その後のお話 その一 ゼツ君の覚書

 ジュリが切り出した言葉に、ゼツは抗う事が出来なかった。

 小さな体の娘に、岩のように大きな男のゼツが力づくで抗うのは簡単だが、姉貴分以上の親しみのある女に、それは出来ない。

 それに、今はやろうと思っても出来ない怪我で、寝込んでいるところだった。

「み、見つけたんですか?」

 寝床に横になった男が、つい身を起こそうとするのを制し、ジュリは嬉しそうに頷いた。

「宝探しなんて初めてやったけど、面白いのね」

 いつものおっとりとした笑顔に、ゼツはつい見惚れながら、そんな場合ではないと首を振る。

 怪我をする前、見せて欲しいと言われ、手当てを終えてからすぐにその事を持ち出したジュリに、苦し紛れにある場所に隠したとだけ告げ、見つけたら読んでもいいですよと、軽い気持ちで答えた。

 見つからない自信があったからそう言ったのに、何故一刻もしない内に見つけてきてしまったのか。

 混乱するゼツは、ジュリの肩に乗る一人の子鬼に気付いて、すぐに得心した。

 そう言えば、ジュリがいない間は、あの子鬼がいつも一緒だった。

 当然、それを書き、隠している所も見られていたのだ。

 見通しが甘かった男が、軽く悔やむ中、ジュリがおっとりと切り出した。

「読んでも、いい?」

「え、ここで、ですか?」

 横になったまま、身を引かせてしまった。

 自分の字で、倭国語を使って書かれたそれは、覚書のようなものだ。

 日々の出来事を、月一でまとめて書くのを始めたのは、いずれジュリと彼女の祖国を歩きたいと言う思いからだ。

 淡々と書き連ねているから、そこまで恥ずかしい代物ではないが、木を連ねた巻物に筆で書く字と文は、褒められるうまさではない。

「大丈夫。おかしな文だったら、きちんと言うから。盗み読みなんて、したくないの。いいでしょう?」

 おっとりと首を傾げられたら、詰まって頷くしかなかった。


『○○年、×月。時々豪雨あり

 今月は、役人の屋敷にお邪魔した。

 罪状はありきたりで、噂に違わない話だったので、遠慮なくお邪魔させてもらったが、どうやら話はややこしい事になりそうだ。

 屋敷で見つかった娘さんたちに、見覚えがあると言い出したのは、探索ごとを主に行う男だ。

 どうやら、その全員が、少し前まで目を付けた家の娘であったらしい。

 噂では疑わしかったが、全くのでたらめか、そこまでひどい話ではなく、すぐに引き上げた家だったそうだ。

 その家々は彼らが引いた直後、別な盗賊に襲われたらしい。

 先年より、こういう話が多い。

 こうも頻繁にそんな事が起こると、怪しめと言っているようなものだ。

 流石に黙っている時期は過ぎたと、頭たちは話し合って、去年から全く別な押し入り方をする盗賊を追う事になり、頭と数名が別に動くようになっていたが、これも同じように追う事にするそうだ。

