二章 アメジストの城 3
それから、エリカがバルコニーにやって来た。また一緒に踊ろうと言う。僕は彼女と一緒に再びホールに戻った。
ワルツはもう終わっていた。今はゆったりとしたバラードが流れていた。自動人形達はそのリズムに合わせて静かに上品に踊っていた。舞台の上では立体映像の女が歌を歌っていた。
「これだったら、わたしにも踊れるよ」
曲が変わって、エリカは少しほっとしたようだった。なんだかんだと、今まで上手く踊れなかったらしい。僕は笑って、彼女と手を取り合って踊った。やはり彼女の動きはぎこちなかったが、さっきよりはずいぶんさまになっていた。
やがて、舞台で歌う女が変わった。エリカの肩越しに見た感じでは、紅色のカクテルドレスを着た若い女のようだった。化粧栄えのしそうなよく整った派手な顔立ちに、赤い髪をしている。そばには彼女とよく似た赤毛の少年が座っている。彼はギターを弾いている。二人はきっと姉弟なのだろう、女は歌いながら時折心配そうに少年のおぼつかない指使いを見ているようだ。いったい彼らは何の曲を奏でているんだろう……。
と、舞台をじっと凝視した瞬間、二人の姿はにわかに消えた。そこには、さっきまでと同じ立体映像の女が一人で歌を歌っていた。
幻? いや、違う、これは――僕の記憶だ。
そう、僕はあの姉弟を知っていた。あの女は、エセル。そして、あの少年は――僕だ。
たちまち、胸が高鳴り、喉の奥が焼けるように熱くなった。心の奥底の戒めが解かれたとたん、高温のマグマが噴出してきたようだった。苦しいのか、嬉しいのか自分でもよくわからなかった。追憶は断片的で、かつ突然すぎた。エセルの顔を思い描くと、涙があふれてきそうだった。
「ライムお兄ちゃん、どうしたの?」
エリカが不思議そうに顔を覗き込んできた。僕は唇を動かすことも出来ずに、かすかに首を振った。
「どこか、具合が悪いの? 痛いの?」
『……なんでもないよ』
ようやくこう答えることが出来た。エリカの肩の鳥はそんな僕の声を実に忠実に、弱々しく再生した。
「何かあったの?」
サキもこちらにやってきた。『なんでもない』と、いったんは答えたが、ふと、思いついて尋ねた。『この城にギターはあるかい?』
「ギター? クラシックギターかしら?」
『ああ、そうだ。あるなら、少し貸してほしい』
あの赤毛の少年の姿がまぶたに強く焼きついていた。彼は何を弾いてたんだろう? 同じようにギターにさわってみれば思い出せるかもしれない。
「いいわ。待ってて」
と、サキはすぐにどこからかそれを持ってきてくれた。多少ほこりを被っていたが、しっかりとした作りのクラシックギターのようだった。
『ありがとう』
受け取り、さっそく弦にふれてみた。
と、そのとたん、指がひとりでに動き出した。まるで一つの生き物のように。
これは――指の記憶?
