その後のお話 その二 大人たちの葛藤

 その重い扉を開いた途端、むせかえるような匂いが襲って来た。

 血の匂いや悲鳴奇声には随分慣れたが、これは全く初めての事だ。

 一面に倒れる、人の塊。

 そのどれもが死人の上に、かなり腐敗していた。

 充満するその匂いは、エンを絶望させるに十分なものだった。

 この中に、生きている者は、いない。

 ましてや、自分が探しているのは、今年八歳になったはずの、小さな子供だ。

 三年以上前に連れ去られたならば、もっと幼かったはずだ、こんな場所で生きていられるはずがない。

 見目が良い子供だったと聞いているから、酷い境遇に陥ってはいないだろうと、楽観していたのが悔やまれた。

 踵を返し、そこを後にしようとしたエンに、掠れた声がすがって来た。

「お、お待ちください。どうか、お助け下さい……」

「あの方に、どうかお取次ぎを。我々を、ここから出してくださいっっ」

 耳を疑って振り返った男は、ゆっくりと身を起こす男達に気付いた。

 半ば這いつくばる様に歩み寄り、男たちはエンの足下で慈悲を乞う。

「こんな所、永くいては狂っちまう……どうか、お助け下さい。早く、ここから出してください」

「村で、静かに生きさせてください」

「……」

 目を細めたまま黙るエンを仰ぎ見、何を勘違いしたのか一人の男が手にしていた物を、前に差し出した。

「今度こそ、こいつに許しを乞わせます。どうか、お取次ぎを……」

 言いながら、男はその塊を攫み、床に押し付けた。

「早く命乞いしろっ。オレたちまで、死んじまうだろうがっっ」

 その、肉の塊にしか見えないそれを見下ろし、エンは思わず目を凝らした。

 薄暗いからそう見えたのではない、死体に埋もれそのまま放って置かれたせいで、いや、この男たちの恐怖と鬱憤を全面で受け続けたせいで、人にあるまじき容姿にまで、落ちてしまっていたのだ。

 枯れ木の様な小さな体つきは、子供と見える。

 目を見開く男の前で、その塊は小さく身じろぎしたが、顔を上げる力までは、残っていない様だった。

「お願いいたします、どうか、あの方に……」

「あの方と言うのが、どの方なのかは知らないが……」

 エンは、せり上がる感情を隠しながら、穏やかに男を遮った。

 仰ぎ見るその男たちを見下ろし、言い切った。

「死人をこのまま、外に放逐するなんて、出来るはずがないだろう」

 自分の師、ジャックは死人を操る。

 だが、こんな傷んだ死体になるまで操るのは、冒涜と考えている人だ。

「死人? そんなひどい事を良くも……」

 傷ついて嘆く男たちは、一様に顔かたちが分からない程に腐敗しており、その匂いも鼻に突く。

「くそっ、お前のせいだぞっ。こんな謂われのない事を言われるのは、我慢ならんっ」

「お前じゃあ、話にならんっ、ここの城主を呼べえっ」

 突如襲い掛かった男の頭を、エンは右手で攫み、内心辟易しながらも言い切った。

「この城には、もう誰も残らない」

 生き延びるのは、何も知らない下働きの者たちだけだ。

 静かに言いながら、軽く力を入れると、攫んだ頭は潰れた。

 骨まで脆くなる程、すでに痛んでいたのだ。

 顔を顰めながら、エンは小さな塊を足蹴にした男を殴りつける。

「大体、静かに村で生きるなんて、生前のお前たちには無理だっただろう? だからこそ、ここにいるんだ。それは、覚えていないのか?」

 カスミを筆頭にしていた自分がいる群れは、この城の所業と、そこに集った荒くれ者達の事も、きちんと調べていた。

「その中でもお前たちは、女子供しかいない所帯の家に付け火して、死人まで出したそうだな。助ける事が出来たとしても、それはお断りだ」

 言い切ったエンは、蹲るように倒れたままの子供の傍に膝をついた。

 二人の男を呆気なく沈めた男を、他の死人たちは遠巻きに怯えた目で見つめている。

 子供の体は、触るのを躊躇う程に、ボロボロだった。

 肌の色も髪の色も全く分からない程だったが、瞼を開いて力なく男を見たその目の色は、間違いなくジャックと同じ色だ。

 よく生きていた、そう感激してもいいのだろうか?

