海辺の誓い

 花火大会が開催されるのは八月最初の日曜日で、その頃までには忙しかった業務もひと段落ついた。夏の繁忙期がやっと終わりを告げたので、営業部のみんなとほっとしたものだ。

 そして約束の日。

 黒い浴衣を押し入れから引っ張り出して、悪戦苦闘しつつ何とか自分で着付けた。最後に浴衣なんて来たのはいつだろう。

 青い帯を締め、姿見を見る。

 こんなんであいつは喜んでくれるのかな。

 慣れない下駄を履いて駅まで歩き、電車に乗った。電車の中にも浴衣を着た人がたくさんいたが、男一人で浴衣を着ているのは少し恥ずかしい。

 会場の近くの駅までは十五分ほどで到着した。改札を出て、待ち合わせ場所に決めた背の高い時計の前に行くと、見覚えのある浴衣が見えた。


「佐藤」


 近づいて声をかけると、柚子は俺を見上げた。

 去年と同じ待ち合わせ場所に、去年と同じ浴衣。この場所を指定したのは俺だけど、シチュエーションがあまりにも去年と酷似していて——俺は動きを止めていた。


「あ、鷹尾くん……どうしたの?」


「……何でもないよ」


「それならいいけど」


 柚子が着ているのは、青地にピンクや紫の朝顔が描かれた浴衣だ。帯は明るい黄色で、髪はサイドで緩くまとめてある。

 会場の近くというだけあって、どこを見ても色とりどりの浴衣で視界は埋め尽くされている。もっと派手な浴衣の人だってそこら中にいるのに、柚子の姿だけがなぜか目立って見える。俺だけだろうか。


「――くん、鷹尾くん」


「えっ?」


 自分の名前を呼ぶ声で我に返ると、柚子が俺の顔を覗き込んでいた。顔と顔の近さに気付いた瞬間、心臓が音を立てる。焦って思わず顔を逸らした。


「ああ……どうしたの?」


「どうしたのって、ぼーっとしてたから声かけたんだけど」


「ごめん」


「もう……まあとりあえず、早く行こう! お腹空いちゃった」


「さっそく食い物かよ……」


「いいじゃない、もうすぐ晩ご飯の時間だし」


 むっとして頬を膨らませた彼女。

 不意打ちはずるいと言いそうになったが堪えた。


「じゃあ、行くか」


「うん」


 二人で歩き出したとき、柚子の後ろから高校生と思われる何人かの集団が来て、そのうちの一人の男子が柚子にぶつかった。


「あっ」


「あ、すみません——」


「おっと」


 俺はとっさによろけてしまった柚子の身体を抱きとめていた。約四か月ぶりに触れた彼女は柔らかくて微かに甘い匂いがして、少し気を抜けば冷静さを失ってしまいそうだった。


「あ、ごめん……」


 柚子が嫌だったら……と思ってさっと身体を離した。


「……ううん、ありがとう」


 柚子の顔は見られなかったけれど、耳が微かに赤く染まっていった。

 それにしても、とにかく人が多い。もしいったんはぐれてしまえば、スマホを持っているとはいえ再び会うのは難しいだろう。だから——


「人が多くて危ないから、今日だけ手繋いでもいい?」


 下心はありませんよ、という雰囲気を頑張って出しつつ、そっと右手を差し出した。

 どうしてだろう、手を繋いだことなんて数えきれない程あるはずなのに、すごく緊張してしまう。片想いの頃に戻ったみたいだ。

 柚子は俺から目を背けたまま黙り込んでいたけれど、やがてこくんと頷いた。


「……はい」




 この海辺の花火大会の会場となっているのは、浜辺とその近くにある大きな公園だ。露店は公園に集まっていて、そこで食べ物を買って砂浜で食べている人もたくさんいる。

 都会の花火大会は露店がとても多い。食べ物の種類がたくさんある上に、例えば同じたこ焼きを売っていても店によって少しずつ違うので、どこで何を買うかなかなか決められなかった。特に柚子は優柔不断なので、頻りにきょろきょろしながら歩いている。


「まずは焼きそばかなあ。でもお好み焼きもいいなあ……」


「どっちも買えば?」


「どっちもは多いよ。太っちゃう」


 別にちょっとぐらい太っても気にならないし、かわいいのに。


「じゃあ俺と分けたらいいじゃん」


「あー、その手があった! 鷹尾くん天才!」


「いや、普通に思いつくだろ」


 会場に着いた時点で花火の打ち上げまで一時間くらい余裕があったので、俺たちは焼きそばとお好み焼きを分け合い、唐揚げや綿菓子を一人分だけ買って一緒に食べた。さすがにかき氷は一人一つずつだったし、りんご飴は柚子だけ買ったけれど。