 くじ引きで自分は居残り組になってしまっていたので、危ない事にならない事を祈るしかない』


『○○年、×〇月。ほぼ曇り。

 一団が二手に分かれて、一年ほどたった。

 おぼろげながら覚えているのだが、昔もこういう事があった気がする。

 その時は害がなかったので気にしなかったのだが、あの時付きまとわれた人たちは、どうこの人に接したのだろうか。

 どうやら二手に分かれた事で、ロンの近くにいる人間が減り、今のうちにと考える女が出てきたようだ。

 勘がいいロンは、それにいち早く気づいたらしく、近くにいる男に執拗に触るようになってしまった。

 オキは、その度に逃げているが、父親の様な人に触られる分には、別に構わないと考え、適当に流すことにしていた。

 が、最近、度が過ぎている。

 その気がない癖に、甘い声を作って囁いたりするので、はっきり言って暑苦しい。

 仕方がないので、釘を刺した上で、ロン自身の労力を減らすために、一つ小芝居をすることにした』


 そこまで音読して顔を上げたジュリは、首を傾げた。

「オキと同じように逃げるくらいしか、方法はないと思うけど……どうやめさせたの?」

 ロンが、自分の連れ合いに操を立てている事を知る者は、意外に少ない。

 だが、知ってはいても、女に興味がないと見せるための動きは、相手にされた方は有り難くない。

 同類に見られると言う負い目を持ってまで、ロンに協力する者など、今までいなかった。

 ジュリも事情は知っているので、ゼツは流していればいいかとも思うが、周りの女の好奇の目が、その決断をしたのだった。

 簡単に言うと、その誘いに乗った。

 そしてそのまま、人気の少ない所に、ロンを力づくで引っ張り込んだ。

 じたばたと暴れる男を押さえつけたまま外の様子を伺い、それなりに時が経ってから、しれっとして外に出たのだった。

「……暴れさせたことで、着衣も乱れましたし、外で様子を伺っていた方々にも、満足いただけたようですので、あの人に色香で迫ろうと言う考えは、起こさないでしょう」

 ロンの嗜好は瞬く間に広がり、女たちは遠巻きに見るくらいに、留まるようになったのだから、感謝して欲しい位なのだが、あの出来事は衝撃的だったのか、ロンは自分の傍にもあまり近づかなくなった。

「まあ、暑苦しくなくなったのでいいんですが、露骨に避けられるのは、悲しいですよね」

「そうよね。元はと言えば、あの人が、女避けに使おうとするのが悪いんだから、これくらいで済んでよかったと思わないといけないのに」

 嘆いてしまう男に、ジュリはおっとりと頷いた。


『○○年、×□月。ほぼ晴れ時々豪雨。

 晴れている時は恐ろしく暑いが、曇り始めるとすぐに豪雨となる、そんな月だった。

 闇に紛れて動く群れと違い、昼間でも暗くなるこの時期は、稼業の予定を立てにくいと、ロンが嘆いていた。

 こんな時は、勉強に限ると教師を探し、倭国語を中心に深く学ぶことにした。

 最近仲間になった男の妻が、倭国の芸者だったそうで、ついでに知っている限りの風習も教えてもらう事にする。

 そこで、気心知れた友人も出来た』


「……お友達? 出来たのっ? どんな子?」

 嬉しそうなジュリに、ゼツは小さく笑いながら答えたが、曖昧な言葉だった。

「……友達と言うより、弟みたいな、放って置けない感じの子です。雑用をしてくれている男が、拾ったそうです。その子も、倭国に行きたいと祖国を出て来たそうで、少しでもあの国の事を、知っておきたかったようで……」

