明晰夢
月浦影ノ介
明晰夢
「
明晰夢の内容はみている本人がある程度コントロールすることができ、思い描いたとおりのことを体験したり、悪夢を良い内容に変えることなどが可能となる。
明晰夢をみるには、ある程度の訓練と慣れが必要とされる。
訓練とは、睡眠から目覚めたときに覚えている夢の内容をできる限り思いだし、記録するというものである。
現在、これを心的療法に活用出来無いか、研究がされている」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
筆者は普段から睡眠時間が短いせいか、あまり夢を見ることはない。あるいは見ても内容をほとんど覚えていない。
しかし世の中には頻繁に夢を見るばかりでなく、夢の内容を鮮明に記憶していたり、まるで現実のような臨場感を持って体験したりする人がいるらしい。
そしてなかには単なる夢だけで終わらず、そこからさらに不思議な体験をしてしまう人も存在する。
『赤い傘の女』『ついて来る女』『K先生』と、数々の心霊体験を披露してくれたユミさんも、実はその一人である。
これからご紹介するのは、そのユミさんが体験した夢にまつわる奇妙な出来事である。
あれは私が十九歳の秋頃の事だったと記憶しています。
季節の変わり目で体調を崩した私は、その日は大学を休んで朝からずっと寝込んでいました。体温計で計ると、熱が三十八度近くあります。
一緒に暮らしている母は、仕事に出掛けていていません。誰もいないアパートの一室、天井板の木目を見上げながら、私は虚ろな頭で睡眠と覚醒を幾度となく繰り返していました。
夕方、少し薄暗くなる頃だったと思います。窓からカーテン越しに射し込む光が柔らかく陰って、辺りはとても静かでした。
水を飲みに起きた私は、再び布団に潜り込みました。お腹が空いていたけれど、何も食べる気がしません。
お母さんまだ帰って来ないのかなぁとか、今日の講義は何をやる予定だったっけ?などと取り留めもない事を考えているうちに、私は再び何度目かの眠りに落ちていきました。
ふと目を覚ますと、私は見慣れた町の表通りに立っていました。
あれ、いつの間に起きたんだろう?
どうしてこんな所にいるんだろう?
そう不思議に思いながら歩くうちに「これは夢だ」と、唐突に気付きました。
いわゆる“明晰夢”というものを見たのは、それが初めての経験です。
夢だと気付いた私は、とりあえず走ってみることにしました。しかし身体が異様に重くて、次の一歩がなかなか出ません。
そのひどくコントロールの効かない感覚から、私はこれがやはり夢であることを確信しました。
目を開けると、布団の中で古い木目調の天井板を見上げていました。
目が覚めてしまったんだ、と少しガッカリしたような気分です。
でも、あの奇妙な感覚をもう一度味わってみたくて、私は何も考えずに再び目を閉じました。
しばらくすると、今度は大学のキャンパス内に立っていました。しかし周囲に人の姿はありません。これもすぐに夢の中だと気付きました。
夢の中でしか出来ない事はないかと暫く考えた結果、私は空を飛んでみる事にしました。
地面を蹴って身体を空中に投げ出すと、ふわりとした浮遊感が全身を包み込みます。
飛べた!と思ったのも束の間、地面との距離は数十センチほどで、大空を飛ぶ鳥のような爽快感は得られそうもありません。
失望した私は、次に会いたい人を心に思い描いてみました。
心の中で強く強く、会いたい人の事を念じます。
すると身体が勝手にある方向に動き始めたのです。きっとこの先に「会いたい人」がいる。私は理由もなく、そう確信していました。
しかし残念なことに、またしてもここで目が覚めてしまいました。天井板の目玉みたいな木目が私を嗤っているようで、なんだか少し忌々しく感じます。
私はまた目を閉じて、なんとか夢の続きを見ようとしました。そのとき、なぜかどうしてもその人に会いたかったのです。
しかし意識して眠ろうとするのは案外難しいもので、すっかり目が冴えてしまった私はなかなか眠ることが出来ません。
お腹の上に手を置いて気持ちを落ち着け、今度はゆっくりと深呼吸を繰り返してみました。
目蓋が徐々に重くなって来て、今度こそちゃんと眠れそうです。と思ったのも束の間、目の前の暗闇がなぜか急に白っぽくなっていきました。
なんだか変だな、眠るときってこんなに視界が明るくなるもんだっけ?
