病をもたらすもの

アリスという名の病がある。Alice in Wonderland syndrome、不思議の国のアリス症候群。短くアリス症候群とも言う。これに罹患した者は、世界に対する自分の大きさを正しく理解することができなくなる。おそらく脳の部分的炎症が引き起こす幻覚症状の一種であろうと今は考えられている。

上記はれっきとした、精神病理学者によって提唱された実在の精神疾患概念である。しかし次のものは違う。

ハイフェッツ症候群という言葉がある。アリス症候群が実在のアリス・リデルからその名を得ているように、ハイフェッツもまた実在の人間である。ヤッシャ・ハイフェッツ。20世紀を代表するヴァイオリニストとされる、東欧出身のユダヤ人で、人呼んで“ヴァイオリンの王”。

ハイフェッツは幼い頃から神童として畏れられる演奏者であった。かの『アマデウス』においてモーツァルトの最大の理解者の立場に置かれるのが同じ作曲家のサリエリであるように、ハイフェッツの超越性を最初に理解したのは、むろん同業のヴァイオリン奏者たちである。――ハイフェッツの演奏を初めて聞いたとき、多くのヴァイオリニストがこう思った。

「この世界にはハイフェッツがいるのだから、私などは自分のヴァイオリンを叩き壊してしまっても構わないのではないか?」

これがハイフェッツ症候群である。我々のいるこの文学の世界を含め、創作者というものは往々にしてハイフェッツ症候群に罹患するし、ハイフェッツ症候群的な何かをモチーフにした創作物というものも、一つのジャンルというまでの多様性と広がりを持つ。『アマデウス』も広義にはその一つであろうし。

さて。さっきから延々何を書いているかというと、この作品を一読したとき、まあこんなようなことを思わされたのである。

「この世界にはこんな作品を書く人間がいるのだから、私などは自分の小説を書かなくても構わないのではないか?」

ハイフェッツ症候群は割とよくある疾患である。創作の世界にそれなりに身を置いているから、これに罹る人間は何人も見てきた。しかし、自分が罹るのは、間違いなくこれが初めてだった。

病をもたらすもの。この世には、世界に対する自己の認識を喪失させる、そのような種類の芸術がある。もって、畏れなければならない。

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