03_砂漠の一針
結婚式はつつがなく執り行われた。
花嫁のベールを下ろす母が、花嫁をエスコートする父が薄らと涙ぐんだことも含めて、特段珍しいことのない、祝福された式だったと思う。
披露宴が始まり、新郎新婦の友人達がふたりの大学でのエピソードを語る。部活動を楽しみ、旅行好きの恋人に感化され、資格試験に挑む妹の姿は生き生きとして年相応で、私には馴染みがない。
プログラムの進行に合わせて新郎新婦が中座すると、暗くなった会場でプロフィールムービーが流れ始めた。
少し腫れぼったくなった瞼を上げて、キラキラと踊る妹の名前を眺めた。
輝かしい演出の向こうから、見覚えのある古い写真が現れる。生まれたばかりの妹、保育園の音楽会、運動会のおにぎり──
妹が選んだであろう思い出の群れに、不意に見慣れた薄暗い実家の風景が映る。
休日の昼下がりだろうか。居間の机にかじりつくように、幼い妹と私が身を寄せ合っている。妹はくたびれたノートを一心不乱に読んでいる。その熱心な横顔を、私がじっと見つめている。
「あの写真ね」
私にだけ聞こえる声で、母が囁いた。
「
表示されたのはせいぜい数秒だっただろう。映像の中の妹はあっという間に中学を卒業して、私の知らない姿に育っていく。無数の鮮やかな日々が流れていくのに、もう戻らない瞬間の残像が目に焼き付いて離れない。
どうして、と問う声が、乾いた喉で止まる。
音もなく芽生えたひとつの推測に、私は呆然とスクリーンを仰いだ。
朝を迎えるように、会場が明るくなる。お色直しを終えた新郎新婦が晴れやかな笑顔で入場する。
程なくして配膳されたデザートには、予告通り母の地元産の果実が使われていた。
イチジクを戴いた上品なタルトに、母は懐かしむように目を細めた。
「子供の頃、実家の庭にイチジクの木があってね」
穏やかに語られた思い出は、私の知らない情景だった。
「母さんが時々、こっそり
糖の衣を
ああ、と感極まったため息を吐いて、母は微笑んだ。
「おいしい」
自分の皿には手をつけないまま、妹がじっとこちらを見ている。
微かな緊張を隠した視線に促されて、私はフォークを手に取った。
皿の上のタルトは確かに美味しそうで、そして、ただそれだけだった。
タルトをひとかけ口に運ぶ。ふくよかな香りが口内を満たして、喉の奥へと落ちていく。
澄んだ甘さ。高級なデザートの味。私と妹が互いに求めたあの味は、もう二度と、私たちの感覚を訪れることはない。
私が妹に分け与えなかったもの。
妹が私に分け与えなかったもの。
私たちの、特別だった果実。
披露宴の後、ご祝儀を収めた
客人を見送ってガランとしたテラスで待つことしばし、式場の建物から妹が現れる。朝から休みなしで動いているはずなのに、私を認めて微笑む顔には生気が溢れていた。
それでもやはり疲れはあるのか、あるいは不慣れな靴のせいか、妹が軽く蹴つまずく。
慌てて支えに駆け寄って、私はようやく、間近に妹の顔を見上げた。
プロの手で化粧を施され、鮮やかな青のドレスを纏った妹は美しかった。
不意に当然の事実が腑に落ちて、一瞬だけ息が詰まった。
「大人になったね、
感慨深さに反して、口をついたのは疎遠の代名詞のような台詞だった。
思わず苦笑すると、妹もつられたように笑った。
「生まれた時から三歳差でしょ。お姉ちゃんの中のあたし、どこで成長止まってたの?」
「ひとりで夏祭りの屋台に行くのが怖くて泣きついてきたあたり」
「小学生じゃん! もう一人旅だってできるんですけど!」
妹がわざとらしく憤慨してみせる。素直に驚いて、私は妹を見返した。
「え。どこ行ったの」
「
穏やかな微笑みには、過ぎ去った日々への素朴な感傷だけがあった。
「ねぇ、お姉ちゃん。今も小説書いてる?」
推測が、確信に変わる。
透明なわだかまりが、急速に形を得ていく。
──お姉ちゃんの小説は面白くないから読みたくない。
私の思い上がりを刺したあの一言を、妹はきっと覚えていない。
「書いてるよ」
動揺はなかった。ただ凪いだ納得があった。
イチジクにまつわる母の郷愁が、私の知らないものであったように。
私の感傷もまた、妹の思い出の外側にある。
けれど、ほんのわずか共有できたものもあったのだろう。
私を詰った言葉が九十九パーセント本音だったとしても、絶対に一パーセントは嘘だって、本当は、あの瞬間だってわかっていた。
私の物語を辿るあの子の横顔を、ずっと見てきたのだから。
「ただの趣味だけど、それなりに書いてるよ」
勢い余って少しばかり見栄を張った。
仕事が忙しくなったこともあり、ここ一年は酷いスランプだった。しっくりくる展開が思いつかず、最早やる気の有無も判然としないくせに、懲りずに書いては消しを繰り返している。
「さすがにもうノートじゃないけどね」
「ウェブ小説ってやつ?」
妹の口から生々しい単語が出たことに、正直かなり面食らった。
「読んでるの?」
「たまに。ね、お姉ちゃんのアカウント教えてよ。どのサイト?」
「絶対やだ」
教えたところで、妹はきっと読まない。私は立派な人間ではないので、読まれたら読まれたで似たような
冗談めかした拒否で社交辞令を流すと、妹はむっと唇を尖らせた。
「なんでよ。そんなこと言うと探しちゃうよ」
無邪気な疑問が皮膚に食い込む痛痒い感触を
「やってみなよ。本当に見つけられたら焼肉
「えっ、ほんと!?」
妹がわかりやすく目を輝かせる。
一拍置いて、何かを察したらしい疑いの眼差しが私を見た。
「お姉ちゃん、もしかしてペンネーム変えた?」
「もちろん」
「あたしが知ってるお話、サイトにあげてる?」
「まさか」
個人的な愛着はあれ、どちらも公開に耐える品質ではない。思い出の中で輝いていれば十分だ。
実情を悟ったらしく、妹が大袈裟に肩を落とした。
「無理じゃん! 砂漠に落とした針じゃん! ヒントないの!?」
「ありません」
私は断固として首を振って、それから、かろうじて微笑んだ。
「でも──」
かたく握りしめていた手をほどく。
幼い女の子の手が、指の間をすり抜けていく。
何よりも私を、私の物語を求めてくれた、世界で一番可愛い妹。
純粋な嘘でも本当でもない幻影の背を見送って、私はようやく
祝福された家族の皮を被って、慣れないハイヒールに足を痛めながら。
「子供の頃、私の小説を読んでくれてありがとう」
二次会へ向かう
微かに滲んだ視界を瞬きで拭って歩き出す。足がひどく痛むのに、自然と小走りになるのを止められなかった。
早く家に帰りたいと思った。
懐かしいほどただ素朴に、小説を書きたい気分だった。
愛でも特別でもない果実 千鳥すいほ @sedumandmint
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