 ここから助け出しても、この扱いの後では、永く生きられないのではないのか?

 エンは、ここに来て初めて、そんな不安を抱いた。

 こんな場所に長く閉じ込められ、死体と共に暮らしていたも同然で、その死体から、どんな病を貰っているかも、分からない。

 助かるかは分からない上に、自分がここを出す事で、他の者にまで病を蔓延させてしまう事には、ならないだろうか。

 ここで一思いに楽にしてやり、ここの死人たちと共に火にかけるか、一縷の望みをかけて連れて行き、精一杯看病してみるか、迷った。

 躊躇った挙句、後者を選んだのは、ジャックに嘘の知らせを持って行きたくなかったからだ。

 自分の上着で子供を包みこみ、抱き上げて立ち上がると、男たちがすがって来るのを全て振りほどき、扉の外に出た。

 その近くで動いていた老人に頷いて見せると、大きな老人は頷き返してそれとなくその扉に近づいていく。

 それを見届けてから、エンは悲鳴と狂乱が混じるその場から、静かに立ち去った。

 その子供が、本当にとんでもない見目をしているとエンが気づくのは、随分と遅かった。

 数十日の間、重湯と薬を飲ませ、病の元を殺す覚悟で何度も体を洗いながら、その後に焼酎をこすりつけていたのだが、子供が自分で重湯を飲み込むようになり、目に入った焼酎に顔を顰めるようになるまで、その容姿に関心を覚えなかったのだ。

