こぉる・おぶ・どすこい!~両国の呼び声~

海野しぃる

ふときものども

「聞こえているか? 今、ボイスレコーダーに音声を収録している。運が良ければこの声が君たちに届いていることだろう。亞堕アダ地区は既に半魚人の群れによって既に壊滅状態だ。もうじき自衛隊も出動するだろう。だがその前に、私は責任をとるつもりだ。事件は間違いなく隠蔽される。しかし全てが終わった時、真相を究明するための手がかりとしてこの記録を遺したい」


 私が気づいた時には全て遅かった。

 燃え盛る町、異形の怪物と化して日常を陵辱する昨日までの隣人。

 そういった物を眺めながら私は歩きはじめる。私は彼らに敵として認識されていない。もう、同じ化け物だからだ。

 

「私の所属する亞堕アダ地区立衛生研究所では、すぐそばの蜷川区で採取された魚類に感染するウイルスの研究を開始していた」


 幼い頃に自慢だった白い肌にはビッシリと鱗が生え、首にはもうエラができている。この調子だとすぐに彼らと同じ怪物になることだろう。


「しかし、昨今の科学研究費を出し渋る政府の方針によって管理体制はずさん。このウイルスを国立の感染症研究機関へ一部譲渡する際に悲劇は起きた」


 喉が苦しい。この暑い六月の大気の中で、異形の怪物になっていく私には、もう肺を使うことさえ難しくなってしまっていた。


「ウイルスは研究所で保管される間に変異していた。そしてそれが本来想定されない空気感染というルートで流出してしまった」


 私の足は自然と川の方へ向かっていく。帰りたい。水の中に、川の中に、海の彼方に。呼んでいる。いと高きお方が、ほまれあるお方が、私たちを永遠の王国に。


「馬鹿な、って思うだろうかな? でもね。研究室で培養や保管ができるウイルスって案外少ないの。細胞、細菌、いろいろな病原体はあるけど、人間に管理できる自然なんてほんの一側面でしかないの。しかもちゃんと保管した筈のゴホッ……失礼、息が苦しくて。保管した筈の病原体が何故か変異していることだってあって、それが何故か今回は致命的だったってだけ」


 橋の上までたどり着いた。あとは昨日からの雨で増水した川の中に身を投げ込むだけ。子供の頃から、お嫁さんになるのが夢だった。なんかノリで駄目な感じに大学院まで進んで、やりたいこともできなくなって、何のために生きていたんだろう。あのお方に仕えて一人でも多くの子供を。違う、これは私の意思ではない。私の意思は。あのお方って誰? 知らない、知らない話が頭の中に溢れてくる。


「だから、今回は政府と研究所、双方のミス。新種の病原菌に対する対策を怠ったのは政府と亞堕アダ地区立衛生研究所。彼らはまだデータを持っているはず。何としても公開させて、次の悲劇の……ッ!」


 私は咄嗟にボイスレコーダーを投げ捨てる。今、私は何をしようとした? 鱗の生えた太く醜いその腕で、ボイスレコーダーを握りつぶそうとした。

 ああ、もう一刻の猶予もない。


「ごめんなさい。さようなら」


 私は橋の上から亞良あら川に身を投げた。

 高く上がった水柱。生ぬるい水の感触。ああ、水中に身を投げたと思えないくらい呼吸が楽だ。頭の中が透明になっていく。私はきっと、最初からここに帰ってくる運命だったんだ。もう終わっていい。遺すべき手がかりは遺した。考えることはやめにしよう。獣になろう。そして、きっとあとは、私じゃない誰かがこの惨劇を――


「……こい」


 声だ。


「……こい……すこい」


 水流の中で、私の思考を妨げる。


「……すこい! どすこい!」


 闇に落ちていく私の自我を繋ぎ止める野太い声だ。


「どすこい! どすこい! どすこい! どすこい!」

「――力士!?」


 思わず目を見開いた私の腕を、醜く変化した私の腕よりなお太く逞しく鍛え抜かれた腕が握りしめていた。


「どすこい! どすこい! どすこい! どすこい! どすこい! どすこい! どすこい! どすこい!」


 私の腕を力士が繋いでいる。一人、二人、三人、およそ二十人の力士がロープのように手と手を繋ぎあい私を離すまいと手を繋いでいる。

 先程から聞こえるこの声は、たった一人のものではなかった。住民の多くが怪物に堕したこの地獄の中で、それでも命を繋ぐことを諦めない二十人の力士たちの魂の歌だった……!


