愛でも特別でもない果実

千鳥すいほ

01_肉片は甘く

 妹が結婚した。半年後に式を挙げるらしい。

 土曜の夜、スマートフォンに表示された縦長の吹き出しは、要約すればそれだけの内容だった。


 作業の手を止めて──キーボード上の指はほぼ動いていなかったので、実際は小一時間パソコンの前で間食をむさぼっていただけだ──まじまじと長方形の画面を見つめた。


 間をおかず、短めのメッセージが追加される。今度は事務的な出欠確認だった。


 返事を入力しようと指を置き、なんとはなしに縦に滑らせる。直近の履歴として表示された数年前のやりとりは、珍しく同じタイミングで帰省した際、母の事務連絡を代筆しただけのものだった。


 もう十年以上、私は妹とマイルドな絶交状態にある。とはいえ、互いに社会性の猫を被ってはおり、冠婚葬祭への出席を拒否するほど尖った関係ではない。


 簡潔な出席報告を送信しかけて、思い直してお祝いの言葉を添えた。少し考えて、体調を気遣う内容で締める。友人曰く、結婚式の準備は忙しいものらしいから。


 送信して一分もしないうちに既読がついて、猫のイラストのスタンプが返ってきた。

 画面の中でふくふくと微笑む丸い猫。憂いのなく見えるようデザインされた愛らしい表情は、幼い頃の妹に少し似ている。


 言葉を選ぶのが急に億劫おっくうに感じられて、当たり障りのないスタンプを選んで送った。

 文字とイラストで構成されたコミュニケーションツールは、愛想の才能がない人間にも適切な表情を作らせてくれるのでありがたい。


 結婚式に必要なもの。ドレスとバッグ、真珠のネックレス、普段は履かないハイヒール。愛すべき友人たちの結婚ラッシュも最近は落ち着いているので、一通り状態を確認した方が良いだろう。


 スマートフォンを置いて立ち上がろうとして、目測を誤って間食の皿をひっかけた。

 傾いた白い皿から、一切れの冷凍イチジクがぬるりと机に滑り出る。


 三秒ルール、と唱えて拾い上げる。誰にとがめられることもないのが一人暮らしのいいところだ。


 水道で雑に洗って、濡れたままの果実を口に放り込む。

 水っぽくなった果肉は柔らかく、噛めば甘やかに舌の上を滑った。



***



 かつて私たちは仲の良い姉妹だった。

 性格や趣味の一致ではなく、両親の不機嫌の嵐に追われて、ふたりで身を寄せ合っていたというのが正確なところかもしれない。


 家は狭く、誰にも自分の部屋なんてものはなかった。だから、妹との他愛ない思い出はほとんどがお風呂の中にある。

 同じ湯船の中、はだかの膝小僧を付き合わせている間だけ、私たちは母の目を逃れることができた。


「ねぇ、お話の続き書けた?」


 妹は小説より漫画やアニメが好きな子供だったが、私が書くお話だけは熱心に読んでくれた。

 毎日のように続きをせがんでくる妹の笑顔は、いつだって世界一可愛かった。


「今日はけっこう進んだよ」


 数学が自習だったから。私の返答に、妹は目を輝かせた。


「へたれ王子は!?」

「まだ出てない」

「えー!」


 妹には特別お気に入りのキャラクターがいて、頻繁に出番をねだってくるのには少しだけ困った。なにせ彼は脇役で、再登場はずいぶん先の予定だったから。


「えーとか言うな! 読ませてあげないよ」

「やだ! 絶対読む!」


 妹の幼い駄々がくすぐったくて、私は「しょうがないなぁ」と笑った。

 湯気でいっぱいの風呂場は、家の中で一番呼吸がしやすかった。気の重くなることは全部忘れて、ここではないどこかで繰り広げられる痛快な冒険を想い描くのが好きだった。


「そういえば昨日ね、夢でお姉ちゃんのお話の中に行ったよ」

「え。どこ行ったの」


 私には未だに想像しにくい体験だが、妹はフィクションに影響を受けやすく、好きな作品やキャラクターの夢を見ることが多かった。私の物語が選ばれたのは初めてで、妙な動悸がしたのを覚えている。


「えっとねぇ、光る岩の洞窟!」


 へたれ王子が初登場した場所であった。

 せめてもう少し台詞を増やしてやれば良かったかもしれない。私の後悔などつゆ知らず、妹は楽しげに続けた。


「すっごく綺麗だったよ! お姉ちゃんも来れたらよかったのに」

「夢の中は無理だけど……」


 岩壁に無数の青い光が連なり、星空のように輝く神秘の洞窟。

 実は完全な架空の場所でもなく、外国の観光地が元ネタだった。


「本当は土蛍ツチボタルっていう虫なんだって」

「へー! その洞窟ってどこにあるの?」

「確かオーストラリアの隣の国」

「遠っ!」


 妹は大袈裟に驚いて、それから愛らしく微笑んだ。


「でも、いつか行ってみたいね」


 そうだね、と声に出せないまま頷いた。叶えられる自信がなかった。

 子供の頃、私が知っている旅行は修学旅行と家族旅行だけだった。地元は修学旅行で海外に行くような地域ではなかったし、家族旅行は一番気の重いイベントだった。突発的な行動を繰り返す父と予定が守られず不機嫌になる母、疲れてぐずる妹を必死でなだめすかして耐えるだけの二泊三日。


