別れは唐突に(3)

 しばらくして深刻そうな顔をして出てきた先生は、病室の外で立ち尽くしていた俺を別室に案内してくれた。ドラマや映画でよく病状の説明がされているような部屋だ。

 先生に促されるままに丸椅子に座ると、先生も俺の向かいの椅子に腰を下ろした。


「申し遅れました、僕は速水といいます」


 先生は自己紹介とともに名刺を差し出した。

 そういえばまだ名前を聞いていなかったと今さら気づいたが、正直それどころではなかった。


「まず最初にお聞きしますが、鷹尾さんは佐藤さんとお付き合いしている、ということで間違いないですか?」


「はい」


「交際が始まったのはいつ頃ですか?」


「……ちょうど二年前くらいです」


 そう、俺たちは今月の十四日に付き合って二年目の記念日を迎えるところだった。


「そうですか……」


「あの、それが何か……?」


 目を逸らしたい、逃げ出したいような気がしてならないが、それでも訊かずにはいられない。


「それがですね……」


 先生は一瞬口をつぐみ、そして意を決したようにその重い口を再び開いた。


「佐藤さんはどうやら、二年と半年ほど前からの記憶を失っているようです」


「――!」


 思わず息を止めていた。心臓がすっと冷えていくような感覚。

 そして、ああ、やっぱりそうなのか……という諦めにも似た感情。

 先生が今言ったことは、俺が頭の片隅に思い浮かべてしまった悪い予感が当たっていることを意味していた。

 全く予想外ではなかった。しかし事実として改めて突きつけられると、その衝撃は半端なものではなかった。


「……それって、記憶喪失ってやつですか?」


「世間一般にはそう言いますね」


 そして先生は詳しいことを説明してくれたけれど、ほとんど頭に入らなかった。先生の声に思うように集中できない。

 そういえば、そんなストーリーの映画を前に二人で観に行ったっけ……と去年の夏のことを思い出す。

 記憶の一部分だけを失うなんて、他人事だと思っていたのに。そんな災難がよりにもよって、柚子に降りかかってくるなんて。


「――俺だったら、よかったのに」


 記憶を失ったのが俺だったらよかったのに——。

 何もできなかった、最愛の恋人を守れなかった自分の不甲斐なさに腹が立って、勝手に目が熱くなる。


「ご自分を責めないでください」


 そっと先生の手が俺の肩に置かれた。


「鷹尾さんには、彼女の記憶が戻るまで側で支えてあげてほしいんです。もちろん、無理に思い出させることは逆効果ですから、今まで通りに接してあげてください」


「はい……」


「ですが……」


 そこで先生の表情がさっと曇った。


「お二人がお付き合いを始めたのが二年前、佐藤さんは二年半分の記憶を失っている。しかも先程の様子だと、どうやら——」


 彼女は、あなたと交際していたこと自体を忘れているようです。


 告げられたのは耳を塞ぎたくなるような事実だった。

 この部屋の時間が、自分の心臓の鼓動が一瞬止まった気がした。


「そ、んな……」


『私が好きなのは、進藤先輩だよ?』


 まるで、そんなの当たり前じゃん、とでも言うような柚子の声を思い出した。

 そう、俺と付き合う前――入社したばかりの頃から、柚子は同じ経理部で三歳年上の進藤先輩に恋をしていた。そして、そんな柚子のことを俺はいつの間にか好きになっていたのだが、柚子にとって俺はただの相談相手だった。

 俺たちが入社した年のクリスマス、先輩に告白して振られたと報告してきた柚子にやっと俺がアプローチし始め、それから約四か月後の四月十四日にようやく告白してOKをもらえた、というのが交際に至るまでの経緯だ。

 それなのに。


「嘘だろ、やっと、好きになってもらえたのに……」


 もう堪えきれなかった。

 いい大人にもなって、しかも先生の前で……と思っても、溢れてくる涙を止めることができない。


「鷹尾さんには本当に酷なことだと思います。僕にはあなたの気持ちを完全に分かってあげることなんてできない。だけど……彼女は無事だったんです。ちゃんと生きていてくれています。だから——」


 どうか、諦めないで——。


 先生は俺の肩を軽く抱き、気が済むまで俺を泣かせてくれた。




 時間をかけてようやく落ち着いた俺は、家に帰るべくゆっくりと歩き始めた。

 帰り際の先生の言葉を思い出す。


『佐藤さんの記憶は、必ず戻るとは言い切れません。もしかしたらずっと戻らないかもしれません。それでも僕は、彼女を幸せにできるのはあなただけだと思っています』


 恋人に別の男が好き、なんて言われて気が狂いそうだったが、それでも彼女は生きていてくれたんだ。

 だから、どれだけつらくても、俺はまた君の隣に立ちたい。君の笑顔をずっと守りたい。


「……また頑張るしかないな」


 俺の呟きは、高く澄んだ夜空に吸い込まれていった。

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