第3話




少し湿気を帯びた風が通り抜けていく。そろそろ爽やかな季節も終わりなのか。やがて突入する梅雨にちょっと気持ちが重たくなってしまうのは仕方のないことだろう。里穂は人通りの少なくなった住宅街の細い道をゆっくり歩いていた。空にはグレーの雲が浮かんでいて、僅かばかりの月明かりをより薄くしていた。星も、昨夜のようにすっきりとは見えなかった。


呼ばれたように、という訳ではなかったけど、なんとなく夜空を見上げた。弱い輝きの小さな星々が、それでも己の存在を確かめるように瞬いている。


ふと、昨夜の異邦人を思いだした。


彼はこの地球で故郷の星をどんな思いで見上げるのだろう。ふるさとに根を下ろした自分には想像もできない。


ぼんやりと上を見上げていたから、電柱の影に人が立っていたのに気付くのが遅れた。一歩、足を進めた人影にはっとする。


「………っ、…なんだ、あなたなの」


「…帰るの?」


まるでご近所さんのような言葉を交わした。帰るのか、と聞いたということは、彼はこの近くに里穂の家があるのを知っているということだ。少し眉が寄ってしまったのが分かった。


「…ついてくるの?」


「…そういうわけじゃないけど……」


里穂についてくるでもなく、この場に佇むわけでもないのだとしたら、彼は何処へ行くというのだろう。この地上に、彼の行きたいところがあるのだろうか。


でも、それを聞くより先に、由香と共通だった疑問を投げてみた。


「……昨夜、私たちが帰ってからどうしたの?」


「…なに、気にしてくれるの?」


街頭の明かりの下、彼が薄く笑ったように見えたので慌てて付け加えた。


「由香が、気にしてたから…。あの子は、貴方のこと、心配みたいだから」


「……オマエは、違うの?」


それは勝手な言い分だ。突然現れた理由を自分の所為にされて、浮かれる人はそういないと思う。


「なんで、私が貴方のこと、心配しなきゃいけないのよ」


「……そうだな…」


少し視線を外された。薄暗がりの下では、その瞳の表情も分からない。微かに俯く動作に、亜麻色の髪の毛が揺れて月の明かりを弾いた。


僅かの光を眼が追いかけたとき、里穂の後方から車が一台走ってきた。ヘッドライトが暗がりを切り裂いてくる。里穂は車を避けるために道の脇へ寄り、浩二は里穂に場所を空ける為、一歩足を引いた。


白い車体が行き過ぎる。車が去ったあとも、二人して足が進まなかった。まるで、ちょっと立ち話、という状況だ。


気まずい沈黙が落ちる。だんだん闇も濃くなって、街灯の明かりに影が浮き上がる。前髪の影が丁度目の辺りに被っていて、明かりの許に移動したというのにやっぱり表情が分からない。


分からないことは知りたくなるのが人の気持ちだと思う。何も話しかける言葉を持たなかったのに、里穂は彼のことを呼んでいた。


「…浩二、くん…」


呼びかけに、彼は素直に応じた。ひたと見つめてきた彼の瞳を、初めてまともに見返す。


随分と涼しげな瞳だ。黒目がちなのが少し印象を柔らかく感じさせる。やっぱり少し色素が薄いだろうか。幾分澄んだ感じのする瞳を素直に綺麗だと思った。


じっと里穂の言葉の続きを待っている様子は忠犬のようにも思える。自分の考えに少し吹き出しそうになってしまった。


「…なに?」


「…違うの、何でもないの。…貴方、行く当てあるの? もし良かったら、ちょっとくらい付き合って、この辺案内してあげても良いわよ?」


犬のよう、と思ってしまったら、なんだかするりと言葉が出た。里穂の申し出に、浩二は少し驚いているようだった。きょとんと見開いた目を、答えを窺うように見つめていたら、里穂の目線の先で切れ長の双眸が柔らかくカーブを描いた。


「……………」


……びっくりした。


微笑(わら)うと、こんなにも印象が違って見える。夜の闇にしか染まらないかと思っていた瞳が、まるで春の日差しに温んだ泉のように柔らかだった。


こんな風に微笑えるんだったら最初からそうしてくれたら良かったのに。そうだったら少しは警戒心も薄らいだはずなのに。


そんな風に考えていたから、浩二が応えを返してきたのに返事が遅れた。


「あ、ゴメン。なに?」


「…や、それじゃあ、お言葉に甘えようかな…って」


少し嬉しそうに見えるのは、気のせいかしら。


ふっくらした唇から聞こえる低音が耳に馴染む。里穂が足を進めると浩二も気付いて後をついて来た。街灯に伸びた影を並べて夜の住宅街をゆっくり歩く。足音はアスファルトに吸い込まれていた。


「……行きたい所とか、あるの?」


ちらりと横の様子を窺って聞いてみたら、どこでも、と答えが返ってきた。


「…あの屋上が分かるトコだったら、何処でも構わない」


「屋上? ガッコの?」


「…そう。あそこは空に近いから」


空に近いということは彼の故郷にも近いということか。里穂は雲のかかった夜空を見上げた。


ちらちらと瞬いている細かい光の粒は、もう送り出してしまった彼を受け入れてはくれないのだろうか。決して帰れない故郷をそれでも思って、この人はあの屋上にこだわっているのだろうか。


「…ホントは飛びたくなかったんじゃないの?」


屋上を気にかける浩二を、里穂はそんな風に思った。気持ちを置いてきているから、飛んできてしまったことに寂しそうな顔をしてたんじゃないのかと思えたのだ。それなのに浩二は、そうでもない、と平坦な声で答えた。夜風がさらりと彼の髪を揺らした。


