02_特別な果実

 私は誰にも母との秘密を話さなかった。けれど同時に、イチジクがどんなに甘くて素敵な果実なのか、誰かに話したくて仕方がなかった。


 王様の耳はロバの耳。私は自分のお話の中に、母子の絆の象徴として特別な果実を埋めることにした。


「お姉ちゃん、イチジク食べたことあるの?」


 妹の不思議そうな声に、私は微笑んだ。

 私は妹より早く起きて、遅く眠った。家にいる間は母の手伝いか勉強か妹の世話で過ごしていた。家の中に隠れられる場所なんてなかったから、私は妹の行動のほとんどを知っていた。


 だから、きっとそうだとわかっていたけれど、掴み取った確信はひどく甘かった。

 もっと母の手伝いをして、妹に優しくしようと思った。


「あるよ。友達の家で、一回だけ」


 私たちの故郷はイチジクを育てるには寒すぎて、当時、地元の小さなスーパーでは滅多に売りに出なかった。友達の家では親戚から送られてくるという話を、羨ましく聞いたのを覚えている。

 妹は私の嘘を疑わなかった。「ふぅん」と頷いて、それきりイチジクの話は終わりになった。


 中高の六年弱をかけて、私はノート十五冊にわたる長編を完結させた。高三の夏のことだった。


 間違いなく今までで最高傑作だと思った。へたれ王子の出番も、当初の予定より少しだけ増やした。

 早く妹に読んで欲しかった。


「ただいま!」


 意気揚々と帰宅したが返事はなかった。玄関には妹の靴があった。


菜摘なつみ? いるんでしょ?」


 トイレにでもこもっているのだろうか。

 首を傾げつつ居間を覗き込むと、机に向かってじっと背を丸めている妹の姿が見えた。


「……おかえり」


 振り返った幼い横顔は、どこか緊張を孕んでいた。宿題をしている様子でもない。訝しんで歩み寄ると、妹の前には小皿が置かれていた。


 自分の鼓動がひとつ、いやに大きく聞こえた。

 薄らと結露し始めたサランラップの下には、涙型の果物がごろりと鎮座している。


 ──イチジクの果実。


 柄の縁から濃い紫へとグラデーションを描く果皮は瑞々しく、微かに青臭いような香りがした。水滴を飾るように光らせた青果は、母が私に与える干しイチジクの小さな欠片とは何もかもが違っていた。


「なに、それ」


 私の引きつった問いに、妹は無言のまま、小さなメモ用紙を突きつけてきた。


「お母さんが買ってくれた。英検の合格祝いにって」


 見慣れた母の筆跡は、確かに同じ内容を綴っていた。何より信じ難かったのは、最後に付け加えられた「特別だよ」という走り書きだった。


 特別、というものは。

 台所の片隅で、隠れるようにして与えられるものではなかったのか。あの干からびた小さな欠片の、例えようのない甘さのことではなかったのか。


 この宝石のような果実の味を、私は知らないのに。

 母が食べる姿さえ見たことがないのに!


