雨の星、夏の空に

遠野まさみ

第1話

そのひとは、ある日突然、里穂の前に現れた。



◇◇◇




新しい生活を始めて二ヵ月が過ぎていた。広いキャンパスに通うことも、高い教材を買うことにも慣れてきた入梅前の朝のラッシュの駅のホームで、懐かしいというには記憶が鮮明な友達の顔を見つけて里穂は彼女の傍へと移動した。


「おはよう、由香。この電車だったんだね」


「あれー、里穂。おはよう。そうなの、朝一の講義のときはこの電車使ってるの」


「そっかー。私も一コマ目なの」


一コマ、なんていう言い方にもすっかり馴染んだ。むしろ大学生気分を満喫したくてわざと一限目なんていう言い方を遠ざけている。


「慣れた? 大学」


「うん、まあ、ぼちぼちね」


「九十分っていうのに、まだ慣れないのよねー、私」


大体一時間手前でそわそわしてくるのよ、と笑って由香が言う。一般教養の講義は高校の授業と似たようなものもあって、そう言う「授業」のときは、里穂も確かにそうかもしれない。同意をして笑った。


ホームにアナウンスが流れて電車が滑り込んでくる。乗り込む人に流されて、二人も車内に移動した。


学生鞄よりも重たいデニムの鞄を肩に掛けてつり革に掴まる。足元を確保して電車が動き出すのに備えた。程なくして電車は時刻表通り発車する。


「そういや、昨夜、流れ星見たわよ」


ちょっとわくわくとした子供のような表情で由香が言う。流星群なんていうものを学校で習うまでは、流れ星なんて一生に一度見れるか見れないかのものだと思っていた。里穂はへぇ、と相槌を打って由香の話の先を促した。


「バイトの上がりが遅くなって、日付超えるか超えないかくらいの時間だったんだけど、道の正面の空に綺麗に左上から右下に落ちていったの。でもあれね、流れ星に願い事なんて、やっぱり咄嗟で何も出来ないよね」


「っていうか、流れ星に願い事して叶うとか思ってることの方が驚きだわ。一体いくつよ、貴女」


幼い気持ちに里穂は笑う。この、クラスの男子からも評判だった友達の、こんな純朴なところが里穂は好きだった。


「ねえ、里穂。今日さ、夜、天気良かったらガッコの屋上行ってみない? 久し振りに」


「なによ、急に。別に今日はバイトもないけど…。鍵開いてるかなあ?」


「非常階段から上がれないかな。いいじゃない、行くだけ行ってみよ?」


高校の天文部がたまに校舎の屋上で観望会をしていたところへ里穂たちも混ぜてもらうことがあった。それは特に星を見ようとかそういう意図はなく、ただ、夜半まで友達と一緒にいられるのが楽しかっただけなのだけど。


「そうね。それじゃあ、九時くらいで良い? ご飯食べてから行くわ」


「うん、じゃあ九時ね!」


思い出に浸るほどの時間は経っていないけれど、やっぱり三年間通った場所への愛着がその誘いを余計に魅惑的にしていた。里穂が了承すると由香も嬉しそうに、今だったら星、何見えるのかなあ、なんて話していた。




午後の講義を終えて綺麗な夕焼けの中を家へ帰り、夜、由香との約束があるからと早めの夕飯を食べた。母親は、大学生にもなると夜遊びもするのねえ、なんてことを言っていたが、友達と会って話をするだけのことが彼女の言う「夜遊び」に当たるのかどうかはちょっと疑問だった。


いってきますと居間に聞こえるように言ってドアを閉める。住宅街の上空に広がる夜空は雲もなく、月も細い爪のようで星を見上げるのに邪魔にならない。


スニーカーがアスファルトを蹴る音は夜風がさらっていく。高校受験のときに、唯一徒歩圏内だった学校に、それでも遅刻しそうな毎日を自転車で飛ばして通っていた。歩いてみるとわりといい散策距離で、食後の腹ごなしには丁度良かった。


時折流れる風はまだそれほど湿気を帯びておらず、丘の頂上にある校舎へ上る坂道を歩く里穂の頬を心地よく撫でていた。


校門はまだ開け放たれていた。職員室の窓にはまだ明かりが灯っていて、時折人影が行き来している。時期的には中間テストか、その準備時期、というところだろう。生徒が勉強で忙しくしている時間、教師もまた学校で忙しくしていたのだ。


校庭の端を通って職員室から反対側の非常階段を上る。屋上へと上りきると鉄の柵に手をかけて辺りを飲み込んでいる闇を一望した。風が地表から舞い上がってきて、シャツの裾と漆黒の髪の毛を巻き上げている。


