第8話
強く降ったり弱く降ったり。とにかく梅雨だから雨のやむ日が少しもない。今度、なんて思っていてそれが何時まで経っても実現しないと少し焦ってくる。こうしている間にも浩二はどこかの星の誰かに引っ張られて飛んでいってしまうのではないかと、そんなことを考えるのだ。
それだけはイヤだ。だって里穂はまだ何も彼に伝えていないのに。
額に触れた浩二の手の感触をそっと思い出す。冷たい温度は時間が経っても忘れることが出来ない。
地球に落ち着いてほしいんだと、通りすがりの気持ちでそんなことを思っているんじゃないんだと伝えなきゃいけなかった。結果としてどこか別の星へ飛んでしまっても、里穂と会ったことを忘れないでほしいと言いたかった。だって、自分だけが覚えているなんて、寂しい。
今日もリビングでテレビを真剣に見ていた。地域の天気予報を祈るような気持ちで見つめる。
「今夜は織姫と彦星は会えるのかしらねえ」
のんきな声で母親がキッチンから声をかけてきた。そういえば今夜は七夕だったけど、そんなの里穂の知ったことではない。テレビの気象予報士が天気図を指しながら予報を伝えていた。
『今夜から明日にかけて一時的に雨がやむでしょう。所によっては雲が切れて織姫と彦星が見えるかもしれません』
あらー、良かったわねえ、なんて言ってる母親の言葉はそのまま聞き流した。所によって、の所であってほしいと里穂は思う。画面が切り替わる。三時間毎の予報図で日付が変わる時間に星のマークがついていた。
「やった!」
思わず声に出てしまった。キッチンから、そんなに織姫と彦星が会えるのが嬉しいの? と聞かれたけどそれには答えず、ちょっと出かけてくるから、と告げた。
「あらやだ、どこに? また夜遊び?」
ちょっと心配そうな彼女に、折角なので先程の話題に乗っておいた。
「七夕だし、星でも見ようかなって思って」
「あら、やだわ。何時の間に彦星が出来たの?」
ちゃんと紹介しなさいよ、という母親の言葉に驚く。まさかそんな勘違いをされるとは思っていなかった。
「違うわよ。いつもの屋上。…えーと、由香と一緒」
ちょっと嘘をついてしまったけど彼女の誤解を解いておきたくてそう言った。色気がないわね、と言われたことには笑って返しておいた。
リビングの窓を開けると雨はぱらつく程度になっていた。じきにやんで雲が切れるんだろう。そのときには屋上に居るようにしなくては、と急いで部屋を出た。
一応傘を持って家を出る。雨は気にならない程度だったので畳んだまま持って歩いた。空を見上げると確かに雲の薄いところがあって、多分そこから切れるんだろう。走るつもりはなかったけど、気持ちが急いていて自然小走りになっていた。
学校に着くと裏門からそっと入る。職員室にはやっぱり電気がついていて、里穂はそこから見つからないようにそっと非常階段へと向かった。
足音も忍ばせて階段を上る。雲はまだ星を隠したままだったから焦ることはなかったけど、なんとなく気持ちが前へ前へと出てしまう。だって、星が出るなんて何日ぶりだろう。
屋上に出ると辺りを見渡した。当たり前だけどそこには里穂しか居なくてちょっと肩の力が抜ける。星明りのない暗闇は浩二には似合わなかったからいいんだけど、真っ暗な闇の中一人で居るのは少し寂しい。
もう一度くるりと辺りを見渡して誰も居ないことを確認すると、鉄の柵に腕をかけた。持ってきた傘もついでに横に引っ掛ける。
そういえば、最初に浩二に会ったときもここでこうしてぼんやりしていた。由香と待ち合わせをしていて下道を覗いていたらいつの間にか後ろに居たのだった。
それから数えるほどしか会ってないし、それも夜の闇の中でだったけれど、自分でも驚くほど浩二のことを鮮明に覚えている。柔らかい亜麻色の髪の毛も、色素の薄い涼やかな瞳も、低い声も。それから手のひらがやさしい事だって知っている。それらは全て星の光に照らされたものだったしそれが似合っているとは思うけど、陽の光の下での彼はどんなだろうと思う。梅雨が明けて夏が来たら、まぶしい光の下で彼に会いたい。そう思った。
「浩二くん……」
呟いたのは自分でも意識していなくて、だから返事が返ってきたことに驚いた。
「…なに……」
はっと振り向くと、最初のときのように、暗がりの中浩二が佇んでいた。低い声はあの時と同じ。雲の切れ間から覗く星の光もあの時と同じように煌いていた。
その様子が夜の闇のようで里穂はこの前の浩二の言葉を思い出す。それに心が震えるのを堪えて必死で口を開けた。
「浩二くん、……私、浩二くんに会って、ちゃんと言っておかないといけないことがあって…」
ちょっとずるいかもしれないと思いながら、浩二が拒絶の言葉を零すより先に話しかけた。自分のことを気にかけてくれているのだったら、そんな心配は要らないのだと言わなければいけなかった。
