第7話




校舎の屋上、雲の合間から覗く星の光の下で浩二は鉄の柵に背を預けてコンクリートのそこに座り込んでいた。まだ空が白くなるには間がある。それまでの間、星が雲に隠れなければいいと思った。


丘の下の暗闇を見つめる。緑の屋根の場所を見当をつけてそこに視線を注ぐ。明かりのないそこで里穂は眠っているはずだった。


あんな言葉が出てしまうなんて、自分でも驚いていた。


これから先、なんて、どこの星でどう時間を送ったとしても、親友も知り合いも知っている場所もないところで送る時間だったら、どんな風でも同じだと思っていたのに。


まるで、これから先のことに期待しているみたいな自分の言葉が信じられなかった。


故郷の星で、浩二は特別幸せでもなかったけど特に不幸でもなく、普通の生活に満足していた。幸い仲の良い友人も出来たし親友と呼べる人もいた。両親とは離れて暮らしていたけど、時々届く便りで元気なことが分かっていたから心配もなかったし、まあ毎日はこんなもんかな、と思っていた。


それが、ひとり、またひとりと飛んでいくヤツが出てきて、そしてそれが自分にも来るんだと思ったときに、自分が意外と故郷の星に愛着を持っていたことを知った。


ここがいい。住み慣れた場所と僅かの気を許した人々と暮らしていけたら、それだけで良かったのに。


年老いたその星は、次々と人々を飛ばしてその力を失っていく。馴染んだ景色が力の衰退とともに荒れていくのを浩二は空虚にも似た気持ちで見ていた。


この星にも自分の故郷はなくなってしまう。ここにないのなら、この宇宙の中何処を探したってきっとあるはずない。


『そんなこと、ないって。生まれ育った故郷は間違いなくここだけど、新しい故郷だって、宇宙は広いんだからきっとどこかにあるって』


そう言っていた親友は、一緒に鈍く霞んだ星空を見上げていたときに、「呼ぶ声がする」と呟いて飛んでいってしまった。飛び際に「きっと浩二にも見つかるって!」と残して。


彼はそう言ったけど浩二はそんなこと信じてはいなかった。例え飛べたってその途中で行く先を失ってしまったらそのまま宙を彷徨うだけなのだ。だったら最後までここに残っていたって一緒だ。生まれてから今までを育ててくれたこの星の最期を見届けるのもいいかもしれないと、そんな風に思っていた。


だから、最初此処に飛んできたときに、まず自分が飛んだということに驚いた。そんな意思が自分の中のどこにあったというのか。親友のように、呼ぶ声が聞こえたわけでもなかった。更に、自分を呼んだと思しき人は自分のことを胡散臭そうに見ていた。


まあ、当然の反応だと思うけど。


でも、おかげでここに落ち着けなくても別に困らない、という気持ちに落ち着いてしまった。時期が来たらまた何かの力で飛ばされるのだろうし、ここに思いを少しも残さない方がそのときに飛びやすいと思ったのだ。


ここに落ち着いたのではない浩二は、星の力が及ばないと此処には居られない。僅かの時間で周囲を見てまわって、驚くほどここが故郷の星の環境に似ていることを知った。


親友の言っていた『新しい故郷』という言葉を思い出した。


そうだな。もし新たに始めるのでも、故郷の星と似たここだったら故郷の星に思ったように愛着を持てるかもしれない。


そう思ったけど、それは実現しないと思っていた。


浩二にはここに『落ち着く』ための力が足りない。


「…………」


仕方のないことだ。一事が万事上手くいくなんてこと、この世の中でそうそうあるもんじゃない。里穂が言う『思いは叶う』だって、もしかしたら浩二が知らなかっただけで、飛びたいという気持ちが浩二の心のどこかにあったのだとしたら(だから故郷の星からここへ飛んできたんだろうし)、もうここへ飛んできたということで叶ってしまっている。この上、ここに落ち着きたいなんて、願っても叶わない気がした。


仕方ない。期待していて結局飛ばされるよりも、何も期待せず未練なく飛ばされたほうが辛くない。


自分の勝手な願いで、彼女に無理強いしてはいけないと、浩二はよく分かっていた。




丘の下は暗闇に包まれたまま。緑の屋根も暗がりでは見ることは叶わない。


雲の隙間で、今も星は回っていた。






絶え間ない雨脚が庭の紫陽花を鮮やかに見せている。厚い鈍色の雲は太陽の光を薄い靄のようにしてしまっていて、その、どこか他所の国のような景色の色合いに、この前までのことが幻想だったのかと思ってしまうほどだった。


熱が下がらなかった里穂が次に目覚めたのは激しく雨が打ちつける朝だった。梅雨前線が日本列島に居座って盛大に地面に水を供給していた。樋から落ちる水音も、側溝を流れる雨水も、この前の夜の静けさをどこにも残していなくて、覚えていたのは額に触れた彼の手のひらの温度だけだった。


勝手な涙を零したのに、自分を気遣ってくれる浩二をやさしいと思う。それなのに、彼に対する勝手な気持ちはおさまらない。


こんなにも心配することはいけないことなのか。浩二が余りにも諦めてしまっているから、せめて自分くらい願っていなければ、ここに落ち着くことなんか出来ないんじゃないのか。それすらいらないと言うなら、自分になんて会いに来てくれなくたっていいのに。


