桜の下、忘れられない人(君の好きな人は── 改稿ver.)

海月陽菜

別れは唐突に(1)

 愛する人と、最初から結ばれない運命にあったとしたら。

 報われないその想いは、どこへ行くのだろうか——。




 四月上旬、桜が満開になりすっかり華やいだ道を、俺──鷹尾優たかおゆうは恋人の佐藤柚子ゆずこと歩いていた。

 俺たちは同じ会社の経理部に務めている同期だ。この四月からもう四年目になる。さらに家も一駅分くらいしか離れていないので、よくこうして一緒に帰る。そして時々、お互いの家に行って一緒に過ごすこともある。今日も仕事終わりに待ち合わせて同じ電車に乗った。

 俺の住むマンションの最寄り駅に着くと、近くのコンビニに寄った。金曜日だから飲もうなんて言って缶ビールやチューハイを買い、再び帰路に着く。

 マンションまでは、川沿いに道がずっと続いている。そしてこの道の脇には桜並木が続いているのだ。もう辺りは暗くなっていて、街灯に照らされた夜桜は美しく、幻想的な感じまでする。俺も柚子もこの道をとても気に入っていた。

 しかし、今日の柚子は桜の花たちには目もくれず、歩きながら手元に見入っている。


「やっぱり式を挙げるとなると、お金かかるよねえ」


 溜息混じりに呟く彼女の手には、なぜか結婚情報誌。さっきのコンビニで柚子が酒と一緒にかごに入れたものだ。

 言っておくけれど、俺はまだプロポーズなんてしていない。

 本人曰く、『こういうのって、読んでるだけでも楽しいじゃん』とのことだ。

 ……本人はそう言っているけれど。

 本当は期待してたりするのかな。

 いや、俺だっていつかはしなければと思っている。というか、そろそろしたい。でも、まだ覚悟を決めきれずにいる。


「でもやっぱり、綺麗な教会で挙式って憧れるんだよね。ねえ、優くんは?」


 そんな俺の胸のうちを知ってか知らずか、俺の恋人は楽しそうに語るのだった。そして俺は、そんな柚子を見るのがとても好きだ。

 黒く艶やかな髪は胸の下まで伸ばされ、ふんわりと緩く巻いてからハーフアップにしてある。白のブラウスと春らしい桜色のスカートに紺色のジャケットを羽織った、シンプルなのにかわいらしさもある今日の服装は、彼女の雰囲気にぴったりだ。

 普段は見た目通り大人しい。でも俺の前では時々こんな風にはしゃぐことがあって、それがたまらなくかわいいといつも思っている。

 そんな彼女のウェディングドレス姿とか、見たくないわけがないだろ。……なんて恥ずかしいことは言えず、そうだなと相槌を打っておく。

 やがて俺たちは、道の途中にあるちょっとした階段に差し掛かった。この階段を上って上の道に出れば、俺のマンションが見えてくる。

 仕事終わりに階段ってきついよね、なんて笑いながら、最後の一段を上ろうとしたときだった。


「あっ」


 急に強い風が吹いて、柚子が持っていた雑誌を取り上げた。


「おっと」


 俺はなんとか右手を伸ばして雑誌の端を掴む。

 取れたよ、と言おうとして——自分の身体がぐらりと傾くのを感じた。


「優くん!」


 滅多に大声を出さない柚子が俺の名前を叫んだ。そして、俺の左腕を掴んで引き戻そうとする腕。

 しかし彼女一人で俺を支えられるわけもなく、俺たちは二人して階段を転げ落ちていった。

 咄嗟に柚子を庇おうと抱き締めたけれど、転がっていると訳が分からなくなってきた。俺が柚子に抱き締められているようにも感じる。身体の至るところが硬いコンクリートにぶつかり、悲鳴を上げていく。

 永遠のように思われた時間がやっと終わり——俺たちの身体はようやく襲いかかってきた衝撃から解放された。


「――っ、いてて……」


 あらゆるところが痛むが、大したけがはしていなさそうだ。

 無事、だったのか……?


「柚子、大丈夫——」


 声をかけながら隣の柚子を見て——身体中の血の気が引いた。


「柚子!」


 彼女の目は閉じられており、身体はぐったりしていた。俺の呼びかけに答える気配もない。

 焦ってその身体を抱えようとしたとき、生温かいものが手にべっとりとついた。

 それが何かなんて、暗くてよく見えなくてもすぐに分かった。


「柚子! 柚子!」


 何よりも大切な恋人が危険な状況にあるというのに、パニックになった俺は彼女の名前を叫ぶことしかできなかった。

 その後すぐに、偶然通りかかって俺の声を聞いた通行人の方に救急車を呼んでもらい、柚子は近くの市立病院に搬送された。救急隊員になだめられた俺も乗せてもらったが、彼女を失うことへの恐怖にただただ震えていた。

 俺が捕まえた雑誌――真っ白なドレスを身に纏いブーケを手に持った花嫁が、表紙で幸せそうに笑っている結婚情報誌——はぼろぼろになって、階段の下に置き去りになっていた。

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