最悪なタイミング
それは、柚子が仕事に復帰してから三週間ほど経った頃のことだった。
俺は隣の席の立川
締め切りまで余裕はあるけど早めにやっとくか……と少し作業をしていたところに『どうしても計算が合わないんです』と泣きついてきた立川を見放すことができなくて、手伝う羽目になったのだ。
俺の二年後に入社してきた彼は、くりっとした大きな目と人懐っこい笑顔が特徴的だ。そこそこできるくせに人を頼るのがうまくて、ついつい面倒を見ちゃうんだよな。
間違いを見つけて訂正させている間にちらりと向かいの席を見ると、柚子も残業をしていた。真剣な顔でパソコンの画面を見つめている。
仕事のとき、柚子は大抵長い髪をハーフアップにしている。今日の服装は、淡い水色のブラウスに白のカーディガン、そして紺色の膝丈スカート。ずっと見ていたいけれど、気づかれたら怪しまれるので控えておく。
「あ、やっと合いました!」
立川のほっとしたような声が聞こえてきて視線を戻した。かなりのデータの量だったが、何とか無事に終わったようだ。
意外とかかったなと思いながら壁に掛けてある時計で時間を確かめると、もう二十時になろうとしていた。
このまま飯に行こうぜと後輩を誘おうとしたが、気になる人がいた気がしてもう一度時計の方に顔を向ける。
時計の下にあるのは課長のデスクだ。そこにいるのは課長と——進藤先輩?
仕事のスピードが人一倍速い先輩がこんな時間まで残っているなんて珍しいなと思ったが、主任だということを考えれば仕事の量だって俺たちより多いのは当たり前だ。
先輩はデスクの前に立ち、席に座った課長と話をしていた。二人の存在を認識した途端、彼らの会話がやけにはっきりと聞こえてくる。
「お前もあんなきれいな奥さんがいるんだから、早く帰ってやれよー」
「はい、そうですね」
二人の声は決して大きくはなかったけれど、誰も喋っていなかったフロアに響き渡るには十分だった。
背筋がすっと冷たくなる感覚。
はっとして柚子の方を見ると、彼女は目を見開いて固まっていた。それからぎこちなく先輩の方に顔を向けた。
俺たちに走った動揺に気づかないまま自分の席に戻った先輩は、スーツのポケットから何かを取り出して——左手の薬指にはめた。
銀色に輝くシンプルなリング。先輩はアクセサリーの類を滅多につけない。
それは誰がどう見ても、結婚指輪だった。
そして先輩の席は、柚子の二つ隣だった。
「あっ——」
先輩は、仕事中は結婚指輪でも外しておくタイプなのか……という考えが今さらのように頭の片隅に浮かんだが、今はそれどころじゃない。
とにかく、こんな形で彼女に知られるなんて。
咄嗟にだめだ——と言おうとしたが、もう遅かった。
「先輩……」
先輩を凝視したまま柚子が口を開いた。その声は微かに震えていた。その表情はここからだとよく見えない。
「結婚、してたんですか……?」
先輩は不思議そうに柚子の方を見た後、ふっと笑った。まるで、何言ってんだと言いたげな表情で。
「してるよ。てか、去年結婚式来てくれただろ。忘れちゃったのか——って、あっ……」
そこまで言って、先輩はしまった、という顔をした。
「ごめん、記憶のこと忘れて、つい……」
「いえ……失礼します」
それだけ言うと柚子は自分のバッグを持ち、早足で出ていった。
俺は出ていく柚子の姿を呆然として見送り——その姿が見えなくなってからガタっと席を立った。
「ちょ、鷹尾さん——!?」
残っていた他の三人に見られているのにも構わず、俺は経理部のフロアを飛び出した。
廊下に出ると、柚子はパンプスで無理に走ろうとしていた。
何とか彼女がエレベーターに着くまでに追いついて、その右腕を掴んで引き留める。
「佐藤——」
「先輩が、結婚してたなんて……」
柚子は少しだけ振り向いたので、彼女の横顔がかろうじて見えた。
「そんな大事なこと、忘れちゃってたんだ……私、馬鹿みたい」
目が潤んでいるのがはっきりと分かるのに無理して笑おうとするのが痛々しくて、見ていられない。
けれどそれもつかの間のことで、彼女の顔はすぐにつらそうに歪められた。
「鷹尾くん、知ってたんでしょ?」
さっきよりも震えた声。
「私が、先輩のこと好きなのも、知ってたくせに。ずっと、相談してたのに。……どうして、先に言ってくれないの?」
それは、お前が傷つくと思ったから——と反射的に言おうとして、でも言えなかった。
こんなの、ただの言い訳だ。
「ごめん……」
「信じてたのに」
柚子は俺の手を振りほどき、再び走り出した。
彼女が向こうを向く直前、頬に光る雫が見えた気がして、俺はそれ以上彼女を追いかけることができなかった。
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