「一緒に、机を並べたのね。良いと思うわ、そういうお友達、一人は欲しいわよね」

 友人らしい友人がいなくなったジュリは、嬉しそうに何度も頷いている。

「今度、紹介してね。というより、お見舞いに来ないかしら?」

「……今は、難しいと思います」

 言いにくそうに答える男を気遣い、ジュリは巻物を閉じた。

「疲れてしまったようね。御免なさい、怪我人の前ではしゃいじゃって」

「そんな……オレは、ジュリの顔が見えただけで、怪我なんかすぐに塞がるように感じます」

 感じるだけで、全く治っていないが、気分だけは軽くなる。

「今日はもうお休みなさい。明日、また来るわ」

 おっとりと笑顔を向けて言うと、表情の硬い男は僅かに微笑んで頷いた。


『○□年、△月。晴れ多し。

 しばらく見ないと思ったら、友人が群れを離れたと聞いた。

 何かを取りに行くと言って出て行ったと、その子の面倒を見ている男が教えてくれた。

 なかなか戻ってこないのは、家族との別れを惜しんでの事なのかと、羨ましい気持ちになった』


 突然文が短くなっている。

 そして、その後二月分、覚書が飛んでいた。

 先月二手に分かれていた自分たち兄弟と、エンが合流するまで、こちらでもごたごたしていたのかも知れない。

 そう考えながら、ジュリは黙って続きを読んだ。


『〇△年、□月。曇って小雨が降る事、多し。

 先月と先々月は、忙しくて覚書している暇がなかった。

 今月は久しぶりに頭たちも揃い、賑やかになったはずだが、やはり先代の事が気になるのか、ロンもエンも元気がない。

 一昨日などは、二人とも自分がおかしくなったのかと、嘆いていた。

 どうやら時々、セイの声の幻聴や姿の幻覚を見るらしい。

 二人らしくない話だが、気になった事はある。

 自分たちが戻る前日に群れに戻った子が、ロンとエンが触ったらしい古着を身に付けていたのだ。

 いつの間に、接触があったのだろう』


 熟睡するゼツの枕元で、続きを黙読していたジュリが、小さく溜息を吐いた。

「……そこまで気にしておいて、どうして分からなかったのかしら、この子は」

 ゼツは、群れに拾われた子供だ。

 ジュリが初めて会ったのは十歳を超えた頃で、その時はまだ、頭から指先まで全身を包帯まみれにした、小さな子供だった。

 目つきだけは険しく、昔顔見知りだった大きな強面の狼男の面影を持つ、痛々しい子供は、押し入り先の屋敷の赤々と燃え盛る暖炉の中から、自力で出て来たそうだ。

 たどたどしい言葉で、ぽつりぽつりと話される経緯に、ジュリは戸惑いを隠せなかった。

 母子で暮らしていた先に、死んだと言われていた父を名乗る男が現れ、母を殺した上で自分をあの屋敷の主人に売ったのだと聞かされ、兄のジュラも眉を寄せた。

 大きな体で目つきも悪いあの狼は、子供が苦手だったが嫌いではなかったはずだ。

 奇異な好みの女に言い寄られ、自分は子供を作りたくないと拒んだ話は、何度か耳にしていた。

 それは、子供が嫌いという理由ではなく、一族の本能のようなものに子供を巻き込みたくないのだろうと、古参の者たちは考えていたから、子供を作ったと言う所から意外だったのに、そんなひどい境遇を作ったと言う事が信じられなかった。

 だが、目の前にいる子供は、疑う余地のない状況にいる。

 自分で暖炉から逃げてきたとはいえ、焼け死ぬところを逃げて来ただけで、命が助かると言う事ではない。

 無事な所が見つからない程の全身大火傷で、内腑が焼けなかったのが不思議なくらいのものだった。

 不幸中の幸いだったのは、衣服を身に付けていた様子がなく、皮膚に生地が焼き付いていなかった、と言う所だったが、それも引っかかる話だ。

「……元々は裕福で、後に内情が厳しくなった家から幼い子供を買い取り、手にかけているのは知っていたが、その子供達が見つかっていなかったからな。見つからぬはずだ。飽きたら生き死に関係なく、あの業火で焼かれていたのだろう」