 世話をしている子供に見惚れる事はなかったが、一抹の不安を覚えた。

 これから祖父さんとの対面があるが、その後の事は、慎重に考えなければならないと、もしもの場合は、自分が盾になり守っていこうと、そう心に決めた。

 だから、セイの容姿や中身に惚れて、崇拝しているという訳では、決してない。

 言ってみれば、子を思う親、もしくは孫を思う婆さんのような気持ちで、あの若者の事は気にかけていた。

 寿命で往生したかもしれないとしんみりとしたり、生きていると分かってほっとすることもしたが、それだけのつもりだった。

 だからこそ、自分が信じられない。

 なぜ最近、幻覚だの幻聴だのが、自分の身に起きているのだろう。


 初めにそれを相談したのは、ゼツだ。

 国の中央に近い山間にいた仲間たちと合流してからこっち、自分がおかしくなったと感じたエンは真顔で、医療に詳しくなった男に話していた。

「雑用してくれる子が、増えただろう?」

「ええ。ここに残していたのは、殆どそういう役割の人たちですから、あなたも楽になったでしょう?」

「ああ……楽、ではあるな」

 自分がやろうとすることを、代わりにやってくれる者が、何人かいる。

 薪を割ったり、洗濯をしてくれたり、大助かりなのだが……。

「時々な、その雑用の子らの混じって、セイが動いているのが、見えるんだ」

「は?」

「楽しそうに話している声も、時々聞こえてくる。オレは、頭がおかしくなったのかな?」

 切実な悩みに、ゼツは唾を飲み込んで、慎重に答えてくれた。

「楽しそうなセイの声、と感じる時点で、思い込みだと断じられるんですが」

「だよな……おかしいな、オレはロン程、執着しているつもりは、無いんだが……」

 深く唸り、試しに訊いてみた。

「似た容姿の子は、いるのか? 髪色が似てるとか、顔立ちが似てるとか……声が、そっくりとか」

「そうですね……顔かたちは、オレもよく分からないですが、声が似ている子なら、いるかも知れません」

 声は似ていても、感情をこめないセイの声と聞き違う程病んではいないゼツは、首を傾げながら答えた。

 そうだよなと頷き、エンも思い込みはやめようと思い決め、目の端に移る姿や声も気にかけないように努力していたのだが、ある時、ロンが真剣に切り出した。

「ねえ、セイちゃん、まだ来てない、わよね?」

 もし来ているとしたら、エンには声がかかっているだろうと考えてなのか、ロンはまずそんな切り出し方で、当代の頭領に声をかけた。

「来てませんよ。来てたら、こんなにのんびりとはしてません」

「そう、よね。あの子が来てたら、大騒ぎよね」

 頷く男に、その場にいた者達が首を傾げた。

 セイと別れた後、暫くは動けない程に落ち込んでいたが、気を取り直してすぐに残して来た仲間たちと合流した。

 いずれまた、あの子と再会できると、思ってはいる。

 しかし。

「そこまで気に病むほど、セイと一緒にいたかったのか、あんた」

「そう、なのかしら?」

 そこまでではないつもりなのだけどと、ロンも困惑している。

 ジュラが呆れて首を振り、ゼツはエンを一瞥して首を傾げる。

「……先日、気になったので、それとなく周りの連中に訊いてみたんですが、何人か、似通った髪色の子は、いる様です」

「そうなのか? 見目の方は?」

「西洋の子は、大体色白で、見目もいいですから」

 そのせいではとゼツは言い切り、ロンも頷いた。

「なるほど、そうよね。もし紛れていたら、いくら何でも、気づくわよね」

「そうですよ。あれだけ変わった子ですよ、近くにいるなら、目立って仕方がないでしょう」

 エンも大きく頷き、その話はここで収まった。


 その後、別な諍いの果てに、その話が蒸し返された。

 諍いの元の話を持って来たのは、何故か最近、別な場所に入り浸っていたオキだ。

「……仲間の中に、不穏な動きがある」

 短く切り出されたその内容は、ありきたりな群れの頭をめぐる諍いだ。

 四代目の頭がいる事は、群れ全体に知れ渡っていたが、それが誰かを知る者は、あまりいなかったようだ。

 最近まで二手に分かれていた上に、その前はロンと共に群れを仕切っていたから仕方ないが、この頃本来の頭の事が明るみになり、不満に思う者が現れたらしい。

「それは、まあ、見ただけでは、お前が非力にしか見えないから、仕方ないだろうが……」

 オキは小さく鼻を鳴らし、続けた。

「お前が出かける時に連れて行った二人がいなければ、お前は引きずり落とせると、考えているらしい」

「無理もないわね」

 近くで聞いていたロンは、いつもの笑いのまま頷いた。

「今の子たちは、あなたの父親の事も知らないもの。後ろ盾が見も知らない男の上に、ろくな力も持たないのにって、考えてるんじゃない?」

「まあ、本当にろくな力じゃ、ないんですけどね」

 エンも笑いながら頷く。

 時々見える死相も、木々に好かれる気質も、こんな稼業では役に立たない。

 だからこそ、腕力をつけているのだが、それもないように見えるのだろう。

 周りが派手すぎるのも、考え物だ。

「そいつらの考える二人と言うのは、ジュラとジュリの事か? そう簡単に、あの二人をどうこう出来るかな?」

 エンが首を傾げる。

 あの二人は、昔から小さな生き物を体に住まわせている。

 己の身を守らせる代わりに、生きるための食餌を与え続けているのだが、その餌のやり方は、どちらかというとジュリの方が有名だ。

 ジュラの方は、刀に形を変えるように躾けているから分かりにくいだけで、同じような生き物を有しているのだが、その事実に気付かずとも、その剣の腕は恐れられるに充分なものだ。