そんなふうに頭の片隅で考えていると、今度は今まで体験したことのない奇妙な感覚に襲われました。
身体がふわっと、急速に浮いていく感じがするのです。思わず目を開けると、顔のすぐ前に天井板の目玉みたいな木目が迫っていました。
「あっ、ぶつかる!」と思ったときには天井をすり抜け、さらにアパートの屋根を突き抜けて、私の身体は周囲の建物よりもずっと高い上空に浮いていました。
空中で身体を反転させ、上体を起こすと、目の前に見慣れた町の景色が広がっています。
遠く西の山の稜線に日が沈もうとしています。暗い影が落ちた町は所々に明かりが灯り、幹線道路を走る車の列はライトを点けて、まるで光の川が流れるようです。
しばらくは呆気に取られ、私はその光景を眺めていました。寒さは感じません。それ以上に身も心も軽くて、なぜかとても気分が良いのです。
私はふと自分の目的を思い出し、再び心のなかで会いたい人のことを念じてみました。
すると身体がふわりと浮いて、勝手に宙を飛んでいきます。風の抵抗すら感じません。むしろ私が風の一部になったかのようで、きっと鳥が飛ぶのってこんな感じなんだろうなぁと、奇妙な高揚感に包まれてそう思いました。
この先に私の会いたい人がいる。その確信が強くなるにつれ、ぐんぐんスピードが上がっていきます。息をするのも忘れ、風と一つになって • • • • • • 気付くと私は、見知らぬ建物の中にいました。
高い天井から落ちる柔らかな照明。その広い空間のなかに背の高い本棚が整然と並んでいて、無数の本がそこに収められている。どうやらここは、どこかの図書館のようだと思いました。
人の姿はまばらです。私は本棚の間の通路を、そっと辺りを窺うようにして歩いてみました。すると通路の奥の暗がりに、誰かがこちらに背を向けて立っているのに気付きました。
女性です。細身のスーツに身を包んで、ときおり本棚を見上げながら、手元の書類に何やら書き込んでいます。
その姿は図書館の利用者というより、職員であることを思わせました。
私はこの人こそが、自分の会いたい人なのだと思いました。彼女は私の存在に気付いてないようです。嬉しさで高鳴る鼓動を抑えつつ、私はそっとその人の側へ歩み寄ります。
すると突然、その女性が私の方へ振り返りました。
顔はなぜか見えません。そこだけ黒っぽい靄が掛かったようで、顔の形も表情も判然としないのです。
それでも口元だけは見えました。薄い口紅を引いた形の良い唇が僅かに微笑んで、私の頭の中に柔らかな優しい声がそっと流れ込んで来ました。
「───こんな所に来ては駄目よ。お母さんが心配してるから、早く帰りなさい」
まるで子供を諭すような声が響いたと思うと、私はふと目を覚ましました。
そこはいつもの天井、いつものアパートの一室です。
「ああ、夢から覚めちゃったか」
ガッカリしていると、私は傍らに母が座っているのに気付きました。母は心配そうな表情で私を覗き込んでいます。
「ああ良かった。いくら揺すっても全然目を覚まさないから、心配して救急車を呼ぼうかと思ってたところよ」
母はホッとしたようにそう笑いました。
あれは一体何だったのか。明晰夢にしてもあまりに鮮明で、私にはそれが単なる夢だとはどうしても思えないのでした。
その翌日、すっかり元気を取り戻した私は、SNSを開いてある人物に「こんにちは。お元気ですか」とメッセージを送りました。
その人は関東某県に住む図書館職員の女性で、半年前にSNSを通じて知り合ったのでした。仮に秀美さんとしておきますが、私が会いたい人というのは実はこの秀美さんだったのです。
五分ほどで返って来たメッセージには「昨日、私のところに来たでしょう?」と書かれていました。
私は思わずドキリとしました。なぜ秀美さんは、私が見た夢の内容を知っているのでしょう?
実は秀美さんも私と同じく“視える”人なのでした。しかしその能力は私とは比べものにならないぐらい高く、ときには知り合いを通じて霊障にまつわる相談などにも関わる事があるそうです。
なんでも母方の家系がそういう血筋らしく、私もSNSを通じて以前から色々と相談に乗って貰っていたのでした。
正直に言うと、私はこの秀美さんに少し憧れの感情を抱いていたのです。
私は昨日の奇妙な夢の内容を簡潔にまとめて、秀美さんに伝えました。すると少し経ってから返って来たメッセージには、その事に関する推察が書かれていました。
それはおそらく明晰夢を繰り返し見ようとしているうちに、偶然にも幽体離脱が起こってしまったのだろうという事でした。それに気付かず、私は秀美さんに会いたいと念じ続け、彼女の職場に辿り着いてしまったのです。
「幽体に物理的な障壁は関係ないの。行きたいと思えばどこにでも行ける。でも安易にそんなことを繰り返していると、ときどき戻れなくなってしまう場合があるから、これからは絶対にやらないでね」
秀美さんはそう言って、私を諭してくれたのでした。
この秀美さんはその後、結婚されて他県に移り住みました。その後SNS も辞めてしまって、今では連絡も取れません。
でもいつか必ず会える日が来ると、私はそう信じています。
(了)
明晰夢 月浦影ノ介 @tukinokage
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