 真面目にそんな事を言うカスミの横で、ロンが珍しく物騒な顔をしていたのを覚えている。

 助けを求められ、それに答えたのだから、例えその後早世するとしても、見守ってあげるのが拾ったものの責だと、ロンを筆頭にジュリ達は子供を世話した。

 名は子供の母親がつけた名を、短くした愛称だ。

 長生きできるかと心配したが、体を動かせるまでに回復し、十年ほどでロンを追い越す程に成長した。

 が、ジュリは知っていた。

 同年代の子供たちに、遠巻きにされ怯えられている事に、酷く傷ついている事を。

 疼く火傷と息苦しさで、深く眠る事が出来ない事を。

 外見が恐ろしいのを気にし、ジュリが近づく時すら、身を縮めてやり過ごそうとする事を。

 ロンもその事は気にしていたようで、探索ごとの合間に、医療の話も集めて来るが、目ぼしいものがなかった。

「皮膚を綺麗な部分から切り取って移す、という方法もあるけど、その皮膚が、ほとんど残っていなのよねえ」

「他の人のものでは、駄目なんですか?」

 尋ねるジュリに、男は妙な顔になった。

 訊くともなしに聞いているメルとジュラも、久々に見るロンの素直な感情だ。

「流石叔父上の友人、と言ってもいいのかしら。不器用過ぎて、馬鹿と言い切ってもいい位よね」

「ん? 何でそこで、ウル坊の話が出るんだ?」

 どうしようもない狼男の話は、正直聞きたくないと顔を顰めるメルに、ロンは苦い顔のまま答えた。

「そう思わせてあの子に恨ませて、自分を狩りに来ることを望んでいるように、感じるのよ」

 メルが目を細めた。

「んな馬鹿な。あいつ、その本能が嫌で、一族を滅ぼす手助けをしてくれたんじゃ、ねえのか? 今更……」

 その本能に流される生涯を、受け入れると言うのかと首を振る女に、ロンも頷いている。

「どういう心の変化かは知らないけど、初めのうちは抗う心算で、子供を作ったんじゃないかしら」

 ゼツは十歳になる年まで、父親が死に別れしていると思っていた。

 つまりあの狼は、子供に近づかないようにしながらも、最小限の手助けをして、見守っていたのだ。

 そうすることで、恨まれて父子で命を懸けた争いをしないで済むように。

 だが、何故か急に、その本能を受け入れた。

 こちらがやらせたくなくても、そうせざるを得ない状況に、子供を立たせて。

 何がきっかけかなどは、今は考える余地はない。

 だが、調べるに及ばない事は、はっきりしていた。

「……血筋の面から言えば、あの男の皮膚は、あの子に合うはず」

「本気か」

 目を閉じたジュリの傍で、ジュラが目を剝いた。

「叔父上にも、相談しておいたわ。死にたいんだろ、望み通りにしてやれと言われたから、気にしないで」

 投げやりな言い方ではなく、叔父は物騒に笑ってそう言い切った。

 友人だったはずの狼男に、怒りすら覚えているらしい叔父を不思議に思いつつ、ゼツにそれとなく話を持って行き、父への憎しみの大きさを確かめた後、ロンは見上げるまでに成長した子供を、旅に送り出した。

 その話と前後して、頭の後継者の話が持ち上がり、カスミとその側近たちの周りは浮足立っていたが、ゼツが旅立ち戻った頃には、頭が代替わりしていた。

 虫の息の父親を抱えて戻ったゼツは、カスミが逃げて代わりに頭を押し付けられたと言う、幼い子供と顔を合わせてその小ささに目を剝いたが、その幼い子供だったセイも、目を見開いた。

 大きな男と、その父親らしい殆ど動かない大きな男を、交互に見つつも何も言わない子供に気付かず、ロンは虫の息のウルの襟首を攫んで地面を引きづり、離れた場所に立つ小屋の方へと連れて行く。