「なんだ? この声は、私の帰りを邪魔する、耳触りな、声は?」


 だけどもう遅い。私は向こう側に行くと決めた。あのお方が待っている。この川を下った先に、遥かなる深淵の向こう側に。

 亞良川の流れから、すっかり異形に変わった同胞たちが私を迎えに来る。

 その数もまた二十人。

 これで私を通じた綱引きになったわけだ。


「どすこぉい! どすこぉい! どすこぉい! どすこぉい!」


 しかし、勝負は明らかに我々の形勢不利。力士が私の腕を引き上げ、川面への距離が次第に近づいていく。


「どす、こぉい! どす…こぉい! どす……こぉい! どすこ=ぉい!」


 頭が割れるように痛い。川の中から現れた同胞の半魚人たちは力士ロープへと襲いかかる。お豆腐のようにむっちりソフトなボディはその実莫大な量の筋肉の塊。力士ロープは私たちの攻撃を受けても傷一つつかない。

 いや、それどころか。


「どすこ=ぉい! どすこ=ぉい! いぉーっ! どすこ=ぉい! どすこ=ぉい!」


 彼らが踏み鳴らす四股の音色に、私たちの身体を包み込む鱗がゆっくりと剥げていく。我々の神からの祝福が、印が。先程まで楽だった呼吸も、今は少しだけ苦しい。

 水面から見上げれば角力飛行の航空力士も参加して、各地で暴動に参加した半魚人の化け物を鎮圧している。おかしい。なにもかもが。何故だ。何故、こんなことに……!?


「あ、あ、あ……!?」


 私の中の何かが怯えている。私の中に居て、私をこの水の中に誘い込んだ何者かが、私の腕を握る力士の顔を見て怯えている。


「まだ組み合えるだと……!? 何を支えに立ちあがる……? 何を握って力と変える……? 鳴り渡る不快な四股の仕業か? そうだ、お前が結んでいる帯はなんだ? 雲龍型は確かに対策を済ませた筈……なのに……! 何を纏っている?! それは私が造った角力すもうか?! お前たちのそれは一体なんだ!? お前たちはなんなのだ!? お前たちは……何者だ?」


 力士は私の瞳の奥を見つめて優しく微笑んだ後、首を振る。


亞良川あらかわ部屋べやアァァァァァァァツ!」


 私の中から、何か暗いものが抜けていった。ものすごい力が私を水中から引きずり出し、空高くへと打ち上げる。呼吸が楽だ。私を引きずりあげた力士はすかさず空へ飛び上がり、マシュマロみたいにやわらかな身体で私を受け止め、亞堕アダ地区公民館への飛行を開始する。


「どーすこいっ!」

「どーすこいっ!」

「どーすこいっ!」

「どーすこいっ!」


 眼下には炎に包まれる亞堕アダ地区。

 だが私を助けた他の力士ふときものどもは各所に散開し、ウイルスの感染者たちに張り手をかましている。

 四股が鳴り響く度、てっぽうが始まる度、感染者たちは次々と元の人間の姿に戻り、壊れた建物は時間を巻き戻すかのように修復され、燃え盛る火の手は静かに立ち消えていく。


「どーすこいっ!」

「どーすこいっ!」

「どーすこいっ!」

「どーすこいっ!」


 その光景はとても美しくて、そしてほんの少しだけ、生きていたことに感謝した。

 このどうしようもない世界に残された希望の欠片のように見えた。


「ありがとう……ございました」


 私は、私を胸に抱く力士の青年に微笑みかける。


「い、いえっ、自分……まだ新人で! 大したことは……! ごっつぁんです!」

亞良川あらかわ部屋べや……でしたっけ」

「……」

「四股名を、教えてもらえませんか」


 頭の中の奇妙な声はもうしない。けど、いつまた聞こえるか、呼ばれるかは分からない。あの海の向こうへ向かうことになるかも知れない。私は怖い。でも。

 その前に私は両国に向かうだろう。

 今、私を助けてくれたこの人に、もう一度会いに行く為に。

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