命の終わりに向かう。
それは人の心から光を奪い、痛みや苦しみに満ち、健やかな美しさを奪っていく過程。
誰もが、そんな印象を抱いているはずです。
けれど、この物語に綴られる病——「白百合の病」は、不治の病でありながら、そういう薄暗い恐ろしさをむしろ遠ざけていくような、実に奇妙な病です。
不思議なことに、病に罹った年齢から、患者の容姿は「成長(老化)」を止めてしまいます。
少しずつ進む病状。若々しい容姿をそこに留めたまま、その肌を次第に白百合の色に変えていく患者たち。それでも確実に死へと向かっていく緩やかな時間の中で、患者たちは少しずつその思考をも変化させていきます。——「少年少女」へと。
これは、そんな四人の「少年少女」を描いた物語です。
ただ静かに、刻々と、抗うことのできない「死」へと向かっていく。
悲しむ、憎む、争う、泥まみれになる。そういうまさに生々しく苦しみに満ちた「生」から、次第に遠ざかる。
大人になる必要、大人でいる必要から解放され、猛烈な濁流から解放される。
突き詰めれば、それはつまり「少年少女へと還っていく」ことなのかもしれません。清らかで、安らかな静謐へと。
患者を濁りない色に変えていく病。「生きる」という道を閉ざしながら、老いも醜さも遠ざける不思議な病。——人間から「生きることの醜さ」を全て拭いとったならば、人にはやがてこのような心の形が現れるのかもしれない。ふとそんなことを思いました。
白百合の病により遠からずもたらされる「死」に、四人の患者それぞれが抗い、やがて受け入れ、受け入れた先にまた微かな幸せや光を見て……「白百合の病」を得たことで、彼らは本来この世には存在しないはずの、この上なく清浄な場所へと辿り着いたのかもしれません。
筆者の綴る、一切の濁りを排した言葉と文章は、それを読むものの心をも清らかに澄み切った世界へと引き込んで行きます。死へと向かう物語でありながら、まるで光にかざした水晶の中を揺蕩うような不思議な感覚に満たされます。
限りなく透明に浄化されていく「生」の一瞬を、四輪の白百合の中に閉じ込めた物語。是非、ご一読ください。
冷え切った空気のようにピンと張りつめていて、それでいてどこまでも透明で、透き通っている。それなのに、函の中のように温かい、幻想的な文章。徹底された言葉選びからは、神経をすり減らすほどの妥協のなさがうかがえる。
シェイクスピアの『ハムレット』に登場するヒロイン・オフィーリア。オフィーリアが川面に恍惚の表情を浮かべて浮く、有名な絵。そしてドビュッシーのピアノ音楽が見事に融合された作品。
この上記二つの要素に加えられたのは、美しくも儚い「白百合の病」。この病が登場する作品群は、作者様の全体の作品群の中でも重要な位置にある。どれも素晴らしい作品だ。これらの物語が絡まり合って、この作品は構成されている。
「白百合の病」は人間の成長を止め、指に顕著な奇形的歪みを生じさせ、やがて死に至る難病。指を使うピアノや折り紙が推奨されているが、効果的な治療方法はなく、現在では謎の多い病だ。それでも「白百合の病」に冒された人々は、自分のことを幸せだという。けして自暴自棄になったり、発狂したりしない。そうした穏やかな自分の死への向き合い方は、精神的な成熟と、ピアノを奏でる安らぎを感じさせるだろう。
美しいまま時を止めた白百合たちの、優しさが、儚さと切なさとなって、胸に刺さる一作でした。
是非、ご一読ください。
一度読み始めたら独特の透明な世界にさらわれる。
これは著者である宵澤ひいなさんの作品群すべてに共通する磁力のような魔力です。その世界は崇高で、穏やかな哀しみに包まれていて、控えめなユーモアがあります。
この作品はそんな宵澤さんの精神世界をさらに深く掘り下げ、さらに感性を研ぎ澄ませ、著者の永遠のテーマともいえる「透明」を追求したお話です。
オフィーリアに象徴される永遠の少女性。それは透明な魂を象徴するものでもあります。濁りない感性をそのまま凍結させるかのような物語は、現実の世界に生きることを余儀なくされる者へカタルシスのように沁み込んできます。どう生きようと、どれだけ歳を経ようと、人は心のうちでここへ回帰することを願っているのかも知れません。