 その後に続くゼツの背を見送り、幼い子供を振り返ると、その黒い目はまだ、ウルとその息子を見送っていた。

 不思議に思いながらも弟分を気にしていたジュリに、ロンを手伝って来たジュラと当時はまだ健在だったランが、後日苦い顔で事情を話してくれた。

「あのおっさん、セイの母親と駆け落ちしたらしい」

 苦々しい顔のままの兄の言葉に、ジュリは耳を疑った。

「何ですって? 駆け落ちって……シノギの旦那の、奥さんと?」

「正しくはシノギ叔父の、子供の母親、だ」

 苦い顔ながらも、多少気が抜けているランが、力なく話す。

「最愛と感じた女が見つかった時には、子種を別な女に託した後だったもんで、女の子供が欲しかったウルの為に、女が叔父貴を誘惑したらしい」

「ど、どうやって?」

 つい、そう聞いてしまったジュリを、二人は責めることは出来ない。

「それが、ウルにも分からなかったとさ」

 今わのお際に、狼男がかすれ声で話したのは、衝撃しか残さない話だった。

 相思相愛だった男の為に、その友人の男を好きでもないのに襲い、子種だけ頂いて逃げた女。

 それが、カスミがここの頭を押し付けた、小さな子供の母親だった。

「セイが生まれて五歳になるまでは、平穏に暮らしていたが、どうやら魔女狩りに引っかかったらしい」

「……あの旦那を誘惑する位だから、その疑いは最もだわ」

「そうなんだが、捕まったのは女じゃなく、セイだったらしい。火刑に処される直前に救いだしたが、女を囮にしてセイを安全な所に預けた後迎えに行ったら、女は死んでたって」

 ついた時には、横たえられた女の亡骸の傍に、シノギが立っていた。

 呆然として動けなくなった狼男の代わりに、シノギは子供を迎えに旅立ったが、結局会えずじまいだったと聞いた。

 預けた先は女の母親の所で、その家があった場所は焼け野原となり、年老いた女の遺体は辛うじて見つかったが、子供の物は見つからなかったと言う。

「……それを聞いて、ゼツを巻き込むことにしたらしい」

「そう。それは、父親の風上にも置けない所業ね。ゼツの方から見ても、セイの方から見ても、酷い男だわ」

 おっとりと、変らぬ笑顔で言う女を見つめ、ランは静かに切り出した。

「あいつから、ゼツに移したのは皮膚だけだ。残りの片づけは、お願いできるか?」

「ええ。こちらから、頼みたいくらいだわ」

 片づけの頼みを受け、ジュリは真っすぐ小屋の方へと向かった。

 ゼツは別の場所へ移され、休んでいるそうだ。

 藁の敷物の上に転がされた遺体はまだ新しく、皮が剥がされた後も乾いていない。

「……あなたは、自分の子供にも、養った子供にも、負い目を残して逝ったのね。それが一番、重い罪よ。このまま静かに眠らせるのも、正直嫌な位だもの」

 自分の子鬼が、その遺体を綺麗に片付けるさまを見守りながら、ジュリは心に誓った。

 他のどこでも出来なくても、自分の傍だけは、あの二人が笑い合える場にして見せる。

 ただでさえ感情が表に出ないセイと、皮膚が馴染んで包帯を取ったが頬の肉が焼け切っていて感情が表に出せないゼツは、ジュリの傍でも誰の傍でも笑い合う事はなかったが、少なくてもゼツの方は、父親が養った子供を憎んではいなかった。