「油断しなければ、大丈夫よね。でも、万が一のために、気にかけてはおきましょう」

「油断云々の話じゃ、ないんだが」

 その力のほどを知る二人が、そう話を収めかかるのを、切り出したオキが遮った。

「どういう意味?」

「そいつら、あんたらが覚えているか分からんほどに、下っ端の奴らだ。己の力もわきまえているようでな、完全な搦め手で事を画策しているようだ」

 エンの周りにいる者たちの事や、その周りの者の身の上、悩みなどまで探り、それを利用して挑むつもりだと、オキは告げた。

「で、最近、奴らはジュリのすぐ近くにまで、刺客を迫らせることが出来ている」

 目を見開く二人はまだ、そこまで大事とは思っていない。

 オキは溜息を吐きながら、その刺客の話をした。

「そいつも、別に刺客になる気はないとは思うが、どうやら形見の組み紐を、どこかに手離したらしい。最近、親しくしている倭国の教師の連れ合いが、徐々に呪いでそいつの身を縛っているようだ」

 誰の事だと考え、ロンは眉を寄せた。

 セイの形見であった組み紐を渡されている者で、誰かの教えを乞おうと考える者は、一人だけだ。

 しかも、ジュリが弟の様に可愛がり、万が一襲われても手にかけようとは考えない相手だ。

「……分かりやすい、仲の良さですからね。どうしますか?」

 別方向から同じ人物を思い浮かべたエンは、一応ロンに伺いを立てる。

 襲われて反撃するのは躊躇うだろうが、その攻撃を真っ向から受ける程、ジュリは弱くない。

 大勢でその場に行って、逆に邪魔になるのもなんだろう。

 少し考えたロンは、小さく頷いてから言った。

「その、教師と連れ合いさんの顔だけでも、見ておきましょうか」

 素性が分からない者を相手に、何を画策してもうまく行かないのは当然だから、まずはこっそりとその連中の顔を拝もうと決め、二人は教えられた辺りに足を向けたのだが……少し、遅かった。

 森の奥のある場所で、見知った男が普段は手にしないはずの大ぶりの剣を振り上げ、ジュリに襲い掛かっていたのだ。

「あ」

 息を呑んだロンの傍で、エンはつい声を上げてしまったが、ジュリが無事だとすぐに気づいた。

 ゼツは、呪いに少しだけ強い。

 だからこそ、己の意思に反した動きが許せず、体を傷つける事でその動きを封じた。

 それで呪いは解けたようだが、別な襲撃が続いた。

 二人を離れたところで見ていた東洋の女が、突然獣へと変わったのだ。

 これはまずいとエンが動き、ロンは別な方を見てそちらに動く。

 獣が何故か動きを止めて身を離した時に、その背後を取った。


 意外に動きが早かった。

 いや、不穏な空気は随分前からあったはずで、今の時期に動くと言うのはむしろ遅い方だろう。

 何せ、その時は理由を知らなかったが、群れが二手に別れる前から、彼らは何かを企み、仕掛けているようだったから、戻って来た時もそんな不穏な空気のまま、同じように生活しているのが意外で、慎重というよりも臆病な奴らだったのだろうと、セイは虎と二人の男女の間に入った時、思った。

 本当は、左腕を口に差し込んで、完全に牙の上下がかみ合うのを阻もうと思ったが、ゼツの腕は太く、それでは牙が肉に食い込んでしまうのが目に見えてしまい、つっかえ棒替わりに腕を立てる事にしたのだが、腕が短いせいか牙に刺さってしまった。

