二年と半年前の日常(2)

 仕事を再開した柚子は、怪我をする以前よりもさらに仕事を頑張るようになった。昼休みには社食にも行かず、弁当を食べながらパソコンに向き合って、記憶から抜け落ちてしまっていることは全部メモして……なんだか二年半分の遅れを必死に取り戻そうとしているように見えて、俺はとても心配だった。

 実際のところ、柚子がなくしてしまった記憶は人間関係に関するものが中心のようだと、事故の数日後に病院の速水先生に連絡をもらって聞いていた。だから仕事に関しては完全に忘れてしまったわけでもないらしい。けれど、残念ながら失われた部分も少なくないとも聞いている。

 せっかく今まで人一倍真面目にやってきたのに、運命は理不尽だ。そう思わざるを得ない。特に大事な女性のこととなると。

 頑張っている彼女を見るのは好きだ。でも無理はしてほしくない。そう思って時々自分のデスクにいる柚子に声をかけるようになった。


「ゆ——佐藤、大丈夫か?」


「あ、鷹尾くん。ちょうどよかった、これってどういう意味だっけ……?」


「ああ、これは——」


 柚子にとってはただの友達になってしまったとはいえ、こうして彼女の役に立てるのはうれしいことだ。

 分からないところを教えたついでに、ついさっき自動販売機で買ってきたアイスカフェオレの缶を柚子の頬にそっと当ててみた。


「ひゃっ!? 冷た……!」


 柚子は驚いて飛び上がってから俺を軽く睨んだ。


「ちょっと、いきなり変なことしないでよー」


「ごめんって。これ、好きだろ?」


「……よく分かってるじゃない。ありがと」


 そう、俺が買ったのは、柚子の好きな微糖のカフェオレ。

 お前の好みなんて、全部知ってるんだよ。

 普通の恋人同士なら口に出せていた台詞はそっと飲み込んだ。

 俺、うまく笑えてるかな。お前の記憶の中の、ただの『仲が良い同期』だった頃の俺みたいに。


「あんまり無理すんなよ。お前がずっと頑張ってたのは、課長も部長も分かってるから」


「うん、ありがとう。でもね、だからこそその期待に応えたいんだ」


 そう言った彼女の目には真剣さが宿っていた。


「そっか。でも身体に負担かけるのだけはだめだからな」


「はーい」


 そのときだった。俺の腹の音が盛大に鳴ったのは。

 しまった、と思っても止められるわけもなく、柚子にくすくすと笑われてしまった。耳が熱い。


「そういえば、もう昼休みだったね」


 お前は気づかずにずっと仕事してたのか。

 頑張るなあ……と思いながら、さり気なく彼女を誘う。


「今から社食行かない?」


「──あっ!」


 柚子は何やら慌てた様子で席を立った。


「忘れてた、梨子りこちゃんと約束してたんだった!」


 俺が返事をする間もなく、柚子はバッグを掴んで肩にかけた。


「ごめん、また今度行こ!」


「お、おう……」


 俺は嵐のように去って行った彼女を半ば呆然と見送り、その後ちょうど経理部に顔を出した成瀬を捕まえて社食に向かったのだった。




「佐藤さん、いろいろあったんだっけ? 大丈夫なの?」


 ハンバーグ定食の一口目を食べたところで、さっそく成瀬は俺の方に顔を寄せて尋ねてきた。


「ああ……大変そうだけど、頑張ってるよ」


 俺はかじったエビフライを飲み込んでから答えた。


「そうか。それならいいんだけど」


 水を飲んだ成瀬はさらに近づいてきて声を潜めた。


「お前、佐藤さんのこと好きじゃん」


「なっ……、だから違うって」


 俺と柚子が付き合っていたことは、成瀬にも秘密にしている。それなのにこいつは事あるごとに疑ってくるのだ。


「そもそもあいつは——」


 進藤先輩のことが、好きなんだから。

 何でもない風を装ってそう言おうとしたのに、なぜかうまく声が出せない。

 けれど成瀬はまるで俺の心を読んだかのように続ける。


「でも佐藤さんって、進藤さんが好きなんだっけ」


「……ああ」


 いい加減認めなければならない事実が胸にのしかかってくる。箸が止まりそうになるのをなんとか堪え、ご飯を口に入れた。

 柚子の気持ちは、よく彼女の相談相手になっていた俺と、彼女の親友の梨子ちゃん——塩野梨子さんくらいしか知らない。そして成瀬にも俺が話したんだっけ。

 ちなみに塩野さんは成瀬と同期で同じ営業部なので、かなり親しいみたいだ。俺と成瀬、柚子と塩野さん、そして俺と柚子の繋がりがあるので、四人で仕事終わりに飲みに行くことも珍しくなかった。


「……進藤さん、結婚してたよな」


「……ああ」


「佐藤さんは、このこと……」


「忘れてるよ」


 返事とともにまた溜息をついた。


「早く教えた方がいいんじゃない? 隠し通せることでもないし、このままだと誰かがうっかり喋っちゃうってことも——」


「そんなこと分かってるよ!」


 つい声を荒げてしまい、それから我に返ってごめんと小さく呟いた。

 いくら会社が仕事をする場とはいえ、そういう話題が出ないとは限らないのだ。特にあの進藤先輩ともなれば、本人がいないところでもよく話題に上る人だ。柚子が知ってしまうのも時間の問題だろう。

 だけど、なかなか踏ん切りがつかなかった。だって、言ってしまえば柚子は傷つくから。


『先輩……好きな人がいるんだって……』


 三年前のクリスマスイヴの日、そう言って泣いていた彼女の姿を思い出す。もう二度と、あんな柚子は見たくはなかった。

 どんな形で知ろうが傷つくのは同じだと、分かっていたはずなのに。

 腹を括れなかった俺に、天罰が下った。

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