 むしろ、出会い方が違ったら弟分として可愛がっていたのだろうと、昨日の出来事を思うと断言できた。


 昨日、ジュリは約束通り覚書を見せてもらおうと、ゼツを探し出して近づいた。

 立ち尽くした男は、振り返ってジュリに気付き、ぎょっとして固まる。

 その様子と、いつもよりさらに白くなった顔に驚き、女が声をかけると激しく首を振り、そのまま走ってその場を離れて行った。

 その後を追いながら、そんなに読ませたくないのかと傷ついたが、それなら昨日切り出した時に、はっきり顔に出るはずと気を取り直す。

 顔の表には出ないが、目の動きや顔色が、ゼツの感情を正直に伝えてくれるのだ。

 答えた男は、困った顔はしたがすぐに頷いていたから、覚書の事と今の逃走は係わりがない。

 大きな男は足も速く、ジュリは追いつけなかったが、森の中の大木の前に立ち尽くす後姿をすぐに見つけた。

 女が息を切らして近づくと、ゼツの前に女がいた。

 黒髪の、妙に色気がある小さな女だ。

 立ち尽くしたまま動かない男を見上げていた女が、ジュリに気付いた。

 薄く笑ったその女の前で、男がゆっくりと振り返る。

「さあ、我儘言っていないで、言う通りにしなさい。じゃないと、もっと苦しくなるわよ」

 やんわりとした女の声に、ジュリは僅かに顔を顰めた。

「あの国には、あなたのような大きな猫はいないはずだけど、本当に倭国の芸者をやっていたの?」

 呟いてしまったが、この状況で答えは望んでいない。

 まずは、振り返った無表情の男が、常では殆ど持たない大ぶりの剣を手に、近づいてくるのはどうしてなのか、考えなければならないだろう。

 顔色と目に現れる感情からすると、これはゼツが望んだ動きではない。

 だが、抗えずに少しずつジュリの方へと足を進めていると言う事は、何かの呪いにかかっていると言う事だ。

 呪いには強い筈のゼツが、抗い切れずにいるほどの、強い呪いだ。

 強い割にその自我は残っている、残酷な呪い物だ。

 見下ろしてくる男の目が、必死にこちらに何かを訴えている。

 抗いきれないならば、こちらを逃がそうとしてくれているが、ジュリはおっとりと微笑んだ。

「もう走れないわ。今あなたを追って来て、疲れたもの」

 微笑んだまま見上げる女の前で、剣が振り上げられた。

 泣きそうな目を見返しながら、そんな目をしないでと頼みたくなるが、この状況では無茶な頼みだろうと思い直す。

 振り下ろされた剣に肩が斬られ、目の前が血で染まった。

 肩に振り下ろした剣が地面に落ち、目を見張るジュリの前でゼツの大きな体が膝をつき、前のめりに倒れる。

 我に返って男にすがる女を見つめ、見守っていた女が小さく舌打ちした。

「折角、望み通りになる機会が出来たのに、抗うなんて馬鹿かしら」

「だ、誰が、望むものか」

 ジュリに抱え込まれたまま、ゼツが呟いた。

「この人に死を、望んだ覚えは、ない」

 己で斬りつけた肩を庇いながら、男は抱き起してくれた小さな女を抱きしめた。

 そんな様子を見て、女は再び舌打ちして目を見開いた。

「なら、私が戴くよ。小さくて肉少なそうだけど、その女、邪魔だから」

 言い切った女が、突然化けた。

 小さな女が一回り大きな、縞模様の獣に膨れ上がる。

 飛び掛かるその獣は、ゼツと同じくらいの大きさで、その大きな口から覗く牙は、ジュリの首など一噛みで噛み落とせそうだ。

「ゼツ、どきなさい」

 守ってもらえるのは嬉しいが、動けない男に守られても、邪魔になる。

 このまま獣をあしらうことも出来るが、少しでもこの男から離れないと、自分の子鬼が間違ってゼツを襲ってしまうかもしれない。

 命令に興奮して、血の匂いに寄って行くこともあるのだ。

 それくらい、血が流れてしまっている。

 内心焦りながらも、おっとりと呼びかけるが、ゼツは襲い掛かった獣の牙を怪我のなかった方の腕で、押し戻していた。

 腕に牙が深々と刺さり、その腕から更なる血が流れ落ちるのを目の前に、ジュリは思わず叫んでしまった。

