第6話
本当に地球の人ではないんだということを突きつけられたような気がする。
思い出したくなくて布団を頭の上まで引き寄せた。額からタオルが落ちてしまったので、布団が濡れてしまわないようにベッド脇の机の上にそれを置いた。
屋上で呆然としていた里穂の上に雨はやむこともなく降り注いで、漸く家に帰り着いたときにはTシャツも髪の毛も濡れそぼっていた。玄関が開いた音に出迎えた母親が、その濡れ方に驚いて慌ててタオルを持ってきてくれたくらいだ。
季節はずれの風邪はなかなか治らない。寝てばかりいるとあのことを思い出してばかりいるから、早く大学へも行きたいのに。
熱が下がらない。ぼんやりと霞がかかったかのような頭で考える。浩二はまた現れてくれるだろうか。もしかしたらもう他の星に引っ張られてしまったのかもしれない。地球にはもう戻ってきてくれないかもしれない。
折角、ちょっと話せるようになったのに。微笑ってくれるようになったのに。
どうにかなるかもしれないって、思ってくれたのに。
もう、会うことは、出来ないのかな。
脳裏に、やわらかな微笑が浮かぶ。耳の奥に、自分の名を呼んだ声が何度も聞こえて消えることがない。
ベッドの中で寝返りを打つ。心地いい寝場所を探そうとしてもなかなか見つけられない。自分のベッドなのに。
瞼を閉じて見ることの出来るのは、自動販売機の白い光に照らされた顔じゃなくて、暗い闇の中、星を背に立っている浩二だった。
星の光が古のものだというように、彼と会ったこともいずれ過去のものになるのだろうか。
「…………」
きゅっと体を縮める。
それは、すこし残念なような気がした。
意識が表層を漂っていた。水槽の中の魚のように、深く潜ることもなく、酸素を求めて水面へ出ることもなく。身を任せるそこは宇宙のように深い蒼で、でも、散りばめられているはずの星はない。
どこに根を下ろすこともできずに、ただ、漂う。気持ちのどこかにある不安は、地に足をつけることが出来ないからだ。
浩二も、あの寂しい表情の下にこんな不安を隠していたのではないだろうか。ここに落ち着くことが出来たのなら、自分がそれを取り除く手伝いがしてあげられたかもしれないのに。
もう、それも出来ないのだと、そう感じて寂しくなった。
深い蒼の中で思いが沈みそうになったのを浮上させたのは小さな音だった。聞こえてきたそれに向かって意識が浮上する。感じる色が深い蒼から一面の漆黒に変わったのが分かって緩く瞼を上げた。真っ黒い壁がその向こうにある薄い闇に領域を明け渡していく。眠りから覚めたのを自覚したとき、もう一度小さな音がした。
「……?」
音は窓の方から聞こえる。布団から上体を起こして、ベッドヘッドの向こうに引いてあるカーテンを自分が覗く分だけ開けた。
黒い闇の中に街灯の明かりだけが細々と灯っている。動くもののない住宅街の中でひとつ、動いた影があった。
窓に何か小さいものが当たって、こん、という音がする。当たったものは小さな石つぶのようだった。
動いた影の方へ視線を向けると、闇を切り裂くには弱い明かりの中で亜麻色の髪の毛が揺れていた。
「……浩二くん…」
熱でぼんやりする頭でも、その色を見間違えるはずはないと思った。その色は薄明かりの中でも綺麗に闇から浮かび上がっている。
里穂はベッドから飛び降りるとパジャマのまま部屋を飛び出した。
家族を起こさないように玄関のドアをそっと開ける。夕方まで降っていた雨は夜になってあがったらしく空から雫は落ちていなかった。黒い夜空のところどころで雲が切れて小さく星が光っている。
サンダルを引っ掛けて門を出る。間違いなく浩二がそこに居て、街灯の光に弱い影を落としていた。
「……浩二くん…」
褐色の双眸を見つめる。浩二は黙ったままで、声を発してもらわないと幻なんじゃないかと思えたから、もう一度名前を呼んだ。
「…うん、…緑の屋根は、確かに目印になったな」
一瞬何を言っているのか気付けなかったけど、すぐに屋上での会話のことだと分かった。話の成り行きで言ったことを覚えてくれていたのかと思うとそれも嬉しかったけど、今一番嬉しいのは、彼がこうして目の前に居ることだった。
「……もう、どっかに、引っ張られちゃったのかなって思ってた……」
里穂の言葉に気付いて、浩二はああ、という顔をした。
「…そんなに次々と引っ張ってくれる人が居たら、行き先にも困らなくて済むんだけどな」
そう言って苦笑する。という事は、他に引っ張る人が居なければここに居るという事だろうか。そう聞いたら浩二はもう一度苦笑いした。
「…ここに落ち着くための、チカラ、っていうのかな、…それが足りなかったら、やっぱり此処からも飛ばされるんだけど」
そこまで言って浩二は薄明かりの中、里穂の目をじっと見つめてきた。こんなことを話していても浩二の瞳は涼しげで、ちっともあがいたりしていない。
少しくらい、一生懸命になってくれたらいいのに。
本人よりも里穂の方が彼の行く先を案じているなんてオカシイ。どうにかなるかもしれない、とは思えるのに、どうにかなってほしい、とは思えないのだろうか。
「……どうしても、ここに落ち着きたいって…、そう思ってないからじゃないの? 絶対此処に住むんだって……、思ってないからそうやって諦めたみたいなことが、言えるんじゃないの…?」
こんな責めるようなことを言うつもりはなかったのに、多分まだ熱があるんだろう。頭がぼんやりしていて、慎むべきことの境界線が曖昧になっていた。でもそれは、本音に近い気持ちだったかもしれない。
「…じゃあ里穂は、……オレが此処に落ち着いたほうが良いって、思ってるの? ……なんで?」
問いが返ってきて驚いた。なんで、なんてそんなこと考えたこともなかった。ただ、此処はとてもいいところだし、浩二の故郷とも似ているのだったら、尚更落ち着くのに適していると思ったから……。
「…そんな、通りすがりの親切心で言われても、……困る。…こっちは、これから先ずっとのことが、掛かってるんだから」
階段が下りられない子供に手を貸すような気軽さなら、止めてくれ。
静かに言われて、頭を殴られたような気持ちになった。だって、困っている人に手を差し伸べるのは悪いことじゃないって思ってきた。今まで彼に対して心を砕いてきたことは彼にとって迷惑だったんだろうか。曖昧な、寂しさの顔の下にそんな気持ちを隠していたのだろうか。
急に突きつけられた浩二の気持ちに頭が混乱する。何と言っていいのか分からなくて、口だけが無意味に息を吐いた。肩が震えていたけど抑えられなかった。胸の内から湧き上がってきた感情だけが体の中に渦を巻いて、目の奥が熱くなったのが分かった。
堪えなければいけない。こんなのは自分の勝手な涙なんだから、浩二に見せていいものじゃない。
里穂はくっと目を見開いて口を引き結んだ。怒っているようにも見えるその表情を、でも浩二は的確に理解する。
「…なに、オマエ……」
浩二の声がかかって、それがきっかけだった。絶対絶対零してはいけないと思っていた雫がひとつだけ、眦から零れ落ちた。
ゆっくりと頬を伝うそれを、浩二の人差し指が拭う。微かに触れた頬の熱さに浩二は驚いた。
「…オマエ、熱あるのか?」
額に触れた手のひらが少しひんやりしている。その温度が、浩二が今、確かにここに居ることを伝えていて安心した。この先もこの人がここに居ればいい。そんなことを朧気に思っていたら膝から力が抜けていった。
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