が出るし泣く。だから絶対にできない。なにがどうあれスフィアでオナることは不可能だ」


 海は人を解放的にするな。オナるだなんて、なかなか人前では言えない。なんかこの前個室で近い言葉を言っていた気もするけど。


「でもスフィアはオナホであろうとした。それが自らのアイデンティティだと信じて。この辺りはわかるか?」

「うん」


 陽妃は頷く。隣のスフィアの顔は相変わらず赤い。金髪がサラサラと潮風に揺れる。


「だがアイデンティティと言うのは、自分自身がそう思ってなるものじゃあなくて、他人から思われて初めて確立するものだ。スフィアには俺のオナホであるというアイデンティティを与えた。であるならば、俺の使い方を受け入れることで、彼女のアイデンティティは保たれると言うわけだ」

「理屈はわかったけど、まだお昼だし、少し声小さめでお願いできるかな」

「悪い」


 浜辺へと続く階段に腰を下ろした。ザザーンと打ち寄せる波の音が心地良い。


「その使い方と言うのが、友達と海に行くことだ」

「なるほどね」

「こんなことを受け入れてくれるのは、スフィア、君だけだ」

 金髪女子高生が複雑そうな心境を抱えてぎこちなく笑った。——え? あ、違うこれ引いているのか。俺今オナホに引かれているの? まあいいや。

「これが俺のスフィアだ。だから、リペアはしない。テセウスの船に、彼女は乗せない」

「テセウスの船に乗せないって?」

「スフィアのどれか一部分でも変わったりしてしまったら、それはスフィアじゃあないと思うんだ。だからそのパラドックスの解明には、初めから参加しないでおくという意味だ」


 彼女は首肯して息を吐いた。

 俺が海を見つめていると、彼女も隣で海を見つめた。


「これは予想だけど、陽妃の彼氏は猫好きか?」

「ええ!? なんでわかったの?」

「猫って話題にしやすいからな。どうせ陽妃のことだから、猫のことを自慢して回ったんだろう」

「そんな! 自慢して回っ……回りました」

「猫が好きな人に、俺も猫好きなんだって言えば一瞬でシンパシーを得られ、心の壁を崩すこともできる。好きな女を落とす常套句じょうとうくだと思う」

「彼が嘘ついているってこと?」

「いや、嘘かはわからない。ただ気を付けた方がいいと言うことだ。俺は、猫好きアピールなどなしに、陽妃と仲良く友達をやって来られた身だからな」


 というアピールをしておく。


「ただまあ、動物に好かれる人間に悪いやつは居ないとも言うし、彼氏がいい人なら、応援するよ。友達として」

「ありがとう。悪いやつだったら?」

「そのときはまた俺のところに帰ってくればいい。そのときまでには、俺も陽妃のことを女性として好きと言えるようになっていられるように努力する。そうすれば、悲しみと喪失は短くて済むだろう?」


 俺の提案に、困ったような顔を見せる。


「白瑠君は優しいね。女の子を甘えさせる天才だと思う。でもいいの? それじゃあ都合のいい男だよ」


 俺は陽妃から視線を外し、スフィアを見た。スフィアの瞳にはもうあの霜柱のような危うさはない。海と空の青をただ反射している。ありのままそこに在る。


 陽妃に向き直る。


「問題ないよ。その代わり、俺はこれから陽妃のことをオナペットにするから」

「お、おな!?」


 もう一度スフィアに視線を落とす。


「そしてそのありさまを、スフィアに観察してもらうことにする」

「へああ!?」


 彼女たちは驚愕に身を強張らせながら、赤面している。


「な? こんな俺を受け入れられるのは、スフィアと陽妃だけだ。俺は君たちにとって都合のいい男じゃあないだろ?」


 俺が肩を竦めて言うと、彼女たちはホッと息を吐いて胸を撫で下ろした。


「俺が俺なのは君たちが居るおかげだし、陽妃がただの猫好きじゃあなくて他にもいろいろな魅力を持っているのを知っている俺が居るから陽妃は陽妃だし、スフィアに俺が望むオナホとしての在り方を俺がこいねがうからスフィアはスフィアなんだ」


 そしてこんな話を大真面目に聞いてくれるのは、この世界で二人だけだろうと思う。ずっと傍に居てくれた陽妃だから。己の宿命に真摯に向き合い続けたスフィアだから。


 空の青と海の青は同じ色なのに混ざり合うことはない。けれどもしかしだからこそ、水平線は在る。その上にはテセウスの船が在って、様々なパラドックスの解明にいそしみながらこちらへ向かってくる。混ざり合わない青と青を背景にしながら。


 俺は真っ向勝負で否定する。

 近くにあった貝殻を拾って海へ投げる。

 どっぶんっ。と音を立てて沈む。

 さっきまでの海はもうこの世には存在していない。

 さあ、消え去れ、テセウスの船よ。

 俺は白瑠のオナホスフィアを愛し、守り通す誓いを立てたのだ。

 目の前まで迫っていた小さな白波が、ぬるりと消えた。


「あ。ところでさっきのオナペット云々の話は冗談じゃなくてマジだから」

「はあああ!?」


 二人は仲良くハモって、顔を見合わせた。

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不良少女はテセウスの船に乗れるか? 詩一 @serch

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