 花火の時間が近づくと露店で賑わっている部分から離れ、花火が見やすい場所に移動することにした。

 海の近くで見るのもいいけれど、実はあまり知られていない穴場がある。露店が集まっている公園や海の方から反対側に歩き、百段ほどある石段を頑張って上ると小さな神社があるのだ。来るのは大変だけど少し高いところから花火が見られるし、他にいるのは一組の家族連れと老夫婦だけ。ここなら落ち着いて見られる。


「足、大丈夫か?」


 ここまでかなり歩いているので心配になって訊いてみたが、柚子は大丈夫、と頷いた。


「花火まであと十分くらい?」


 柚子がスマホで時間を確認していた。俺も腕時計を見てみると、十九時五〇分を回ったところだった。打ち上げは二十時からの予定だ。


「そうだな」


 そこで会話が途切れた。来るのが少し早すぎたみたいだ。

 何を話そうかと若干焦って話題を探していると、柚子が先に喋り始めた。


「あのね、鷹尾くん」


「ん? 何?」


 柚子は暗い海の方をじっと見つめていた。


「五月から、いろいろなところに連れてってくれてありがとう。記憶はまだ戻らなくて、申し訳ないんだけど……」


「いやいや、それはお前のせいじゃないだろ。簡単に戻るものでもないだろうし」


「……ありがと」


 でもね、と柚子は続けた。


「私、鷹尾くんと付き合ってたことは思い出せないけど……」


 そこで柚子は俺に身体を向け、そっとはにかんで——


「鷹尾くんのこと、また好きになったよ」


「えっ——」


 花火が咲いたような笑顔に、胸を撃ち抜かれた気がした。

 柚子は恥ずかしそうに俺から目を逸らした。下を向いて、顔の横の髪を耳にかけている。彼女の小さくて形の良い耳が、薄暗がりの中でも分かるくらい赤く染まっていた。


「あれだけ先輩のこと好きって言ってたのにね、鷹尾くんがいろんなところに一緒に行ってくれて、私のこと真剣に考えてくれたから……いつの間にか惹かれてたんだ」


「……」


 柚子は俺の目をまっすぐに見つめた。こんどは真剣な表情で。


「私、鷹尾優くんのことが好きです。私と付き合ってくれませんか?」


「――!」


 奇跡だと思った。信じられないと思った。

 けれど柚子は確かに目の前にいて、俺がほしくてたまらなかった言葉をくれた。

 返事をするより先に目が熱くなり、視界がぼやけていった。


「ちょ、鷹尾くん……泣いてるの?」


「ごめん、うれしくて、つい……」


 こんなところで泣いてしまうなんて締まらないなと思う。けれど涙はなかなか止まってくれない。

 ひどい顔を見られたくなくて俯けた頭を、そっと抱きしめられる感覚。


「記憶がなくなったからって急に恋人じゃなくなって、先輩が好きとか言って……たくさん傷つけたよね。ごめんね」


 柚子の身長は俺より十五センチくらい低い。つまり、頑張って背伸びしてくれているということだ。

 俺は彼女の腕の中で小さく頭を振った。

 その言葉だけで十分だった。


「うれしい。ありがとう——」


 そのとき、ヒューっという音が海の方から聞こえて、一瞬の間の後に大きな破裂音がした。二人で驚いて空を見ると、大輪の金色の花が咲き乱れていた。


「花火、始まったな……」


「すごい、きれい……」


 さっきまで暗かった海は、赤、青、緑、金、銀など——次々と弾ける光に照らされて、昼間よりもすごく幻想的だった。

 柚子とは去年も一昨年も来ているはずなのに、今までで一番綺麗な気がした。

 このままずっと、柚子と一緒に眺めていたい。そんな風景だった。

 右手をそっと伸ばすと彼女の手が触れる感覚がして、どちらからともなく指を絡めた。

 記憶を失ってもまた戻って来てくれるなんて、本当に奇跡みたいだ。

 繋いだ手から伝わってくる温もりを感じながら思う。


 今度は絶対に離さない。柚子は俺が守る——。


 今の俺たちにはもう言葉なんて必要なくて、ただ目の前の光景に見惚れながら幸せを噛み締めていた。

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桜の下、忘れられない人(君の好きな人は── 改稿ver.) 海月陽菜 @sea_moon

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