見上げるとか細い光が空一面に広がっている。今朝の由香の言葉を思い出した。

由香は、もし間に合ったら昨夜の流れ星に何を願いたかったのだろう。


そうして考える。


自分がもし流れ星を見つけたら、何を祈るだろう。


新しい生活を始めて、そろそろそれにも慣れてきた。キャンパスの門を潜る度に感じていた高揚感も徐々に消えて、四年間の平凡な学生生活だけがあるはずの、自分の未来。


せめて四年のうちに一度くらい、思い出に残ることがあるといいなと、そんなことを思った。


「…………」


腕時計を見ると、約束の九時まであと十五分ほどある。由香が上ってくるだろう方角を柵から身を乗り出して見つめた。


そのとき。


里穂の視界右上空から背後の方へ小さな光の筋が煌いた。


流れ星かと気付くのが一瞬遅れて、多分それが消えるのには間に合わなかっただろう。


それでも、気持ちは光を追いかけていて、体を斜め後方へと向けて視線を向けると、階段入り口のところに人影が立っていた。


小さな星を背に立っているシルエットに一瞬ぎょっとしたが、すぐに由香だと分かった。飲み込んだ息を吐き出して彼女の元へ向かう。


「いつ回りこんだの? 私、下道を見てたのに……」


人影を照らす光は細い月の光だけ。三メートルの傍まで近寄って、漸くその人影が由香のものでないことが分かった。


「……だれ…?」


息を止めて問う。見回りの教師だろうか。すぐに言い訳を頭の中で巡らせた。


けれど、影は里穂を問い詰める言葉を発しない。ただ、そこに居るだけ。


三メートルの距離の暗闇の中で分かるのは、僅かな月の光を弾く亜麻色の髪の毛だけ。時折流れる風が、その細い髪を揺らして薄明かりを弾けさせていた。


もう一度、問うた。


誰? と。


すると、微かな低音が風に乗って里穂の鼓膜に届いていた。




「…オマエが、呼んだのか?」




呼んだ?


誰が、誰を?


もし、自分のことを指して言っているのだったら、里穂が今呼んでいるのは由香だけだ。だって、彼女とはこの場所で約束していたのだから。


「…あなた、誰なの…」


少し呆けても聞こえる低音の持ち主に、用心深く問う。先にこの場にいたのは里穂だし、問うたのも里穂が先なのだから、その人が先に答えていいはずだった。


「……オレがここに居るんだったら、オマエが呼んでくれたんだろうな…」


何を言っているのかさっぱり分からないし、里穂の問いにだって答えていない。噛み合わない会話に少し焦れる。


「呼ぶってなによ。あなたなんか、私は呼んでない、わ……」


少し語尾が弱くなったのは、目が人影に慣れてきてその表情が僅かながらに分かったからだった。


切れ長の双眸。それがひたと里穂のことを見つめていて、居心地の悪さを感じてもいいはずなのにそれがない。微かに分かる眉がやや寄せられていて、少し物悲しそうに見えるからだろうか。


なんで、ちょっと悲しそうなのか。


呼んだのかと問われて呼んでいないと答えた会話が行く先を失ったからだろうか。

でも、それにしては目の前のその人はじっと里穂のことを見ている。続きを促すみたいに。


結局里穂の問いに答えようとしないその人に、まず自分の状況を説明した。


「私はここで友達と待ち合わせしてたの。一人だったし独り言も言ってないから、あなたを呼んだっていうことは、絶対ないわ」


きっぱりとした里穂の言葉に、でも彼は視線を外すことなく見つめてくる。ふっくらとした唇が動いて語った言葉は淡々としていて意味が分からない。


「…でも、オマエが呼ばなければオレはここに飛んで来なかったと思うし、どっかで呼んだんだって」


オレ、じゃなくても、誰か、とか。


付け足すように言われたってやっぱり分からない。


「飛んで?」


取り敢えず引っかかった言葉をおうむ返しに聞いてみる。するとその人は、そう、と頷いた。


「…星の光がこうして届くみたいに、オマエのなにか思う気持ちが届いて、ちょうど飛び際だったオレのところに届いたんじゃないかな。…もうすぐオレの星、なくなるみたいだし」


………は?


続けて説明されてもやっぱり理解不能な言葉の数々に、里穂がたっぷり十秒固まってしまってもそれは仕方のないことだと、目の前の人が理解したかどうかは定かではなかった。



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