第5話
三日三晩雨が降り続いて、そしてその間浩二とは会えなかった。とはいえ、里穂は浩二の居場所を知っていたわけではないので、積極的に探したというわけではなかった。ただ漠然と、もう一度会えると思っていたので、なんとなく気勢を削がれた気分だった。
でも、雨の中会えないのは仕方ないか、という気持ちもあった。
最初に会ったのが澄んだ夜空の下だったからなのか、それとも彼が醸し出している雰囲気の所為なのか、彼はいつも細く瞬く星を背に居るような気がしていた。だから、星のない雨の夜や、ましてや昼間に会えるとは思っていなかった。
そのことも、異邦人の彼には似合っているような気がしていた。
「…………」
レポートの製作途中になんとなく手を止めて、窓に引いていたカーテンを開ける。
暗い闇を見上げると、細かい雨がやんでいて雲の切れ間から少しだけ星が見えていた。思わず里穂は勢い良く椅子から立ち上がった。
星が出ている今なら、浩二に会えるかもしれない。
急いで階下へ降りるとスニーカーを履く。慌ただしく階段を下りる音に母親がリビングから顔を出した。
「里穂? 何処か行くの?」
「ちょっと、友達のとこ。すぐ帰るから!」
梅雨の雲が星を隠してしまわないうちに。
星の間を飛んでくることの出来る彼だったら、星が消えたときに姿を消してもおかしくないと、思えていた。
「友達って、どこの…、あ、里穂!」
母親の問いかけに答えることもせずに玄関を飛び出した。廊下に出てきた彼女が見たのは、もう閉じてしまった扉だけだった。
星が少し出ているといっても空の大部分は雲が覆っていて、いつまた星を隠してしまうか分からなかった。風が流れると雲が広がってしまうような気がしたから、沼に溜まった水のように動かない空気がありがたかった。
闇雲に探すのではなく、なんとなくだけど屋上に行ったら彼が居るような気がして、足を西の方へ向けていた。住宅街の細くて薄暗い道を小走りで抜けていく。高校までは走って十五分くらいだったから、勿論十五分後にしか浩二には会えないと思っていたので、だからそこに人影を見つけたのはすごく偶然なんじゃないかと思う。別に影が揺らいだとかいうわけでもないのに。
「……浩二くん…」
この前来た公園の滑り台の上にしゃがみこんで道の方を見ている彼に、少し弾んだ息で呼びかけた。公園の正面に設置された街灯の明かりを亜麻色の髪の毛が弾いていて、そこだけ淡い光を放っているようだった。
ポールの間をすり抜けて小さな敷地の中に入る。浩二は滑り台の上でじっと動かずにいた。
「…屋上に、居るかなと思って…」
息を整えながら話しかける。視線の先に人が少し首を傾げたように思えた。
「……探してくれたの?」
台の上から里穂を見下ろしてくる浩二の声が薄く笑っているのが分かる。からかっているのではないことは薄明かりの中の瞳が伝えてくれた。
月のようにカーブを描く目が、少しやさしいような気がする。里穂を見つけたからなのか、この前まで滲ませていた寂しさが、ちょっと薄らいでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「…そう…。雨が止んで星がちょっと見えたから……」
そこまで言って、里穂はこれと言って浩二に用事があったわけではないことに思い至った。三日三晩会えなかったから、この隙に会わなければ…というのは用事には当たらないだろう。続きの言葉を探し出せない里穂のことを、浩二はじっと見つめている。それが居心地が悪いので、続きの言葉はこれに決めた。
「なによ、…じろじろ見て……。感じ悪いわよ…」
口を尖らせた顔を見て、浩二が小さく笑った。その息遣いが静かな公園にちゃんと聞こえて里穂は驚く。微かとはいえ笑った声を聞いたのは勿論初めてだ。
「…なんか、オマエ、子供が照れくさくて拗ねたみたいな顔してる」
そして彼の言葉にも驚いた。浩二の視線が自分に注がれているのが恥ずかしくて、唇が突き出たことは自分でも分かった。でも、滑り台の上を睨んでそんな表情をしていたら、普通の人は十中八九、里穂が気分を害して怒っていると思うのだ。
「……なに?」
ちょっと呆けて浩二の顔をまじまじと見てしまった。静かな公園には自分達のほかには誰もいなくて、視線を投げる相手はお互いだけだったけど、それにしたって彼の疑問が聞こえるのにはさほどかからなかった。
「ううん、なんでもない……」
慌てて視線を外して取り繕う。でも言葉を続けられなかったから小さな敷地はあっという間に沈黙がさらってしまった。
なにかを、言わなければ。
沈黙の暗がりに目の前の人が消えてしまうんじゃないかと思えて、里穂は頭の中で必死に次の言葉を探す。思いついたのはありきたりな言葉だった。
