第10話




梅雨前線は相変わらず停滞していた。雨のカーテンが視界を遮っていて、五メートル先だって霞んで見えるくらいだ。今日も家の門を出て東へ向かう。駅までの道はサラリーマンや学生達が里穂と同じように傘で雨を避けながら歩いている。里穂も少し小さい折り畳み傘の中で何とか雫を避けながら、今日も降り止まない雨の中を急いだ。


お気に入りだった傘は、あの日、屋上に忘れてきてしまった。あの日以来雨も降り続いているから、もともと天文部が観望会のときくらいにしか屋上を訪れる人はいなかったし、多分今も鉄の柵に引っ掛かったままだろう。忘れたことに気付いてすぐに取りに行けばこんな不自由はしていないけれど、どうしても屋上に足が向かなかった。


雨が続いているから、勿論星も出ていない。星の光が届かないと地上に居られないと言った浩二とは勿論あの時以来会っていない。


……会っても、何を話したらいいのか分からない。


あの時渇望してしまった願いは今も里穂の胸の内にあるけれど、それは言ってはいけない気がした。


驚いた顔をしていた、あれが多分答えのような気がするから。


「……………」


こんな風に彼を想うなんて思ってもいなかった。突然襲ってきた波は里穂の中の僅かの水溜りを簡単に溢れさせて、そして乾くことをさせてくれなかった。


力が足りないと言っていた。


いつか浩二が他の星へ飛んでいってしまって、そうしてもう二度と会うことも叶わなくなったら、この溢れてしまった気持ちは乾いて無くなってくれるだろうか。そうであってほしいと願う。この地球から消えていなくなってしまった人を想い続けていくことは、寂しがり屋の自分にはきっと、辛い。


かといって、此処に落ち着かれても、何かの拍子に気持ちを吐露してしまわないとも限らない。自分はそういうことを上手く隠せるとは思っているけれど、あんなにただの親切だと思っていた自分の気持ちが一瞬でひっくり返ってしまったことを考えると、どんな些細なことから浩二がこの気持ちに気付いてしまうかという可能性だって否定できない。


そう考えると、今のまま、やがて浩二が自分じゃない他の誰かに引っ張られて地球からいなくなって、梅雨の雨が夏の太陽に乾くようにこの気持ちが消えてなくなるのを待つしかないのだ。


出来れば、浩二が消えていなくなってしまうまで雨が降り続いてくれたらいいと思う。


星が出てしまったら、もう探しに行くことはないけれど、彼を想う気持ちばかりが溢れてしまって、きっと辛い夜を送らなければいけないだろうから。


幾分小さな傘を翳しながら、里穂は意識を日常の時間へ投じていた。




「里穂、おはよう」


そういえば、今日は水曜日だったか。由香の声を聞いて漸く思い出す。昨夜、今日提出のレポートを必死で仕上げたというのに。


「おはよう。相変わらずよく降るね」


「本当ね。もうダムも貯水量満杯だって言ってたから、そろそろ梅雨明けしてほしいよね」


雨が止んでしまうのはちょっと困るな、と思いながら曖昧に頷く。由香はその様子に気付かなかったようで会話を続けてきた。


「そうや、里穂。いっこ下の天文部の人たちが梅雨明けに観望会やるんだって。もし暇やったら行ってみない?」


「梅雨明け後? そっか、高校もその頃は夏休みだもんね。…良いわよ、部外者が行っても良いんだったら、行くわ」


「大丈夫よ。私も天文部だった平田さんから誘われたの。よく顔出してたから、私たち準部員、って扱いみたい」


笑って由香が言う。里穂も笑ってそれに応えた。


「じゃあ、傘はその時で良いか」


良い「ついで」が出来たと思った。仲間で騒いでしまえば屋上へ行く道すがらも、屋上に着いてしまったときも、浩二のことを考えなくて済むかもしれない。そんなことを考えてしまうこと自体がもうダメだということには気付かなかいフリをした。


「傘? 傘どうしたの?」


里穂の言葉に由香が聞いてくる。やなこと言わせるなあ、と思ったけど由香に非があるわけではないので仕方なく答えた。


「ちょっと前に屋上行ったの。その時に気に入ってた傘持って行ったんだけど、忘れてきちゃってさ。おかげで今は折り畳みのお世話になってるの」


左手に持っていた折り畳み傘を示して見せた。由香も、折り畳みじゃこの雨の中ツライでしょ、と言ってきた。


「んー、でも、アレ気に入ってたし、今のところこれでしのげてるから。コンビニ傘でも買おうかなって思ったんだけど、お母さん傘が無駄に増えるの嫌がるから」


ただでさえ姉が服に合わせて色柄を変えて持っていくので傘立てはいっぱいなのだ。これ以上傘は増えてほしくないというのが主婦の気持ちらしい。


「そっかー。お母さんの気持ちも分からなくもないわ。私も傘立ていっぱいでちょっとむかついてるところだし。…でも、折り畳みで不便じゃない? 取りに行ったら良いのに」


由香の言葉には苦笑するしかない。確かにこの土砂降りの中を毎日折り畳み傘でなんて、とても不便だ。


「んー、なんだか、機会逸してて……。だから、観望会のときだったら忘れないかなって思って」


言い逃れようと思った里穂に、由香は、あ、分かった、と笑いながら言った。


「見回りの先生が怖くて行きにくくなったんでしょ。あんなの夜中に裏門から入ったら分からないって」


なんなら、私、ついて行ってあげようか?


そこまで茶化されて、でもいい、とは言いづらくなってしまった。結局、別に怖くないもん、じゃあ、今日取りに行く! とつい言ってしまった。仕方ないから私もついて行ってあげるわ、と言ってくれた由香の、他意のないその言葉が少しありがたかった。




その夜、コンビニの前で待ち合わせた二人は傘を並べて高校への道を歩いていた。一人で歩いていたらきっと浩二と歩いたことを思い出して悲しくなっていただろう道を、由香と喋りながら歩くことで切り抜けていた。


グラウンドの隅の裏門からそっと敷地に入る。今日は職員室に明かりは灯っていなかった。難なく非常階段まで辿り着いて屋上へと上る。


「ってか、先生居ないんだったら、私来なくても良かったね」


「ううん。その間くだらないこと話せて楽しかったし…」


「そうね。大学違っちゃったから、喋らなくなったもんねえ」


久し振りの気のあう会話に心が和む。いつか四六時中こんな穏やかな気持ちになるんだと、そんな風に思った。


非常階段を上る。屋上に取り付けてある階段との境の扉に手をかけた由香が、あれ? と呟いた。


「どうしたの?」


「うん、鍵が開いてたの」


見ると、金具を捻ってクロスさせるだけの簡単な鍵だったけど、それが挿入口に平行になっている。


「見回りの先生が鍵忘れたのかな?」


という事は、里穂の傘は見つけられて忘れ物として職員室に保管されてしまったかもしれない。急いで屋上へ入って鉄の柵を見渡してみたけれど、思ったとおりやっぱり傘はなかった。


「あーあ。職員室には行けないなあ。部外者が入りましたって言いに行くようなもんだもんねえ」


由香がとても残念がってくれたので、かえってあの傘を諦めることができる。


「良いわよ、由香。忘れた私が悪いのよ。傘は新しいのを買うわ。本数が増えるんでなければ、お母さんも仕方ないって言うだろうし」


そう? と気遣わしげに聞いてくれる由香に、うん、と答えて屋上を後にした。いつもどおり、鍵はちゃんとかけておいた。





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