 これは、深く刺さったなと考えながら、大きな虎を猫の様に首根っこを攫んで捕まえている男を見た。

 混乱して暴れる虎をものともせず、そのまま立ち尽くして自分を見る男の目は、驚きで見開かれている。

 足下に座るゼツとジュリも、妙に静かに自分を見上げていた。

 少し離れて立つロンまで、自分を見て固まっているのを見て、セイは微笑んで見せた。

 何故か顔を引き攣らせる面々に構わず、若者は言った。

「お頭さん達が来たなら、もういいですね。じゃあ、私はこれで」

 踵を返して、その場を離れる若者を追ってくる者はいなかったが、離れた先で待っていた者はいた。

「……まさか、本当に気づかずにいたとはな」

 オキが、遠目に見える面々を見ながら、呆れたように呟く。

 生き死にが分からない時ならまだしも、主が健在と知れた今ならば、群れに紛れて馴染んでいる若者を見つけるのは、簡単だった。

 簡単ではあったが、驚かなかったわけではないと、オキは声を大にして言いたいが、それを本人に言う事はないだろう。

 今言わなければならない事は、一つだ。

「怪我を、見せろ」

「あんたは、例の奴の方を、見ててくれ。起きてから、どうするか決める。少し眠れば、傷は塞がると、言っただろ」

 すれ違いざまに、途切れ途切れの声で言い、若者は身を潜めている場所へと歩き続ける。

 そこで傷を焼き塞ぎ、傷がいえるまでは眠ってしまう心算でいる。

 その背を見送り、オキは苦い溜息を吐いた。

 奴らが見たセイを、白昼夢と思ってくれればいいのだが、あそこまではっきりと姿を現してしまっては、それは難しいだろう。

 この辺りを山狩りされたら、すぐに見つかってしまうかもしれない、という不安もあるが、それより……。

「オレを捕まえて吐かせる方が、手っ取り早いと考えそうだな……」

 男は背筋に走った寒気で身震いし、黒猫の姿に戻る。

 ここに残るより、頼まれた見張りをやっていた方が、まだましだと考えたオキは、すぐに動き始めた。


 倭国育ちではあるが、生まれが同じなのかは分からないと、その女は言った。

 物心ついた時にはすでに女郎街におり、そこで厳しく躾けられた。

「……初めて男を取るって時に、変な心持になってね、足抜けしちゃったんだよ」

 追っ手を振り切り、山の中に入って走り回っている内に、体が大きな獣へと変わっていた。

 水鏡でその姿を見て、自分はこの国の女ではなかったと知った。

「きっと大陸か、それより海に近い国の生まれなんだろうね。二親とも、同じような獣だったんだ、きっと」

 連れ合いの男と会ったのは、その後だ。

「……こいつが住み着いた山がある、村の猟師だった」

 大きな獣が住み着いてしまい、村の者たちは怯えていた。

「冬に備えて取ろうとしていた木の実や、小さな獲物が、大きな生き物に食い荒らされていたから、どんな化け物が住み着いたんだと、村の奴らは山に入れなくなってしまって、オレの所に話を持って来た」