「……此処で、何してたの?」
里穂の言葉に浩二は息を抜くように微笑った。
「…オマエ、探してくれたんだろ?」
「…うん、そうだけど……」
里穂が探していたから、ここに居てくれたというのだろうか。それはちょっと自分に都合のいい考えのような気がしたけど、浩二の言葉からはそれ以外の意味が探せなかった。
「…浩二くん?」
黙ってしまった彼に視線で問うてみたけれど、暗がりの中では分からなかったかもしれない。滑り台の上で浩二が立ち上がった。腰を折って狭い遊具を滑り降りてくる。着地した砂場が踏まれて、さく、という音がした。
小さな星空を背に砂場から公園の入り口の方へ歩いてくる。里穂の横を三歩行き過ぎて浩二は振り返ってくれた。
「浩二くん?」
「…案内、してくれるんじゃないの? この公園までは覚えたけど、此処から学校の屋上までは行ってないじゃん?」
根無し草みたいな彼から提案が出たことが嬉しかった。すぐに大きく頷いて隣へ並ぶ。西の方を指差して彼を先導してやった。
高校までの散歩の途中でバス停とコンビニを教えてやった。裏門のすぐ傍の小さな商店ではジュースの自動販売機が煌々と明かりを放っていて、里穂は浩二に会ってから初めて彼を白い明かりのもとで見ることが出来た。
暗いところで見るよりもうんとその造作が整っていることが分かる。暗闇で見たときも綺麗だと思っていたけど、色素の幾分薄い瞳はこんな湿気を帯びた空気の中でもどこか涼しげだ。鼻筋がすっと通っていて彫刻のようだけど、ふっくらした唇が生気を宿らせている。
綺麗だなあ。
素直にそんな風に思った。
しげしげと見つめていたら、横を向いていた顔がこちらを見た。ぱちっと視線が合ってしまって驚く。慌てて視線を逸らしたのは無意味だっただろう。
「…なんだった?」
案の定聞かれる。
「……暗いところでしか会ってなかったから、そんなキレイな顔してるの、知らなかった。…ここに落ち着けたら、浩二くん、きっとモテるよ」
ちょっと俗っぽい話に浩二が、そんなこと言われてもなあ、と苦笑いした。すぐに消えた笑いだったけど、どこに引っかかったのか知りたくて口を開いた。
「キレイっていうのが? それともモテる、っていうのが? どっちも皆言うと思うけど……」
里穂の言葉に浩二の苦笑が被さる。黙ることで浩二の言葉を促してみた。
里穂の沈黙を浩二も正しく理解して、だからちょっと迷って、それからすこし諦めたようにもう一度微笑った。
「…此処に、落ち着けるとは、限らんからな」
ポツリと言って、里穂をじっと見る。
自動販売機の白々とした明かりの中で見る浩二の瞳が、すごく真っ直ぐに里穂の事を見てくる。何かを探ろうとしているでもなく、何かを期待しているわけでもない。ただ、里穂を見ているだけの、視線。
何かの思いがあるだろうに、それを汲み取ってやることが出来なくて、里穂は彼の視線から目を外した。だから、俯いた里穂に寂しそうに笑った浩二の表情を、里穂は勿論知ることはない。里穂は頭の中で浩二の言葉を反芻するのに精一杯だった。
「……聞いて、良い?」
「…どうぞ?」
決して自分から話そうとしないことを聞いてもいいのかと思ったけれど、どうしても気になったから問うてみる。
「…どうやったら、此処に落ち着けるの? …なんか、浩二くん、はなっから諦めてる風でしょ?」
まるで万に一つもその可能性がないみたいな言い方だから、どうして自分のことなのに期待も出来ないのだろうと思うのだ。もしかすると、地球は彼にとってそんなに魅力のないところなのかもしれない。だったら少しは気持ちが分かるけど。
「…自分でどうこうできることとじゃないから。…此処は、故郷の星と似てて良いとは思うけど、だから余計に、期待してて他に飛ばされたら、そのときショックかなって思うから」
だから、なんにも期待しないで居るの。
そうやって、やっぱり諦めたように苦笑する。それが少し痛い。
浩二の話が本当なら、自分の意思とは別に故郷の星から飛んでくるくらいだから、その地に落ち着けるかどうかなんて事だって人智を越えた力が及ぶのかもしれない。だからといって、全く諦めてしまうのは悲しくないだろうか。ましてやここが故郷の星と似ているのなら、これから居つくのだって住み易いはずだろうに。
「…自分で、なんか努力できることとか、ないの? 地球のこと、ちょっとでも良いって思ってくれてるんだったら、私も、協力できることあったら、するし……」
生まれ育ったここを気に入ってくれているのなら、里穂だって悪い気分ではない。ここは空気もいいし水も美味しい。第二のふるさとにするならもってこいだと思う。ますます地球をお勧めしたい気分になって、尚も言った。
