もう一度……(2)

 部屋の前に着いてインターホンを押すと、俯いた柚子が出て来た。会社を休んでいたのに服装はいつもとあまり変わらないような気がする。もしかすると、初めは出勤するつもりだったけれどやっぱり無理だったんだろうか。

 柚子が一人で暗い部屋にいるところを想像すると胸が痛くなって、その細い身体を抱き締めたくてたまらなくなった。

 しかし今の柚子にとって、俺は恋人ではなくただの同僚だ。ちょっと仲が良いだけの。

 何のためにここまで来たんだ、と自分を心の中で叱った。そして改めて口を開く。


「上がっても、いいか?」


「……どうぞ」


「おじゃまします」


 靴を脱いで部屋に上がらせてもらい、先に座った柚子に促されてテーブルの向かいの席についた。


「頭痛って聞いたけど、もう大丈夫?」


「……まあね」


「駅前でタルト買って来たんだ。こういうの好きだろ?」


「……」


 雰囲気を少しでも明るくしようとしてケーキの箱を差し出す。けれど彼女は俯いたまま喋らなくなってしまった。

 ごまかしちゃだめだ。ちゃんと本当のことを言わないと。


「先輩のこと、ずっと言えなくてごめん」


 柚子の肩がぴくっと跳ねた。


「お前の気持ちは知ってたから、いつかちゃんと言わなきゃって思ってたんだ。……思ってたんだけど、本当のこと知ったらお前が傷つくと思って。いつかは知らなきゃいけない日が来るのは分かってたくせに、ずっと言い出せなかった」


「……」


「俺は、先輩に振られて泣いていたお前を知っているから、もうあんなつらい思いをしてほしくなかった。でも、結果的にお前を傷つけてしまった……本当に、ごめん」


 ここに来るまでにずっと考えていたことを全てさらけ出し、深く頭を下げた。


「っ……」


 しばらく二人の間に沈黙が漂って——。


「ごめんなさい。昨日ひどいこと言っちゃって」


 柚子がそっと口を開いた。


「ずっと好きだった先輩が結婚しててショックだったし、それを自分が覚えてないのもショックだった。すぐには受け入れられなくて、受け入れたくもなくて……。だから、鷹尾くんに当たっちゃった……」


 俺は首を横に振った。

 だって、それは当たり前だろう。むしろそんな状況に陥っても冷静でいられる人の方が珍しいに違いない。柚子は先輩のことが本当に、真剣に好きだったからなおさらだ。


「あの、鷹尾くん……」


「何?」


 そこで柚子は顔を上げ、俺の目をまっすぐに見つめてきた。

 俺の大好きな、茶色がかった大きな瞳に吸い込まれそうになる。


「この二年半の間、一体何があったの? 私は何をしていたの?」


 柚子の問いかけに虚を突かれる。


「それは、無理に思い出さない方が——」


「お願い、教えて」


 柚子の目はとても真剣だった。


「頭に負担をかけるのは良くないって言われてるけど、でも、知りたいの。ちゃんと自分の記憶と向き合いたいの」


「……」


 知りたいという彼女の真っ直ぐな気持ちに、喉元まで出かかった反論は消え去ってしまった。


「分かった、話すよ。信じてくれるか分からないけど」


 そう前置きして俺は話し始めた。

 柚子が先輩に告白して振られたこと、その四か月後に俺と付き合い始め、今年の四月から三年目に入ること、去年先輩が結婚の報告をして、冬の挙式に営業部のみんなで参加したことなど……二年半分の出来事を。

 柚子は黙ったまま一通り話を聞いて、俺が話し終えると大きく溜息をついた。


「そんなに忘れてるのね、私……」


 彼女は信じられないというような、戸惑った表情をしている。


「えっと、鷹尾くんを疑うわけじゃないんだけど」


「うん」


「私と鷹尾くん、本当に付き合ってたの? 全然実感がなくて……」


「改めて言われると傷つくな」


「ごめんなさい」


 柚子がすごく申し訳なさそうな顔で謝ったので、俺は冗談だよと笑った。それから真面目な表情を作る。


「本当だよ。お前が思い出すまで言わないつもりだったけど……俺はずっと、お前のことが好きだった。というか、今でも好きだ」


「……!」


 自分の気持ちを正直に伝えると、柚子は耳まで真っ赤になってテーブルに視線を戻した。そんな彼女の反応に俺まで恥ずかしくなってしまった。顔が熱い。


「ごめんね、鷹尾くんのことを好きだった気持ちが、まだ思い出せないの。……そうか、私、鷹尾くんのことも傷つけていたのね」


 彼女はぽつりとそう零して……最後の方は声が震えていた。


「いやいや、忘れちゃったものはしょうがないし。そりゃあいつか思い出してくれたらうれしいけど、無理はしてほしくない。それに——」


 もっといい男性ひとが現れたら、その方が好都合だろ?


 柚子がまた俺のことを好きになってくれる保障なんか、どこにもないんだ。別の奴を好きになる可能性だって、十分あるんだ。

 胸がずきりと痛むのを無視し、努めて明るい口調でそう言った。

 柚子は俺の言葉にはっと顔を上げ、目を見開いた。


「鷹尾くん……」


「とりあえず、俺とは友達ってことでまた仲良くしてよ」


 俺はまた泣きそうになっている彼女に微笑んだ。


「今日は話聞いてくれてありがとう。タルトは好きなときに食べて」


 最後にそう言って席を立った。笑っていられるうちに、また会社でと柚子に告げ、俺は彼女の部屋を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る