「私はいいから、逃げなさいっ」

「……それは、こちらの台詞ですよ、ジュリ。今のうちに、逃げて下さい。あなたを巻き込んで死なせるくらいなら、腕一本食わせて終わらせる方が、ましだ」

「そんな勿体ない使い方、するものじゃないだろ。あんたの手は、すごく器用なんだから、一本でも無くなったら、惜しい」

 ジュリに訴えていたゼツは、無感情な声の返しに思わず振り返った。

 聞き覚えあるその声に、ジュリも改めて獣の方に目を向ける。

 女の獣は、口を開けたまま固まっていた。

 その口に、ゼツの腕を咥えているが、牙は皮一枚で留まっている。

「……私の手でつっかえ棒替わりは、短すぎるな。ゼツ、早く腕を引いて、離れてくれ。顎外したら、話も出来ないだろ?」

 ゼツの腕の奥の口の中で、舌に肘をついた小さな腕が、顎を無理にこじ開けていた。

 恐る恐る腕を口から抜いて身を離した男は、傍に立っていた若者を改めて見て、ぎょっとした。

 ジュリのその有様を見て、声を失くす。

 薄色の金髪の若者は、別れたままの古着を身に付けて、獣の横に立っていた。

 ゼツの腕が噛まれる前に自分の腕を突っ込んで、そのままつっかえ棒の代わりにしながら口をこじ開けたようだが、本人が言うように、短すぎた。

 新たに流れ落ちていた血は、肩まで口の中に入れて、牙に己の生身の部分を噛ませる羽目になったために、出たものだったのだ。

 ジュリは、突然再会した若者の有様に声を失くしたが、ゼツは別な事にも驚いていた。

「え? その、血の匂い、お前……いや、あなたは……」

 混乱している男を見つめ、セイは小さく溜息を吐いた。

「……そうか、やっぱり、気づいていなかったんだな。オキに言われた事の方が、正しいと思いたかったのに」

 小声で嘆いてから、若者はもう片方の手を口の中に突っ込み、獣に呼び掛けた。

「舌を抜かれたくなかったら、引いてくれ。出来れば、こんな大きな嵩張る姿じゃない方で、話したいんだけど」

 無感情な声に、剝いていた獣の目が泳いだ。

 身を引いた獣の体は、どう見ても倭国にはいた事がない筈の生き物だ。

 訊きたいことはあるが、まずは二人の怪我だ。

 そう思って立ち上がったジュリの耳に、けったいな悲鳴が聞こえた。

 振り返るとそこに、色黒の大男がいる。

 その足下に腰を抜かしているのは、細身の男だ。

 男から取り上げた鉄砲を片手に、ロンは呆れた声で言った。

「……あなた、自分の連れ合いさんもろとも、口封じする気だったの? ここまで大事にしておいて、口封じも逃げるのも、遅くない?」

「本当ですね」

 穏やかな声は、大人しく座った獣の背後から聞こえた。

 振り返る前に、獣の首を後ろから攫み上げた者がいる。

「これは見事なメスの虎だな。牙に肉、毛皮……残すところはなさそうだ。今夜はご馳走だ」

 獣の、虎らしからぬ悲鳴が、森の中をこだました。


 ゼツの怪我は、肩から胸にかけての剣傷と、逆の腕の牙による傷で、どちらか言われるまでもなく、剣傷の方が重傷だった。

 斬られた振りをして呪いを解こうと考えていたジュリは、ゼツの抗い方に少しだけ不満を持っていた。

 そこまでしないと、本気で自分がゼツの手にかかると思われていたのかと思うと、どうも見くびられているように感じてならないのだ。

 半ば嫌がらせのつもりで、覚書を見つけ出してここで読んでいるのだが……一つだけ、気になっていた。

 巻物は二巻きあり、一つは読んでいた物だったがもう一つ、淡い金色の組み紐で封じられた巻物があった。

 その組み紐は、エンを筆頭に身近な者が持っている物だ。

 呪いものを弾ける力を有し、この間も役に立った物だ。

 なぜそれを、ゼツはこの巻物に付けているのか。

 そもそも、これを自分で身に付けていれば、呪いにかかってジュリに襲い掛かる事には、ならなかったのではと思うのだ。

 よほど、見られたくない物のようだが……ジュリは、首を傾げた。

「これ、術を使わないで開ける分には、効かないと思うんだけど」