「浩二くんの星ではどうか分かんないけど、此処には、『思いは叶う』って言葉があるのよ。…そりゃあ、なんでもかんでもは無理だと思うけど、カミサマはいろんな人の願いを聞いてて、どれかイッコは叶えてくるの。…浩二くんの星のカミサマに願うのは無理でも、ここのカミサマに願ってみても良いんじゃないかな…?」
最後まで言ってしまってから、少し必死すぎたか、と恥ずかしくなった。だって、あまりにも浩二が無言だったから。
「……浩二くん?」
出すぎたことを言い過ぎたのだろうか。それで、呆れてしまったのだろうか。沈黙が嫌で里穂は浩二に呼びかけていた。ふっと空気の揺れる音がした。微かに浩二が困ったように微笑ったようだった。
「…そんなに言ってくれるんだったら、ちょっとは『願って』みるのも良いかもしれないな」
少し気持ちが通じて嬉しくなる。けれどすぐに続いた、でも、という言葉にやっぱり気持ちがしぼんでしまう。
「…でも、気持ちはどうも出来ないから……」
そう言って里穂の瞳を真っ直ぐ見たかと思うと、また前を向いて、仕方ないんだっていうような表情になってしまう。
やっぱり、どんなに良い星でも生まれ育った星に比べたら見劣りしてしまうのだろう。遠く離れてしまった其処にだけ、浩二の気持ちがあるのだろうなと思うと、やっぱり里穂の言った言葉は出過ぎた真似だったかもしれない。
「……ごめんね、…勝手に意見押し付けて……」
少し項垂れてしまった里穂に向かい合って浩二が立つ。歩みを止めた浩二に、なに? と視線で問うと、浩二は少し言いにくそうに、でもちゃんと言葉を伝えてくれた。
「…里穂が、そう言ってくれるの、嬉しいから。どうにも出来ないとかもしれないけど、どうにかなるかもしれないって思ったし……」
どきっとした。
穏やかな声で、里穂、と呼ばれた。それが、耳の奥に馴染む。
思いのほか心地よく聞こえて、後の言葉を拾い損ねるところだった。反芻して、自分の気持ちを受け取ってもらえたことに、更に気持ちが満たされる。
「……うん。私も、カミサマに祈っとく。浩二くんが、此処に落ち着けますようにって」
里穂の言葉に浩二が優しく微笑んだ。ありがとう、と返されたことが尚嬉しい。
そのまま浩二が先に行く形で裏門を潜る。非常階段を上る浩二の肩の向こうに雲に囲まれた星があったけど、不思議とその背中が掻き消えてしまうとは思わなかった。
階段を上りきって屋上へ出ると緩やかに空気が流れていた。湿気を帯びたそれは決して心地よい風、とは言えなかったが、それでも真っ暗な闇の中で二人して立ち尽くしてしまうと動いているのは風だけだったから、それで時間が流れているのが分かる。
雲が、僅かの星空を覆いにかかっているように見えた。代わりに丘の下に広がる住宅街の灯火が夜の闇に瞬いている。
「…そっか。下にも星があったんだわ」
「…なに?」
呟きに浩二が問い返してくる。微笑って里穂は言葉を続けた。
「浩二くんが此処に落ち着くことが出来たら、遠くの故郷の星じゃなくて、地上の星の中に住むんだなあって思って。浩二くん、どっちにしろ『星の人』ね」
うん、星の人、っていうのは浩二にあっているような気がする。
自分の言葉に満足して里穂が笑う。それを見て、浩二も釣られたように微笑んだ。
「…じゃあ、オマエの星はどれなの?」
「どれだろう。暗いと分からないけど、ここからだとあっちの方に緑色の屋根が見えるの。二階建ての。それなんだけどなあ……」
屋上の柵から身を乗り出して東の方を指差す。コンクリートの陸屋根が多い近所の中で緑色の屋根は、高いところから見ると結構すぐに分かる。昼間だったらあれあれ、と言って示してやることが出来るのにな、と思った。
「…そっか。分かりやすいのは目印になって良いな。迷わなさそうで」
声が柔らかい。
迷わなさそう、と言ってくれたということは、浩二は里穂の家を訪ねてくれるつもりなのだろうか。根無し草のような彼が未来のことを考えてくれたことに少し嬉しくなる。視線を夜の闇から横に並ぶ彼に向けようとしたとき、急にざあっと風が渡った。
校庭の銀杏の木の葉がざわめく音が聞こえるような気がした。強い風に一瞬目を閉じて、次に瞼を開いたときには隣に居るはずの彼はそこには居なかった。
「……浩二くん…?」
瞬きをしても目の前にあるのは夜の闇に染まった屋上だけ。空は一面雲に覆われてしまっていて、一つの星も見ることが出来なくなっていた。
やがてぽつぽつと雨が落ちてきても、里穂はそこから動けなかった。
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