病に侵される登場人物たちの行く末は死というかたちの凍結ですが、人生の終わりを迎える時、こんな境地に辿り着けたらどれだけ幸せだろうと思えるのです。
この物語はスピンオフでもあるため、著者の他作品も一緒に鑑賞されることをお勧めします。読んだときの色合いが断然濃くなることでしょう。
美しく儚い、でも揺るぎない美学の芯が通った世界。ぜひゆっくりと味わってください。
諦観とは仏教用語。迷い、悩みながら本質を見極め、執着を捨てて悟りに至る。執着を捨てるために、前向きに諦めるのです。
白百合の病にかかったミヨシくんもササオカさんも、苦悩し涙をこぼしても、達観しているように静かに語ります。透明で美しい語り口に、読者は感情を揺さぶられ、涙してしまいます。
白百合の病は、生きることも、大人になることも、日差しを浴びることも困難です。白百合の病にかかった者は、たくさんのことを諦めないといけない。
けれどそれは不幸な病ではなく、生きること、死ぬこと、愛することの本質を炙り出す病でもあるのかなと。
ミヨシくんもササオカさんも、前向きに諦めていくなかで、諦観の境地に立ち、静かに旅立っていきます。全てを失ったからこそ、得られたもの。永遠の光と、変わらぬ愛がそこにある気がしてなりません、
『白百合の病』という謎の奇病をメインテーマに紡がれゆく、珠玉の短編連作です。
作者さまの他作品にも登場するこの病は、罹患者の時間を止め、身体の自由と色彩を奪います。
病に冒された当人やその周囲の人々の抱く想いが、美しく繊細な文章で綴られています。
治療法のない病に身を蝕まれた時、人は残された時間をどのように過ごすのでしょう。
本来あるべきだった未来が、丸ごと白く染め抜かれてしまったような時間を。
ある人は、絶望して歩みを止めるかもしれません。ある人は、それでもなお日常に希望を見出すかもしれません。
一つ言えるのは、彼らが過ごしたその時間は、見た目通りの空白ではないということです。
奇しくも、登場人物の多くがピアノの奏者。
残りわずかな命の輝きと、その時々の想いを映すピアノの音色に、不思議な親和性を感じます。
『死』が間近に迫るからこそ、確かな『生』を意識する。
どんな死を迎えたかということより、どう生きたのかということ。
語り手の心の端々までを、あなたもきっと感じることができるでしょう。
美しくて切なくて、そして愛《かな》しい、素晴らしい作品です。
もう退会されてしまったのですが、私が大好きだった短編集……というのでしょうか、否、あれはイメージが言葉で象られた結晶と言うべきなのでしょう、『Spherules』という作品を物される方がいらっしゃいました。
spherule(スフェルール)とは岩石や鉱物が一度融けた後、空中で再冷却されて固化した球状の粒子のことなのだそうですが、御作を拝読しておりますと、このspheruleという言葉が何時も何時も頭を擡げてきます。この上なく強固で濃密な、確乎たる美のイメージが溶融したネクタールのその温もりの中から、美は宛もエーテルのように揮発して、恐るらくは午天の赫奕たる太陽ではなく玲瓏と夜天に耀く太陰を目指して昇り往き、ある瞬間、著者の怜悧な視線に冷やされて言葉として結実し現前します。まさしくspheruleのように……。そして冴え冴えとした麗しきその言の葉達は、雨とも泪とも知れず再度地上に舞い戻るや、今度は「物語」の鍵盤を軽やかに敲いて豊かなる律呂を奏でるのです。
晶出した美の、その束の間(エフェメラ)と永遠(エタルニテ)とが世界に刻印される瞬間を、見遁してはなりません。「泣いた寂しさの綺麗さ」を湛えて、一聞するだに優雅乍らも心悲しい響きを持つ「白百合の病」を巡って複数の語り手が奏でる奏鳴曲、未だ何色にも染まりおらぬ少年少女は固より、今や何色かに色付いた嘗ての少年少女達にこそ響くであろうその瓊音(ぬなと)の共鳴を、聴き遁してはなりません。