第11話
そうして、明けない冬もないし明けない梅雨もないわけで。
梅雨明け宣言がされてから最初の土曜日に、在校生主催の観望会は実施された。在学時からちょくちょく顔を出していたおかげで顔を知っている後輩がほとんどで、大学に入ってから交わしていた背伸びをした大人っぽい会話ではなく、久し振りに高校生ベースの会話をした。
確かに目的が星を見ることだったから、満天の星空を見てしまうとどうしても浩二のことが思い出されて仕方なかったけど、それでも一人で思い出してしまうのとは随分気持ちも違う。気を遣わない、遣われない会話に、時間が過ぎるのも忘れて、望遠鏡そっちのけで話をしていた。久し振りに、浩二のことを悲しく考えないで済んだ夜だったかもしれない。
梅雨が明けてから最初の水曜日。眩しい朝の光に起こされて、いつもより十五分早くベッドから降りた。いつもより十五分早くに朝食を食べ、いつもより十五分早く仕度を終える。
そのままリビングでテレビでも見ていようかと思ったけれど、たまには一本早く行って朝の大学でも満喫してきなさい、と母親に急かされてそのまま家を出てしまった。
今日は駅で由香と喋れるチャンスだったのに、そんなことをしたら由香と行き違ってしまう。追い出されて仕方なく夏の容赦ない太陽が照りつける道を歩いているけれど、こうなったら早く駅の建物の影に入ってホームで由香を待っていよう。そんなことを考えた。
蝉の声が鼓膜にうるさいったらない。照りつける日差しに足元の影は濃くなって、不意にここには居ない人に言った自分の言葉を思い出してしまう。
『夏が来たら太陽眩しいわよ。影なんか真っ黒だし』
確かに、自分は彼に向かってそう言った。あの時はそれを一緒に見ることが出来たらどんなにか嬉しいだろうにと思ったのだった。そして、その気持ちは今でも変わらない。それなのに、彼が居ない夏を、それでも彼のことを想うことは止められずに、せめて考えることを避けるようにして迎えている。
胸の内に息づく彼が、里穂の中から消えてくれるには後どれくらいの時間が必要だろう。それまでは、見て見ぬ振りを通さなければいけないのだ。彼が、どこの誰とも知らない存在に引っ張られた今なら、尚更。だって、梅雨明けして空一面に星が瞬いた夜にも、彼は里穂の前には現れなかったのだから。
「…………」
住宅街の植え込みが黒くその影をアスファルトに落としている。せめてもの涼をそこに求めるように、影を辿って里穂は駅までの道を歩いた。
同じ方向へと歩く人が駅に近づくに連れて増えていく。やがてこの人たちも駅舎に飲み込まれるんだと思ったら、なんだか仲間意識がわいてしまった。
駅の一本前の大通りを渡る信号が赤になった。照りつける太陽に、ここで信号待ちはちょっとキビシイな、なんて思いながら、首に伝う汗を拭う。同じように信号待ちをしているサラリーマンも手で顔を扇いでいて、ネクタイを締めた首元がいかにも暑そうだ。
容赦ない朝の照り付けの中、もう十分待っただろうと思える頃、里穂は視線を足元の黒い影から大通りの向こうにある駅舎の方へと転じた。
横断歩道の向こう岸には、この駅で降りて丘の上の高校へ行くのか、カッターシャツやセーラー服の学生が数人。
そして。
ピッポ、ピッポ…、と横断歩道が青になったサインがスピーカーから流れる。
横一列に並んで待っていたサラリーマンや学生達が一斉に横断歩道を渡り始めても、里穂はその場を動けなかった。
対岸から、学生達に混じって手に棒のようなものを持って歩いてくる人影。
容赦ない夏の日差しを、亜麻色の髪の毛が弾いている。光の粉がまるで彼の周りに纏わりつくように輝いて見えた。
目に映る景色が、瞬きをしたら消えてしまいそうでそれすらも出来ずに、ましてや横断歩道へ一歩も踏み出せないでいた里穂の方へ、その人影は迷わず進んでくる。
蝉の声が耳にやけに纏わりつく。横断歩道の音も車のエンジン音もそれにかき消されて聞こえることがない。蝉の声だけが太陽の光を白く輝かせている。
やがてスピーカーから音楽が鳴り止んで、横一列に並んでいた通勤の人たちもいなくなってしまってから横断歩道を渡ってきていた人影が里穂の目の前に辿りついた。
「……夏の太陽が眩しいって、言ってたから……」
その日差しを見てみたくて、という彼の言い訳はもう聞こえていなかった。だって、彼の視線は、太陽なんかには目もくれないで真っ直ぐに里穂のことだけを見ている。
「……、…………っ」
浩二くん、と。
歪む視界、熱い塊が塞ぐ喉を制しての、それが精一杯の呼びかけだった。それなのに、浩二は尚も照れたように手に持っていたものを翳して見せるのだ。
「…傘……、忘れてっただろ……?」
困ったように微笑っているのは、きっと自分の顔が歪んでいる所為だ。涙を堪えているのなんかきっと彼は分かっているに違いないのに、その訳が自分だなんて思ってもいないんだろう。そんな遠慮なんてもう要らないのに。
繋ぎ止める力が足りないんだと、あの時浩二は里穂を見つめて言った。
あの時に満ち足りていなくて、今胸の内に溢れているものといったら、浩二がここに存在していてほしいという強い強い想いだけ。
今は、それが彼を夏の日差しの中に存在させる理由にしていたいし、きっとこれから先ずっとそう思っていけるだろう。
そして、彼もそれを感じているに違いなかった。だから迷わず夏の日差しの中こうやって里穂のところへ来てくれたのだろうから。
「……浩二くん…っ」
もう一度、呼んだ。堪えきれない想いは雫になって零れてしまったけど、それも構わない。溢れてしまった気持ちごと、彼が受け止めてくれると信じているから。
「…里穂……」
少し躊躇する言い方は最初から変わらない。それだって、これから先の時間の中で変えていける自信はあった。奇跡にも近い確率で呼び合った二人なのだから。
三歩先で浩二が腕をちょっと広げてくれた。涙が零れるのも構わず、そこに飛び込む。
夏の日差しにしっとりと濡れた肌の匂いが心地いい。そっと抱き締めてくれた力に身を委ねた。
もう、清涼なだけではない彼がここに居る。
二人の足元には、真っ黒な影が落ちていた。
雨の星、夏の空に 遠野まさみ @masami_h
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