 落ち武者の末裔で、爪はじきにあっていた男だが、獲物を持って行けば物々交換をしてもらえていたから、自然にその頼みを受けた。

 弓矢と鉄砲を携えて山に入った男は、その獲物を見つけた時、仰天して腰を抜かした。

 それは当然だった、この国にはいないはずの虎が、取ったばかりの柿にかぶりついていたのだ。

「本当は、干し柿の方が好きなんだ。甘くてほっぺが落ちそうになるの」

 そんな事を言った獣が人形を取った姿に、男は一目ぼれしてしまった。

「……つまり、こういう事?」

 そこまで話を聞いたロンが、話に割り込んだ。

 話のおかしさに、どこから斬り込めばいいのか悩みながらの、切り出しだ。

「あなた、人を手にかけて食べた事、ないの?」

「そんな不味そうな物、進んで食べる程、まだ困ってないよっ」

「じゃあ、何で、ジュリは食おうとしたんだっ?」

 ジュラが目を据わらせて問うと、女は居心地悪そうに身じろぎして答えた。

「だって、可愛い狼を、色香でそそのかして侍らせてると、思ってたんだ」

「……」

 ジュリはおっとりと微笑み、首を傾げた。

「色香?」

「あんた、いつも、頭と側近たちに囲まれて、ちやほやされてるから、裏切られて見ればいいんだと、ちょっとやっかんでたんだよ」

 それが駄目だったから、脅かすつもりで襲い掛かったと言う女の言葉に、ジュリは首を傾げたまま訊き返した。

「……私が、ちやほやされているの? されてるかしら?」

 メルとジュラが、小さく唸った。

 床に正座している女が、頭を落として小さく謝った。

「御免。されてるどころか、あの狼の方が、あんたに守られてるんだね」

「そうよ、あの子、弱っちいの」

 ゼツがいない時で、本当に良かったと、男たちは同時に考えた。

 惚れている女に、弱っちいと言い切られるのは、流石に辛い。

「お前さんは確か、時々獣を売りに来ているな」

 エンが男の方に話しを振ると、女の隣に正座した猟師らしい男は頷いた。

「あんたらの稼業は、うすうす分かっていたが、獲物を売るだけなら、そんな事係わりないだろ?」

「ならどうして、ゼツに呪いを仕掛けた?」

「それは……オレじゃない」

 男は眉を寄せて答え、女もうんうんと頷いた。

「この人は、その類のことは出来ないよ。じゃあ誰って訊かれても、答えられないけど」

「どうして?」

 女の傍で、呪いにかかっていたのは確かだとジュリが目を細めるのに、困った顔になった女は、言葉を選びながら言った。

「私たちがあんた達とつかず離れずし始めたのは、五年くらい前からだよ。その間、余り係わりのない私たちに、愚痴を吐いた奴はごまんといる。この数か月は、あの狼坊やたちと近い所にいたから、逆にそれが聞こえなくなったくらいだよ」

