第10話 今度海行かない?

「さっさとオナニーしないから単位落とすハメになるのよ」


 と言う最悪の夢から一日がスタートした。


 俺は真剣に考えているが、はたから見ればバカがバカなことを考えているようにしか思えないだろう。さっさと捨てて新しいオナホを買え。或いは、せっかくヤらせてくれそうな友達がいるんだから義理立てとか考えずにヤっちまえ。だいたいのやつらがそう言うに決まっている。


 電車の吊革に掴まりながら、高速で過ぎ去っていく景色に目をやる。新緑色の稲穂が風に撫ぜられて柔らかな波を作っている。あの稲穂でさえ、俺を笑っているように思える。


 学校に着くなり、陽妃ようひが話し掛けてきた。眼鏡の奥のタレ目が、いつもより妖艶に見えた。


「あのさ、白瑠はくる君」

「どうした?」


 俺はドキリとしながら答えた。


「この前のこと、言わないでほしいんだよね」

「この前のって、ネカフェの?」


 こくこくと頷く。ふわっふわっと肩の辺りで揺れる髪。

 急にどうしたんだ? と言うか、今さらどうしたんだ。俺が既に言ってしまっていたらもうどうしようもないじゃあないか。陰キャだから言う相手もいないけど。


「言わないよ」

「ありがとう」

「でもなんで急に?」

「あの、その」


 歯切れが悪くなる。本当にどうしたんだろう。


「彼氏が、できまして」

「ほほーぅ」


 そんな言葉しか出てこないのは、正直がっかりしたからだ。この間のことが有ったから、どこかで期待をしていた。別に好きじゃないってのは嘘で、俺のことめちゃくちゃ好きってパターンを。でも本当に別に好きでも嫌いでも無かったんだな。

 そう思ったら、なんだか力が抜けてしまった。胸の中のドキドキはモヤモヤへと変わり、徐々にその体積を増やしていく。

 これは嫉妬だろうか。それとも後悔? どれも違う気がする。俺は陽妃のことが好きではあった。でもそれは別に恋人にしたいとかそう言うたぐいの感覚では無かった。負け惜しみとかじゃあなくて。だったら友達に朗報が有ったってだけの話なんだから、言祝ことほぎを伝えてもいいんじゃあないかって思うんだけれども、なんだかおめでとうと言う気にもなれない。あのときネカフェで見せた彼女の不安げな表情や吐露は、すべて嘘だったのか、なんて意地悪なことを考えてしまうからだろう。だとすれば問題があるのは俺の心の方で。


 考え込んでいたせいで随分と沈黙を続けてしまっていたようだ。彼女は気まずそうな顔で俯き、ごめんと呟いた。


「謝ることじゃあないだろ?」

「でも、あのとき、なんか、私の方から誘ったのに。それに、結局私が考えるほど、男の人って怖くなかったから……白瑠君には甘えていただけなんだなって」


 今にも泣きそうな陽妃の顔を見て、あのときの彼女は本音を言ってくれていたんだと悟る。あのときも今も、彼女は俺に真摯であるだけだ。思っていることを包み隠さず曝け出してくれている。それならば、それだけで、もう十分俺は幸せなのだった。


「じゃあ、って言うのも変だけど、今度海行かない? もちろん日帰りで」


 日帰りと言うのは、君とやましいことをしたいわけじゃあないという意思表示だ。彼女はその言葉の端々にまで目を通してくれる。


「うん、いいよ」


 短く言い、去っていく。肩の上で踊る毛先。もう何度もこの光景は見られないんだなと思うと、ちくりとなにかが刺さる感覚が残った。

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