もう一度……(1)
『優くんったら、休みだからっていつまで寝てるの?』
『優くん、観覧車乗ろ!』
『優くん、大好きだよ——』
「――っ!」
気がつくと俺は自分の家のリビングにいて、机に突っ伏していた。
顔を上げるとビールの空き缶が三本目に入った。そのうち一本は倒れて転がっていた。自分の格好を見ると、スーツのズボンにワイシャツのまま。
どうやら昨日は帰宅してから三本も飲んで、そのまま眠ってしまったらしい。
何やってんだ、俺……と思ったとき、自分の頬が温かいもので濡れていることに気づく。
柚子と付き合っていた頃の夢を見た。やけにリアルで、ぼやけて残像となり始めてもなお、容赦なく胸を締め付けてくる。思わず嗚咽を漏らした。
柚子の俺への気持ちが消えてしまった今、幸せだった頃の思い出はただただつらいものになってしまっていた。
「……シャワー、浴びなきゃ」
缶と一緒に転がった腕時計を見ると、まだ朝の六時前だった。
妙に重い身体を引きずって風呂場へ向かった。そして止まろうとしない涙をシャワーで無理やり流し、出社の準備をした。
その日、柚子は会社に来なかった。
「今日、佐藤休みなんですか」
課長に書類を提出したついでにそう尋ねてみた。
「ああ、昨日から頭痛がひどいらしくてね。今日は休みたいと連絡が来た」
「そうですか……」
「昨日は少し様子がおかしかったみたいだけど、そのときからしんどかったのかな?」
「……そうかもしれません」
やっぱり昨日のあれが原因なのだろうか、と自分の席に戻って考えた。
好きな人に好きな人がいると分かった一昨年ですらあんなに泣いていたんだ。ましてや好きな人が結婚していたなんて、いったいどれ程悲しいことなのか。きっと、俺が想像する以上に柚子はつらい思いをしている。
しかも、俺が柚子をさらに傷つけてしまった。
俺がぐずぐずして事実をちゃんと伝えなかったから。
昨日の彼女の苦しそうな顔が脳裏に浮かんで、心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われた。
「ちゃんと、謝らないとな……」
「鷹尾さん?」
はっと隣を見ると、立川が俺の方をじっと見ていた。考えていたことが勝手に声に出てしまっていたようだ。慌てて否定する。
「いや、なんでもない」
「それならいいんですけど。そういえば昨日の佐藤さん、なんか様子が変でしたよね。今日も休みみたいですし。何か知ってます?」
急に尋ねられ、図星を突かれたような気がした。けれど本当のことを教えるわけにはいかない。
「あー、いや、特に聞いてないな……ほら、手が止まってるぞ。仕事に戻れ」
「……はーい」
無理やり会話を終わらせると、立川は少し不服そうな様子を見せながらもパソコンに向き直った。
俺もデスク上のパソコンに向かい合って、そして決心した。
今日、仕事が終わったら柚子の家に行ってちゃんと謝る。柚子がもし俺を拒んでも、話を聞いてもらえるまでは粘る。
柚子のことを支えて、また笑顔にするのは俺だ。俺であってほしい。
そう願いながら、俺はいつもより仕事のスピードを上げた。
いつもより早く仕事を切り上げることができたので、荷物をまとめてまだそれなりに人が残っているフロアを出た。自然と速足になる。
休憩スペースに差し掛かったとき、見覚えのある横顔が目に入った。
「進藤先輩、お疲れ様です」
「おー、お疲れ。今日早いな」
先輩は自動販売機で缶コーヒーを買っていた。周りには誰もいない。
「はい。それではお先に失礼しま——」
「佐藤さんっていい子だよね」
「……はい?」
ここで先輩の口から柚子の名前が出てくるとは思わず、俺は意表を突かれた。
先輩はゆっくりと俺に向かって歩み寄ってくる。
「仕事も気配りもできるし、それに、結構かわいい」
「あの、急に何を——」
先輩は俺の側まで来て足を止めた。
「ぐずぐずしてると取られちゃうよ、ってこと」
「なっ——!?」
先輩の放った一言に衝撃を受け、思わず声が漏れた。
俺の気持ちが先輩にばれている?
そして先輩は……柚子を狙っている?
「……でも先輩、奥さんいますよね」
表面上は普段通りに、しかし心の中では冗談であってほしいと祈りながら尋ねる。
すると先輩は、俺の耳に顔を寄せ、低く囁いた。
「いいんだよ、ばれなきゃ」
「――!」
はっと先輩の顔を見ると、先輩は不敵な笑みを浮かべていた。
「じゃ、また明日」
「……」
去っていく先輩に何も言えず、しばらく呆然としたままその背中を見送った。
先輩が、柚子を……?
記憶を失った柚子は今、先輩が好きだった頃の彼女に戻っている。そんな彼女に先輩がアプローチをかけ始めたら、どうなるか——。
「くそっ……!」
こんなことしている場合じゃない。早く行かないと。
今の先輩との会話は無理やり頭の隅に追いやって、今から柚子に会いに行くことへと思考を切り替え、俺はまた歩き始めた。
いつもの電車に揺られ、柚子のマンションの最寄り駅に到着した。改札を出たところには、柚子のお気に入りのケーキ屋がある。俺はそこで苺のタルトを買った。
柚子がショートケーキよりもフルーツがたくさん乗ったタルトを好んで食べることを、俺は彼女と付き合い始めてから知った。それ以来、誕生日や記念日のケーキにはよくフルーツタルトを買うことにしていた。
駅から十分弱歩くと柚子のマンションに辿り着く。近くには草花や木が生い茂る小さな公園があるが、この時間なので誰もいなかった。
エントランスで柚子の部屋番号を押すと、少し間が空いてから声が聞こえた。
『……はい』
「あの、鷹尾です——」
『ごめん、今は誰とも会いたくない』
悲しそうな声がスピーカーから零れてきて、一瞬言葉に詰まる。
しかし、ここで引き下がってしまえば何も変わらない。
「ちょっとだけ、話をさせてくれないか? ……謝りたいんだ、昨日のこと」
少し間があいて、分かった、という小さな呟きが聞こえてきた。
とりあえず、断られなかったことに安堵する。
『私の部屋、四〇三だから』
知ってる、と心の中で呟いて、鍵が開けられたエントランスの内側の扉を押した。
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