 ここまで厳重に見られないようにしているのだから、余程恥ずかしい事を書いているのだろうと思う。

 ジュリは微笑ましいと思いながら、その巻物をゼツの枕元に置いた。

 開いていた巻物もそっと丸めた時、部屋の外から控えめな声がかかった。

「ジュリ、今いいか?」

 兄の声だ。

 振り返って立ち上がり、部屋から顔を出すと、同じ色合いの男が部屋の中を伺いながら告げた。

「オキが、戻って来た。首尾よく捕まえられた」

「そう。良かった」

 二人は頷き合って、その部屋を後にした。

 あの猫もどきには、訊かなければならない事が、沢山あった。


 ゼツは、小さな頃から大きな子供だったが、元々の性格なのか、外で遊ぶより中で大人しくしている事の方が多い子供だった。

 貧しいながら、父親が残したと言う遺産のお蔭で、そこそこの学を学べて文字も書けたため、母親が死んで自分も死にかけた後、助けてくれた人たちの手伝いが出来ない時期に、暇だろうからと渡された巻物と筆記用具は、今でも大事に使っている。

 倭国語の物と違い、この巻物は故郷の言葉で書かれ、当時は体の具合がいい時に気ままに書いていた。


『ジャック爺さんがしみじみと年月を口にしているのを聞いて、もうすぐ十五になると思い出した。

 もう大人なのに、ここの人たちには世話になりっぱなしだ。

 そう思っていたら、ジュリが繕い物のやり方を教えてくれた。

 母親がやっているのを見た事があったが意外に面白く、ジュリも初めてにしてはうまいと、褒めてくれた。

 図体だけの役立たずなのに、そんなことで褒めてくれる。

 家族のような空気が心地いいけれど、そろそろ独り立ちを考えなければ』


『ロンの勧めで、体づくりの修業を始めた。

 遅すぎるかと思ったが、順調に力はついている気がする。

 体中痛くなるし、すぐ息が切れるが、何故が最近よく眠れるようになった。

 疲れているから、他の痛みや苦しみは、気にせずに眠れるのかも知れない』


『修業仲間から、包帯姿を馬鹿にされた。

 大袈裟に巻いているのだろうと言われたので火傷を見せたら、思いっ切り嫌な顔をされて逃げられた。

 その後は、傍に寄ろうとしてくれない。

 自分の鼻は慣れてしまって気にならなかったが、もしかして、相当匂うのだろうか?

 それなら、怪我を見せる前から匂うだろうに、不思議な態度だ。

 不思議だが、女の人にも不快な思いをさせているかもしれない、気をつけよう』


『ロンから、妙な話を切り出された。

 ここに来てから八年ほどだから、ここの人たちが良からぬ事をしているのは、何となく分かっていたが、自分がそれをしてみないかという勧めを受けるとは、思わなかった。

 しかも、一度しか会っていない父親を、手にかけろと言う。

 確かに、あの男は憎いが、顔を見たくないと言う程度の憎さだ。

 だが、よくよく聞いてみて、悩んだ末に受ける事にした。

 火傷の体を幾分楽にするには、皮膚をどこかからか持って来て移すしかないらしいが、無事な部分が殆どない自分の体では、その部位がなく、他の者からはぎ取るしかないそうだ。

 血縁の物ならば、皮膚が馴染むかもしれないと言う漠然とした言い訳だったが、ここまで成長したからには、もう少し長生きしたいと思い始めていた自分は、重い罪を負う事に決めた。

 父親殺しは、ここの人だってやった事のない罪だろう。

 正直な思いだけつづっていたこれは、どこかで埋めてしまおうと思う。

 健康な体になったら、あの人に、告白しようと思っていたのだが、その望みは、二度と叶わないのだろう』


 重罪を背負った身だから、淡い思いは捨てよう、そう考えていたゼツだったが、気づいていなかった。

 周りの人間には、その想いがばればれであった事も、父親を手にかけた後も、その想いは変わったように見受けられないと、温かい目で見守られている事も。

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