「…飛んでも飛ばなくても、どっちでも良かったと思うけど。…飛んで、上手いこと落ち着く先があるとも限らないし。…何回も飛んで、結局どこにも行けないんだったら、星と一緒に寿命を迎えても同じだからな」


そこまで言って、浩二は言葉を切った。それにつられて里穂が彼のほうへ視線を向けたら、浩二も里穂のことを見つめてきた。ちゃんと見つめ返すことで続きを促す。


「…でも、結局飛んだってことは、どっちかってと飛びたかったんだろうな、そんときは」


 低音が闇に溶けていく。


里穂に答えた、というよりも自分で確認しているような声だった。


「そのときは…? じゃあ今はやっぱり、飛ばなかった方が良かったって思ってるんじゃないの?」


「…どうだろ。上手いこと此処に落ち着いたら、飛んで良かったって思うんじゃないかな」


浩二の背後で小さな星が回っている。先刻の柔らかな雰囲気は消えて、夜の闇に吸い込まれるようだ。どことなく根無し草のような言葉にちょっとひやりとする。上手いこと落ち着けなかったらどうするのだろう。疑問が素直に口に出てしまった。


「…どうもしないけど…。また引っ張られるか、そこら辺飛んでるか、…そんなトコじゃないかな」


自分の未来を、随分他力本願に語るなあと思った。里穂も、特に確固たる未来を思い描いているわけではないけれど、それでも四年間は大学で学んで、ちゃんと就職をして稼いで親を安心させるのだと思っている。そうしていずれは大切な人を見つけて、共に歩んでいけたらと考えているのに。


「…オレも、自分の星に居るときはなんとなく将来のこととか考えたりもしたけど。…でも、飛んじゃったから、それも叶わないしな」


「将来? どんな?」


「……、別に普通じゃないか? オマエと多分そんなに変わらんと思うよ」


思うことはごく平凡な幸せくらいだ。それすら叶わなくなってしまったら、里穂も浩二のように言っているだろうか。


彼が物悲しい瞳をしていても、仕方がないのかもしれない。


「……ここで、落ち着けると良いね」


そうなることで、先刻みたいに微笑えたらいいと思う。多分、浩二だって故郷の星では、いつもあんな風に微笑っていたのだろうから。


そう思って言ったら、また驚かれた。


「…胡散臭いって思ってたんじゃなかったの?」


初対面のときから思っていたことをずばり言われて少し慌てる。浩二は苦笑していた。


「や、…だって、登場の仕方が怪しかったじゃない。イキナリ意味不明のこと言うし……」


 里穂の言葉に浩二も、あー、と唸る。


「…オレも、飛んだ、ってことにちょっとびっくりしてたからな。…まあ、確かにイキナリだったな。悪かった」


謝られたことに少し照れる。そんなことを言ったら、あのときの自分の態度も相当悪かったはずだし。


「そんなん、…私も、めちゃくちゃ敵意剥き出しだったし…、こっちこそ、悪かったわね」


お互いの謝罪を、うん、という短い言葉と少しの笑みに乗せて落ち着かせた。ああ、なんだかこうやって微笑みあってしまうと、隣同士で歩くこの空間が心地よく感じられてしまうから不思議だ。


そんな気持ちのままぶらぶらと歩いていたら、小さな公園に突き当たった。ブランコとすべり台と砂場くらいしかないその公園は、昼間は近所の子供連れが集まる場所だった。少ない樹木がそれでもそこの空気を清涼にしている。なんとなく足を踏み入れた。


「…こういうトコで遊んだりしたの?」


小さな遊具を見ながら浩二が問う。里穂の幼い頃の記憶には、勿論公園の砂場ではしゃいだ思い出だってある。滑り台は子供心に高いところだったので、苦手だったように覚えているけど。


「そうだなあ。普通に遊んで得たんじゃないかなあ。…浩二くんは?」


「…どうかな…、あんまり覚えてないかもしれん」


そう言って、公園の真ん中ほどに位置する滑り台へと歩み寄っていく。子供用に作られたその階段は大人の浩二には小さいはずだったけど、それを器用に上っていく。てっぺんまで上って空を仰いだ。下からその様子を見上げる里穂には、浩二の表情は分からない。何を思って星を見つめているのだろうか。やっぱり自分の星を探しているのだろうか。


「…浩二くん」


呼んだら、台の上から浩二が振り返った。小さな星をちりばめた夜空を背に立つその姿はやっぱり彼の雰囲気に合っていて、このままどこかへ引っ張られて消えてしまっても不思議じゃない気がした。


「…なに?」


「…自分の星、分かるの?」


里穂の言葉に、浩二はもう一度空を仰いだ。


「…どれだろ。方向が分かっても遠いから、どのみち見えないんじゃないかな」


「そう…」


その返事に、里穂は浩二の中を通り抜けた寂しさを感じ取った。故郷が遠く離れて分からなくなる。それは里穂には想像の域を超えないけれど、でも切なくて寂しい気持ちはきっとあるだろう。そう思うから、やっぱり浩二がここに落ち着けて、そしてここを新しい故郷に出来たらいいんじゃないかなとも思う。


「…本当に、ちゃんと落ち着けると良いね」


もう一度言ったら、今度は少し微笑ってくれた。その微笑みがなんだか柔らかで、背後の星空から切り取られたようにそこにあったから、里穂は改めて彼が暗闇の中じゃなく目の前にいるのだと感じた。




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