 でも、妹とふたりで行くなら、ひょっとしたら楽しいのかもしれないと思った。


「大人になったら連れてってあげる」


 私の精一杯の虚勢に、妹は笑顔で頷いた。


 ──ぎしっ。


 居間からの足音を聞きつけて、私と妹は口をつぐんだ。

 耳慣れたリズムが廊下を進み、脱衣所の扉を開ける。


「ねぇ」


 爆発寸前の不機嫌を薄皮一枚で覆った声が、磨りガラス越しに尋ねた。


「いつまで入ってるの? お母さん、明日も早いんだけど」

「今出るところ!」


 私は努めて明るく声を張った。母の機嫌を損ねないよう、即座に湯船から上がる音を聞かせるのも忘れてはいけない。こうやって一旦満足して去ってもらうのが一番簡単で、邪魔をされずに済むと知っていた。

 数え切れないほど繰り返したやりとりなのに、妹は今日もぶすくれている。癇癪を起こさなかったことにほっとして、私は妹の手を引いた。


「ほら、早く出るよ。お話の続き、読みたいんでしょ?」


 妹を宥め、安息の場所を母に明け渡せば、三十分ほどの貴重な自由時間がやってくる。

 居間の片隅、くたびれたノートを妹に渡して、後ろから髪を乾かしてやる。妹の猫っ毛は、安物のドライヤーの風にも軽やかになびいた。


「んふ」


 妹が笑う。私が書いたお話で、喜んだり驚いたりする。髪がくしに引っかかっても気付かないくらい没頭する横顔を、密かに眺めるのが好きだった。


 居間のふすまは常に開け放たれていて、私の場所から台所も寝室もほとんど見渡すことができた。仮に母の目を盗んで抜け出したとしても、車社会の田舎では自力で最寄りのコンビニに行くことさえ難しい。

 けれど、シャーペンとノートさえあれば、私は妹をどこへだって連れて行けた。


「あれ? 続きは!?」


 白紙のページにたどり着いた妹が悲鳴を上げる。私は笑って、ふやけた手からノートを取り上げた。


「書けたら読ませてあげるから」

「今書いて!」

「無理だって。もう寝る時間でしょ」


 答えた瞬間、ガチャリと玄関の鍵が開く音がした。和やかなじゃれあいを押し除けて、重い足音が居間に踏み込んでくる。


「なんだ。まだ起きてたのか」


 うんざりとした様子で私たちを覗き込んだのは、くたびれた姿の父だった。


「たまには母さんの言うことを聞いて、さっさと寝たらどうだ?」


 剥き出しの不機嫌が風呂上がりの皮膚をざらりと撫でる。私たちが沈黙を返すと、父はため息をついて「菜摘なつみ」と妹の名を呼んだ。


「今日も母さんを怒らせる気か?」

「わかってるよ!」


 苛ついた叫びを上げて妹が立ち上がる。トイレに逃げ込む背中を見送って、父は私を一瞥した。


「お前も大変だな。妹がグズだから」


 父の見当外れな労いに、私は答えなかった。

 母と妹の間で立ち回るより、正面から大喧嘩される方がずっと面倒だった。


 私たちと違って、父だけはいつでも家から逃げ出せる。仕事、飲み会、自治会の集まり、友達との麻雀大会。都合の悪いことが起こればすぐに家から出て行って、嵐が過ぎるまで帰ってこない。

 自分が一番、母との約束を破って怒らせるくせに。成績が悪い、進学する気がないのかと妹を詰っては泣かせるくせに。全部を私に押し付けて、そしらぬ顔で逃げていく。


 トイレのドアが開くのを見計らって、私は急ぎすぎないように立ち上がった。用を足したいフリをして、俯いた妹とすれ違う。


「おやすみ、菜摘」


 小さく返事があったので安心した。これなら明日の朝には機嫌が直っているだろう。


 トイレのドアを閉め、パジャマのズボンと下着をおろして便座に腰掛ける。トイレは風呂の前に済ませていたが、父と喋らずに母を待つにはここにいるしかない。


 ぼんやりと耳を済ませていると、やがて、風呂上がりの母が廊下を歩く足音が聞こえた。


「あら、おかえりなさい」

「ああ」


 低温の挨拶を交わして、両親がすれ違う。タイミングを合わせて、何も拭いていないトイレットペーパーを丸めて流し、ドアを開ける。

 振り向いた母が、私を見つけてわずかに目元を緩めた。


「もう歯磨きしちゃった?」

「ううん。今からするところ」


 私が用意したいつも通りの返答を、母が疑うことは一度もなかった。


「おいで。いいものあげる」


 この瞬間だけは母の不機嫌も鳴りを潜めて、疲れとも諦めともつかない穏やかな微笑みを浮かべていた。


 父が入浴している二十分ほどの時間は、母の秘密の時間だった。台所の隅に隠れて、食器棚の三番目の引き出しを開ける。中に干しイチジクがしまわれているのを、私だけが知っていた。

 この家で唯一、母のためだけに用意された果実。


「寝る前だから、一口だけね」


 母は干しイチジクをひとつだけ取り出すと、丁寧に果肉を裂き、一口大の欠片を私の口に放り込んだ。


「特別だよ」


 乾燥した果実の表面は人肌とよく似た色をしていた。剥き出しになった赤い中身を見るたび、私は母の指のひとかけを与えられているような錯覚を味わった。

 母の肉は甘く、誕生日のケーキよりも優しく私を祝福してくれた。

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