「……私、確かに浩二くんが此処に落ち着くためにはなにもしてあげられないかもしれないけど、…だけど、折角こうやって会えたんじゃない。此処での時間が楽しかったって、そう思ってほしい…。もし、…もしも浩二くんがこの先どこかへ飛んでいってしまっても、此処に居て楽しかったって思っていて欲しいし…、私も楽しかったって覚えていたいの……」
だから関わるな、なんて言わないで。
そう言おうとした時、浩二の瞳が見開いたのが分かった。とても、驚いたみたいに。
「……浩二くん?」
ぽつりと呟くように問われた声は聞き取りにくかった。もう一度問うと、少しの沈黙のあと、再び声が聞こえた。
「…楽しいんだ?」
「え?」
「…オマエ、オレと居て、楽しいんだ?」
そう言って見つめてくる。色素の薄い双眸が何だか必死に見えるのは思い違いだろうか。
改めて言われると何だか照れるけど、ウソじゃないからこくりと頷く。
「楽しいし、…浩二くんが居てくれたら、嬉しいわ。…本当に浩二くんが此処に落ち着いてくれたら良いなって思ってるの……」
「…うそ……」
本当に驚いているらしい。目が見開いたままだし、口もぽかんと開いている。
「なんで嘘なのよ」
「…だって、オマエ、言ってみればオレなんかエイリアンだぞ? それを、オマエ……」
言う言葉が力ない。こんなことを言われるなんて思ってもみなかったのだろうか。自分の気持ちを疑われて、里穂は少し口を尖らせる。
「そんなの、仲良くなるのに関係ないじゃない。それに、浩二くん、見たカンジ、私たちと変わらないみたいに見えるし、もう普通に人間の友達みたいなのよ」
里穂の言葉が信じ難いらしく、浩二はしきりに、えー? とか、うそー、を繰り返している。その様子が、今までのどこか諦めてしまっていた雰囲気とは全然違って、普通の、年相応の(浩二の年が里穂と同じであれば)青年に見える。笑って怒って悩んで悲しむ、そんな普通の人間のように。
あまりにそんなことを繰り返すものだから里穂も可笑しくなってしまう。なんて顔してるの、と笑ったら、また驚かれた。
「…そんな、笑うほど楽しいか?」
やけに神妙に聞かれて、でも笑いが止まらない。
「そりゃあ、それだけ言ってたら可笑しいわよ。浩二くん、きりっとしてたらカッコよくてモテるかも知れないけど、この路線でも結構笑いは取れると思うわ」
そのときは私がツッコんであげる、と言ったらまた笑えてきた。ひとしきり笑って、その間浩二はやっぱりぽかんと里穂を見ていた。
「ね? だから、仲良くしよう? それで、もし飛んでしまっても私のこと忘れないでいて? 飛ばなくて此処に落ち着けたら、もっと仲良くしてくれたら良いから」
その言葉に浩二は里穂の瞳をじっと見つめた。真っ直ぐな視線を正面から受け止めてしまって少しどきっとする。綺麗な瞳だ。すごくそう思った。
「…そうだな。オマエが笑ってくれるんなら、それも悪くないかもしれない。…オマエ、笑った顔、すごくキレイだわ」
………………。
頭が真っ白になる。
なんですか? その口説き文句みたいな台詞!
うわーっと言葉が頭の中を駆け巡ってパニックになる。
「こ…っ、浩二くん、言う相手を間違えてる! そういうのは私みたいなのに言うんじゃないの! もっと可愛い子、見つけなさい!」
声がひっくり返る。
もしかして浩二の星では普通の会話かもしれなかったけど、そんなことまで頭が回らなかった。だって今ここは地球で里穂の街で、面と向かって言われたのは里穂なのだから。
耳に熱が集まるのが分かった。頬も真っ赤になってると思うけど、多分この暗がりでは浩二にそれは気付かれていないと思う。
そんな里穂の動揺をものともせず浩二は続けた。
「…そうだった? でも、ここの陽の光は見たことないけど、オマエ笑ったのなんて、多分そんなカンジだろうなって」
ああ、ダメだ。こっちの方向の話を引きずっちゃダメだ。無理やりに話題転換を試みた。
「太陽! 見れば良いじゃない! 今は梅雨だから駄目だけど、夏が来たら太陽眩しいわよ。影なんか真っ黒だし」
そう言ったら、浩二の表情がちょっと戻った。やっぱり少し諦めているような、そんな顔。
「…オレは、まだここに落ち着いたワケじゃないから、昼間はここに居られないんだ。…星の光が届いてる間だけなの」
さあっと風が吹く。銀杏の葉が揺れてそのさざめきが微かに聞こえた。いつの間にか雲は随分千切れていて、空の、星が瞬く面積が広がっていた。
今年の織姫と彦星は今頃逢瀬を楽しんでいるのだろう。そんなことを頭の片隅で思った。
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