「里穂、もう熱はいいの?」


心配そうな母親が味噌汁を注いでくれながら聞いてくる。今日の一限目は第二外国語だったから欠課する訳にはいかなかった。


「大丈夫よ。昨夜薬飲んだし」


浩二が気遣ってくれた熱も下がってしまった。もう彼の手のひらが額に触れることもないだろう。彼がどこかへ飛んでいってしまったら、この感触が里穂の記憶から消えたときが、彼が地球に居たことの証が消えるときだ。


「里穂、時間いいの?」


一緒に食事を摂っていた姉に指摘される。壁の時計は随分過ぎていて、里穂は慌てて食事をかきこむと急いで玄関を出た。いつもと一緒の朝が始まった。


土砂降りの中、お気に入りの傘を翳しながら走って駅まで向かう。ラッシュアワーで混み合う駅に身を投じた。多くのサラリーマンがそうであるように、里穂も乗り込む乗車口は決まっていた。階段から三つ目の乗降位置に並ぶと鞄を左肩から右肩に掛けなおした。


その右肩を叩かれる。振り向くと由香がおはよう、と声をかけてきた。


「おはよう。なに、水曜日が一コマ目の日?」


「そうなのよ。月、水、木、金と一コマ目なの。教養学部のうちは講義が多くてやになっちゃうわよね」


「教授も一コマ目なんてしんどいと思うのにね」


「ほんとね」


笑いながらホームに並ぶ。そういえば、と由香が口にした。


「なに?」


「あれから浩二くんに会った?」


どきっとした。浩二に言われた言葉が、彼の声で鼓膜の奥によみがえる。まるで、今改めて彼にそう言われたような気持ちになって里穂は顔を歪めた。


「え…っ、ど、どうしたの? 里穂?」


優しい親友の声に、我慢しなければいけないものが簡単に溢れた。おろおろする由香の、一コマ目の出席は大丈夫だったかなあと、そんなことを思ってしまった。




「……通りすがりの親切心は困る、って言われたの。…私、お節介だったのかなあ……」


ホームの端のベンチに腰掛けて今までのことを大まかに話すと、最後にぽつりと里穂が言った。由香はなんと言ったらいいか困ってしまった。右も左も分からない人の手を引いてやることは決して悪いことだとは思わない。それだけは間違いないからそう伝える。


「そんなこと、ないと思うわ。…浩二くん、なんかワケがあったんじゃないかな?」


ワケ…、と里穂がおうむ返しに呟いた。


「落ち着くためのチカラが足りないって言ったんでしょ? …里穂に色々してもらって、でも結局チカラが足りなくて何処か別のトコに飛ばされてしまうとしたら、親切にされた分申し訳ないなあって思うじゃない。そういうことじゃないのかなあ?」


そうなのだろうか。そうなんだとしたら、申し訳ないって思う分、もっと此処に落ち着きたいって願ってくれた方が嬉しいのに。少なくとも里穂は、額に触れた感触が消えないように浩二に此処に落ち着いてほしいと思っているのに。


どうしたら浩二に此処に居たいと思わせることが出来るのだろう。そう出来たらきっとカミサマだってその願いを叶えてくれるだろうに。


浩二のためだけに、意味もなくカミサマの奇跡を信じていることに里穂は気付かなかった。由香はそれに、と話を続ける。


「通りすがりに、って言ったのよね? それって、助けるだけ助けて後はしらなーいって言われるのがイヤってことにも聞こえるじゃない? 浩二くんってもしかして臆病なのかなあ?」


夜目にもあんなにカッコいいのにね。


笑って由香が言う。里穂は由香の言葉を頭の中で反芻していた。


諦めてしまっているように見えるのは、期待が裏切られたときに傷つかないようになのかもしれない。人智の及ばない力で飛んだり引っ張られたりするのだから、それを抱えていても仕方がないと思う。でも、里穂にさえそれを思っているのだとしたらそれは里穂に対して失礼じゃないだろうか。だって、少なくとも里穂は通りすがりに手を貸した人に自分の家を教えたりしないし、そんな人のために、感情を高ぶらせたりなんかしないのだから。


力の及ばないところは仕方ない。だって里穂は一介の人間に過ぎないのだし。でも、里穂の力の尽くせることはしてあげたいと思う。浩二が地球に居る間、楽しく過ごしてもらえるように。浩二がもし他の星へ飛ばされてしまっても、此処での思い出が彼の心に残ってくれるように。里穂が、多分浩二のことを忘れないみたいに。


来るかもしれない別れを申し訳ないと気にして関わってくるなと言っているのだったら、そんなこと里穂は気にしない。今までの人生の中でだっていっぱい別れは経験してきた。思い出だって沢山持っている。その思い出たちが里穂の心を豊かにしてくれているのだから、飛んでいってしまうことなんて申し訳ないと思ってくれなくたっていい。それよりそんな事で里穂の気持ちを拒絶したことを申し訳ないと思ってほしいくらいだ。


「…落ち着くことには力になってあげられないかもしれないけど、此処で楽しく過ごすことにくらい、協力してあげられるのに……。何を浩二くんはそんなに気にしてるんだろう?」


「それは、浩二くんにしか分からないと思うけど……。でも、笑う門には福来るって言うしね。色々諦めてるより楽しくやった方が良いとは、私も思うわ」


由香に背を押してもらって少し勇気が出てくる。やっぱり浩二の言葉通りには聞けない。浩二がここに落ち着いたらいいと思っているのだって本当だし、もしかして別れのときが来るのかもしれないと思っても尚、浩二とこれっきりにしてしまいたくなかった。通りすがりでなんか、絶対ない。


今度星が出たら、絶対に浩二を探しに行こう。会いに行ったらどんな顔をするだろうか。それを考えるのは少しの不安もあったけど、でも楽しいことだった。




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