 呪い云々の話を出した者も、少なからずいると言われ、その場の面々は顔を見合わせる。

 ただの内輪の諍いなのだが、その内輪の者が多すぎて、首謀者がはっきりとしない。

「……まあ、聞いた話を真っすぐ聞いてしまったオレたちが、少しうかつだっただけだが……お前さん、自分の連れ合いを手にかけようとしていたんだよな?」

 口封じでないのなら、どうしてと目で問われ、男は女を一瞥して言いにくそうに答えた。

「元々、人を襲うようになったら、オレの手でと、そう考えてたんだよ」

 ましてや、相手はあらゆる獣を平然と捌く奴らだから、そいつらの手に落ちるくらいなら、自分の手で死なせる気だったと言う男に、女は潤んだ目を向けた。

「あんた……」

「……もちろん、お前を一人で死なせやしない。すぐに後を追う気だった」

「もうっ、そんなことしても、私は嬉しくないのにっ」

 袖で男をポカポカと殴りながら、女は甘えた声で言いつのっている。

 それを見ながら、ジュラがぽつりと言う。

「あれ、ここって、拷問の場じゃなかったか?」

「……ああ、少なくとも、花街ではない」

 どうも、何も知らないこの二人を、これ以上留め置く理由はない様だ。

 二人はすぐに解放され、群れに姿を現すことは、二度となかった。

 残された面々は、大きく唸る。

「困ったわね」

 昼間の出来事は、あの二人が起こしたものだった。

 一難去ったのだから、それでよしとしたいのは山々だが、引っかかることが多すぎて、安心できなかった。

「ゼツと親しい奴が、他にもいたのかな?」

 ゼツが呪いにかかりやすくなる程、気安くなった者がいるのなら、そいつが一番疑わしい。

 そう言った男に、ジュリもおっとりと頷いた。

「目が覚めたら、明日にでも聞いてみるわ」

 話はそれからだとまとまったのだが、何とも言えない空気が、そこに残ったままだった。

「ど、どうした?」

 その妙な感覚に顔を引き攣らせ、メルはロンの顔を覗きこんだ。

「ねえ、メルちゃん」

「な、何だ?」

 いつもより硬い声で名を呼ばれどもる女に、ロンは躊躇いながら尋ねた。

「あなたは、白昼夢って、見た事ある?」

「は?」

「何言ってるんだ? あんたらしくない」

 ジュラが呆れて笑うが、妹と友人も、妙な顔で答えを待つのを見て目を丸くした。

「おかしい事を聞いているのは、承知の上なんだけど……その白昼夢の出来事が同じで、複数の人間に起こるかどうか、ちょっと気になったのよ」

「それは、聞いたことないな……」

 メルは、話が見えないながらも、正直に答えた。

「そう……」

「よく分からないんだか、まさか、白昼夢で、あんたを含んだ三人が、セイを見たとでも言うのか?」

「……ゼツを入れて、四人よ」

 ジュラがついつい笑いながら言う軽口に、ジュリが溜息を吐いて返した。

「へ?」

「だから、四人が、昼間、あの子を見たの」

 ジュラとメルは珍しく顔を見合わせてから、呆れたように言った。

「それは、白昼夢じゃないだろう」

「多分あの子、どこかに潜んでるんだ」

「でも、いつ探しても、見当たらないのよっ? どうして?」

 悲痛な声で言う男を珍しそうに見やりながら、ジュラはゆっくりと答えた。

「そりゃあ、見つからないように、潜んでるからだろ」

「どうして?」

「いや、どうしてって……」

 エンに真剣に訊かれ、ジュラはほとほと呆れていた。

 友人が可愛がっていた先代の事は、見目が麗しいだけが理由ではなく、敬意も好意も持っているが、感情を大袈裟に傾ける程ではない。

 だから、この件でだけ言うと、一番冷静を保てる男だった。

「姿を見せたら、あんたら全員、大袈裟に騒ぐからだろう?」

 何でそこでそんなに驚く、という位に、三人がはっとした顔になった。

「一度諦めた人が現れたから、無理はないとは思うが、それこそ一度離れたんだから、それだけ成長もしてるだろう、あまり思いつめるな」

 こういう説教は柄じゃないのだが、ジュラが真顔で三人に言い含めると、珍しく神妙な顔でロンが頷いた。

「そうね、御免なさい。気づかずに、変な思いつめ方してたみたいね」

 エンも溜息を吐いて言う。

「そうだ、何らかの理由で、こちらに気付かれたくないから、声を掛けないだけだったんだろう。変な事を考えてしまった」

 まさか、あんな顔が出来るようになっているとは、夢にも思っていなかったから、白昼夢を見たと思い込もうとしていた。

 そう言う男に、その微笑みを目の当たりにした二人も、大きく頷いた。

「あそこまで姿を見せたんだから、探られる事は承知の上でしょう。ちょっと念入りに探してみようかしら」

 実は今までも、それとなく探していたがその気配を手繰れなかったロンは、もう少し本腰を入れようと心に誓う。

