二年と半年前の日常(1)

 事故の日から柚子は一週間ほど入院し、十日後の月曜日には会社に復帰した。術後経過の観察や頭部の検査などで、思ったより入院が長引いたらしい。俺はなんとなく顔を合わせづらくて、あの日以来見舞いには行かなかった。

 二年半分の記憶を失っているということは仕事にもかなり影響が出そうだが、普段から彼女の仕事ぶりを評価していた課長や部長の働きもあって、これまで通りの勤務が可能になったそう。


『お前は佐藤と席が近いし同期だし、普段から仲良いだろ? だから、何かあったら支えてやってくれ』


 柚子のことを聞いた課長に言われたことを思い出す。

 俺と柚子は、付き合っていることを会社では秘密にしていた。この会社で一番の友達である成瀬れいにさえ話していない。しかし入社当初からよく話していたし飲みに行くことも多かったので、周囲の認識は『仲の良い同期』という感じだろう。

 ちなみに彼——成瀬とは俺と同じ大学出身ということで仲良くなったのだが、営業部所属なので柚子と面識はあってもそこまで親しいわけではない。だから俺たちのことがばれる心配もあまりない。

 柚子が復帰する日の始業前、余裕を持って早めに出社した柚子を休憩スペースに呼び出して、少し話をした。


「もう、怪我は大丈夫なの?」


「うん、平気だよ」


 病室で会ったとき頭に巻かれていた包帯はもう取り去られ、傷も髪に隠れていてよほど注意して見ないと分からないくらいだ。


「そっか。……困ったことがあれば何でも言えよ。助けるから」


「ありがとう」


 そう言って笑った彼女。その笑顔が恋人ではなく、ただの友達に向けられた笑顔だということに嫌でも気づいてしまう俺。

 目の奥から何かが込み上げてきそうになって、それを打ち消すようにぐっと奥歯を噛み締めた。


「ゆ——佐藤、あのさ」


「何?」


「……」


「どうしたの?」


 不思議そうに、まっすぐな目で俺を見つめる柚子の顔を見ていられなくて、腕時計を見るふりをして目を逸らした。


「ごめん、そろそろ行かなきゃだな」


「? ……そうだね」


 腑に落ちないという表情の彼女に背を向け、経理部のフロアへと足を踏み出した。後ろからついてくるコツコツという軽い足音。

 背後の”元”恋人に気づかれないよう、俺はここ最近でもう何度目かも分からない溜息をついた。


 俺は柚子が思い出すまで、彼女が俺と付き合っていたことを言わないと決めた。

 そしてもう一つ、まだ彼女に言えていないことがある。

 それは、彼女の好きな進藤先輩が、去年の六月に結婚したことだ。




 進藤先輩はすごくモテる。

 先輩より三年分後輩の俺たちにとって、先輩はすぐに憧れの的となった。

 実は何かのドラマにでも出演しているんじゃないかと思ってしまうほどの整った顔立ち。自分の仕事だけでなく他人のフォローもこなす仕事ぶりで、俺たちが二年目に入った頃——先輩が二十七歳になる年には主任を任されていた。さらに周りへの気配りが完璧……となれば、女性社員が虜になってしまうのも無理はなかった。

 そりゃあ、あれだけかっこよくて仕事もできたらモテるよな……と男の俺でも思うんだから、間違いない。

 だから、そんな先輩が結婚の報告をしたときはちょっとした騒ぎになった。

 ある日の飲み会で質問攻めにあった先輩曰く、高校時代から気になっていた後輩と社会人になってから偶然再会し、時々会うようになって、気づいたらお互いに好きになっていたことが判明し、交際に至ったそうだ。

 その結婚報告があったのが去年の六月。柚子が俺に振り向いてくれて、付き合い始めてからまだ二か月ほどしか経っていなかった。

 ショックを受けていないかと心配になって尋ねた俺に、何心配してるの、と柚子は曇りのない笑顔を向けた。


『もうつらくないよ。だって、優くんが側にいてくれるんだもん』


 しかし、今の彼女は進藤先輩の結婚どころか、自分が先輩に告白して振られたことも、その後俺を好きになったことも、何もかも忘れているのだ。

 ただでさえ記憶をなくして混乱している彼女に先輩のことを伝えたら、かなりのショックを受けることは間違いない。かといって、このまま俺が伝えなかったとしても、いつかは彼女の耳に入ってしまう……。

 柚子が入院している間、俺はこんな風に葛藤を続け……言うべきか言わないべきか、結局答えは出なかった。

 だからさっきも迷った挙句、俺は真実を伝えることができなかった。

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