「ねぇ」


 頭がぐるぐると過熱して、唾を呑む音が大袈裟に自分の中に響いた。


「一口わけてよ」


 情けなく震えた私の声を、妹は笑わなかった。

 幼い目に決意を湛えて、冷ややかに私を見ていた。


「やだ」

「なんで」

「お姉ちゃん、あたしに分けてくれたことないじゃん」


 噛み殺された告発は、ひどく雄弁に鼓膜を刺した。

 いつから、と思った。

 妹はいつから、私と母の秘事ひめごとを知っていたのだろう。


 発端はどう考えても私だった。私が小説に書いて、妹に読ませたから。


 でも、だって、他に何ができただろう。私が母から与えられた干しイチジクの欠片はごく小さくて、それ以上誰かに分けることなんてできなかったのに。

 役に立たない言い訳を舌の上で転がしながら、私はじっと、皿の上のイチジクを見つめた。


 傷ひとつない、完全な果実。

 乾燥する前はこんなに大きいなんて知らなかった。

 たったひとかけを誰かに分け与えたって、十分にお腹いっぱいになりそうなくらいに。


 慎重に、慎重に表情と言葉を選んで、私は口を開いた。


「ケチ。もう小説読ませてあげないよ」


 ──あの瞬間。

 妹の、菜摘なつみの目に燃え上がった感情の色を思い出すたび、私は肺の内側を掻き毟られるような幻痛を覚える。


 私の妹は、明るくて気が弱くて少し抜けたところがあって、母や私はおろか友達との口喧嘩にも全然勝てないような子供だった。


 だから、誰かを確実に傷つけるためだけに言葉を選んだのは、きっと、あの時が初めてだった。


「お姉ちゃんの小説は面白くないから読みたくない」


 かつて。

 かつて私たちは仲の良い姉妹だった。性格や趣味の一致ではなく、環境的な要因に迫られて、妹が私に与え続けた幼く切実なこびの賜物だった。


 差し出された餌を貪って、私の思い上がりはすくすくと膨れ上がり、目も当てられない形で破裂した。


 妹はどうだか知らないが、私にとっては一世一代の大喧嘩だった。

 仲直りは、まだしていない。



***



 大喧嘩からの気まずい半年を耐え、私は首尾よく進学して地元を離れた。

 同じように妹が実家を出るまでの三年間、盆にも正月にも理由をつけて帰らなかった。


 代わりに、長期休暇のたびにあちこち旅行へ行った。類は友を呼ぶと言うべきか、進学先で得た友人の幾人かは、やはり故郷に帰らない理由を探していたから。


 楽しい旅行のやり方を教わった。

 土蛍ツチボタルの洞窟にも行った。初めてひとりで飛行機に乗った。岩肌に連なる光は、幼い私の想像よりずっと生々しく力強かった。幻想的な青い煌めきとは裏腹に、土産物のポストカードには地味な羽虫が写っていた。


 母に土産を送ろうか迷って、ふと、妹はここへ来ることがあるだろうかと考えた。


 妹が語った夢の真偽さえ、今となってはもうわからない。

 果たせなかった約束は棘のように残って、結婚式に向けて妹と事務的な連絡を重ねるたび、思い出したように鈍く疼いた。


 身内の結婚式は意外とやることが多い。

 さほど親族が多くはないこともあり、私にも親族受付とご祝儀の管理という仕事が与えられた。


 加えて、引き出物やら友達の招待の仕方やら、妹から細々とした相談がくることもあった。

 私は結婚したことがないし今後もする予定はないが、友人たちの結婚式に出席した経験が役に立った。うち一人が既に離婚したことは黙っておいた。


 気安く見せかけたやりとりの合間には、いつだって冷ややかな居心地の悪さが横たわっている。

 傷やひびなら直しようがあったかもしれないが、蓋を開けたら空っぽだっただけの関係にはつける薬もなく、私たちは中途半端な家族のロールプレイを続けている。


 膠着した私たちを置き去りに、子供達を手放した母は徐々に穏やかになり、実家はかつてほど恐ろしい場所ではなくなっていった。

 けれど、新しい家を得た妹は相変わらずほとんど帰省せず、両親の近況にも疎いままだった。


『お母さんってさ、今もイチジク好きかな?』


 相談事の終わり、思い出したように差し込まれた単語にぎくりとした。質問の意図を探りながら、当たり障りのない返答を打ち込む。


「去年の夏、タルト買って帰ったら喜んで食べてたよ」

『実は披露宴のデザートにどうかなって』

「喜ぶと思うよ。時期が合うならお母さんの地元産を使ったら?」


 字面だけは冷静に整えた返信に、間髪入れず『最高!』と飛び跳ねる猫のスタンプが返ってくる。

 遅れて、ポコンと通知音が鳴った。


『お姉ちゃんも食べてくれる?』


 明らかに不自然な一文に、答えに迷って立ち竦んだ。


 あの日からずっと、私の中にわだかまっているものは飢えではない。

 妹の不器用な歩み寄りが、劇的な解決をもたらすことはきっとない。


 けれど同時に、儀式的な区切りは間違いなく必要だった。

 愛の証として指輪を交換するように。墓前で手を合わせるように。私が、妹が、何かにつけて母にイチジクを贈るように。


 本当は、私から言い出さなければならなかった。

 けれど、どれだけ考えても、あの日の妹に返すべき言葉にたどり着けない。

 手放すべきものの形さえわからないのに、今も握りしめている。


 画面の向こうにいる妹の表情を想像できないまま、私は笑顔のスタンプを押した。

 そうするべきだと思った。

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