 今日起こった事の首謀者を、探さなくてもいいのかと呆れるジュラの傍で、メルは気づいた。

「あれ、オキは?」

「……ん?」

 そう言えばと辺りを見回すと、エンも思い出して辺りを見回す。

「そう言えば、あいつがあの二人の話を持って来たんだ」

「へえ」

「あの二人の顔を見ようと思って、あの場に一緒に行ったはずなんだけど……」

 騒ぎに紛れて、オキの事は有耶無耶になっていた。

 騒ぎが収まっても、現れないと言う事は……。

 群れの頂点に立つ二人が、無言で目を交わした。


 呪いがかかっていたのは、二人の獣だった。

 一人は姿を変えられない狼男の子供、もう一人は猟師を連れ合いにした女の獣。

 ゼツの方は自覚があって、すぐに己で目覚めようと動いたが、女の方は気づいていなかった。

 僅かな女としての妬みと呪いが混じり、狂気が分かりにくくなっていたのだ。

「……あの子のお蔭で、助かったが……大丈夫だったのか?」

 無事、生還してきた夫婦の、男の方がオキに尋ねる。

 ゼツの腕をかみ砕く勢いで襲い掛かった女だが、その寸前で正気に戻された。

 女はやっかみで我を忘れかけたと思っていたから、正直にエン達にそう言ったが、男の方は気づいていた。

「肉を殆ど食わない割に、牙が立派だったな。一晩経っても起きて来ない」

 短く答えるオキに、女が溜息を吐いた。

「魚は大好物なんだ。木をかじるのも好きだし……」

「お前、本当に虎か?」

 つい言ってしまってから、それどころではないと気を取り直して、真顔になった。

「助かったなら、早くここを離れろ。いいか、二度と、あいつらに近づくな」

「……獲物を、買ってもらいたいんだが……」

「他を当たれっ。いいか、あいつらが本当のことを知ったら、この程度では済まない。本当に、その女が食卓の上に乗っても、不思議じゃない」

 強く遮られ、男は女を捕まえたエンの言葉を思い出し、青くなった。

「まさか、本当に出来る人なのかっ?」

「だからこそ、上に収まってるんだっ」

 焦る心を抑えながら、オキは説得していた。

 小さな嘘をついた自分は、あの若者に仕えているから嫌がらせで済むが、こいつらは違う。

 しかも、女の方はセイを傷つけてしまった。

 今はまだ、自分の頭を疑っているようで、目くじら立てて探している気配はないが、奴らがセイの気配に気づき、今の状態に気づいたら……その状態にした者が近くにいたら、逃がすことも説得も難しくなる。

 男は青い顔のまま、辺りを見回した。

「……そんな奴を、傀儡にしようとしてるのか、あいつ」

「だから、頭が足りないんだろう。慎重というか臆病と言うか、調べた割に、肝心な事は分かっていない。そこが、大きくなれない理由だろうな」

「奴の事を明るみにする手伝いは、しなくてもいいのか?」

 男の気遣いの混じる申し出だが、オキは苦い顔で首を振った。

「あの分では、あいつが目を覚ます方が遅くなる。奴がエン達に見つかった時、お前たちがまだいたら、もうお前たちも助からんぞ」

 男が呪いをかける力がないのは、すぐに分かるだろう。

 二人を解き放ったと言う事は、傀儡として操られたと考えてくれたからだと思われる。

 あの連中がこれから探すのは、操っていた奴と仲間たちだ。

 エンやメルは不得手だが、ロンとジュリジュラ兄妹は、探索に長けているから、探し始めたらすぐに奴らに行きつくだろう。

 二年前にはすでに、不満に思って集い始めていた連中が、たったの二日で潰されることになりそうだ。

「あんた、心配してくれてるの? どうして?」

「大きさは違うが似た獣の妖しに、久し振りに会ったからな。こんな事で死なせたくないし、何よりお前たちは、あいつに他の奴らと同じように接してくれてただろ」

 セイは、倭国の話を聞かせて貰えた礼だと言っていた。

 その意を、オキは汲んでいるだけだった。

 二人を送り出し、オキは見張っている者の様子をそっと伺った。

 その本人に目立った動きはないが、周りの者は落ち着きがなかった。

 知った顔の者達が、頭たちに連れていかれた事に驚き、慌てているようだ。

 すぐにでも頭たちの手が伸びそうな気配だったが、予想に反して翌日になってもそれはなかった。

「?」

 不思議に思いながらも見張りを続けるオキに、ロンから呼び出しがあったのは、そのすぐ後だった。

 そうくるか。

 覚悟はしていたが、目下の諍いを治めてからになると、高をくくっていたオキは、思わず空を仰いだ。

 場合によっては数日、空が拝めないかも知れないと、暫く立ち尽くしたまま上を見上げ続けていた。

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