不思議だった。僕の意志とは無関係に指は勝手に動いている。記憶の糸をたぐりよせ、曲をつむいでいく。
この曲は……。
「へえ、バタームーンね」
サキは感心したようにつぶやいた。
そうだ、あの老婆が歌っていた歌だ。あの夢の中で聞いたメロディだ。
『サキ、あなたはこの歌を知っているのかい?』
「ええ、好きな歌よ」
『本当かい? なら、ここで歌ってみてくれないか』
聞きたかった。あの夢の続きを思い出したかった。サキに強く頼んだ。
「いいわ。一緒に一曲やりましょ」
サキは歌いだした。僕の指が奏でる曲に合わせて。
かたつむりは無理強いしない
ツバメは気分屋だ
バターの月 流れていく世界
それは僕達だけの秘密
雄牛は強がりを言って
森は君を連れて行く
バターの月 溶けていく夢
それは瞳の中で溺れる月
花は嘘つきだ
山羊は正直者だ
バターの月 散っていく赤
それは閉じられた夜の痛み
歌はそこで終わりだった。指の動きが止まったと同時に、そこにあたたかい雫が落ちてくるのに気づいた。涙だ。僕は泣いていた。
それは深い悲しみだった。深すぎて、僕は曲が終わるまで自分がそこに沈んでいることがわからなかった。涙は視界を歪ませるほどに、どんどんあふれてきた。そして、瞬くと、ホールにあふれる光を溶かしながら流れていった。どうしてこんな気持ちになるんだろう? すべてが遠く、曖昧だった。悲しみだけが僕の胸を強く刺した。
「……あなたは思い出してもいいし、忘れたままでもいいのよ」
突き放すように、あるいは慰めるようにサキがつぶやくのが聞こえた。
部屋に戻ると、窓の外から月明かりが差していた。暗い室内の底を、それは舐めるようにかすかに照らしている。僕はその光だけを頼りに、ベッドに腰かけた。タキシードのボウタイをゆるめながら。
目を閉じると、あの白い人々の歌が遠く聞こえてきた。幻聴だろうか。それとも、この城の近くで彼らが歌ってるのだろうか。それは僕を彼らの世界へいざなうもののように思えた。今はもう何も考えたくなかった。彼らのように、美しく幸福なところへ行きたかった。
やがて、扉が開く音と、こちらに近づいて来る足音が聞こえてきた。
「……ライムお兄ちゃん」
それはか細い声だった。目を開けると黒い髪の少女がすぐ前に立っていた。月光を背に浴びて、その顔はまったく見えなかった。頼りない小さなシルエットだけが、闇の中に浮かんでいた。僕はベッドの脇のランプをつけた。
「やっぱり、どこか具合悪い? だいじょうぶ?」
エリカは心配そうにこちらをのぞきこんできた。だいじょうぶだよ、と目元の雫を拭いながら答えたが、ふと彼女の肩にあの鳥が止まってないことに気づいた。ホールに忘れてきたのだろうか。そこで、もう一度ゆっくり大きく口を動かし、だいじょうぶだよ、と答えた。彼女にも読み取れるくらいに。
「ほんと? どこも痛くない?」
よし、なんとか伝わったみたいだぞ。そのまま、笑顔を作ってうなずいた。
「そっか。よかった……」
エリカは安心したようだった。笑って、膝の上に乗ってきた。白いドレスのすそがふわりと広がった。
「ライムお兄ちゃんって、体おっきいね」
そのままぎゅっとしがみついてきた。そうかなあ、という気持ちで首をかしげた。
「なんだかパパみたい」
パ、パパ? それを言うならお兄さんだろう……。抗議の意味で眉をひそめた。
「わたしのパパはね、遠くの星に住んでるの。お仕事が忙しいんだって。それであんまり帰ってこないんだって。ママはそう言ったけど、でもほんとは違うんだって、ママの友達の男の人が言ってたの。ママとお話してるところ、聞いちゃったの」
なんだかフクザツな家庭の事情みたいだ。どういう顔をすればいいんだろう?
「……それでね、そのママの友達の男の人が言うの。パパは他の星に女の人がいて、ママよりそっちの女の人が大事だって。だからあんまり帰ってこないんだって。子供もいるんだって。それで、わたしよりずっとその子のほうが大事だって……。ほんとかな? パパ、わたしのこと、どうでもいいのかな……」
エリカは今にも泣き出しそうな顔をしている。そんなことない、と答える代わりに全力で首を振った。
「ほんと? パパ、わたしのことも、ママのことも大事かな?」
うんうん、大事に決まってるさ! 今度は全力でうなずいた。
「そうだよね。パパ、わたしにすごくやさしいもん! 会うたびに、こうやってぎゅうってしてくれるもん!」
エリカははしゃいで、さらに抱きついてきた。その勢いに、思わずベッドに倒れこんでしまった。僕達は笑った。
「パパはね、帰ってくるときはいつもおみやげ買ってきてくれるの。お洋服とか、お人形とか、絵本とか……」
そのまま、エリカのパパ自慢が始まってしまった。とりあえず適当にうなずいた。
「それでね、パパってばよくジョリジョリってしてきて、それがほんとにジョリジョリでね……」
ジョリジョリか。そりゃ大変だなあ、ジョリジョリは。やはり適当にうなずいた。
「でも、それってね、おまじないだってパパが言うの。だから、わたし、ライムお兄ちゃんにもしてあげる」
ジョリジョリを?
「……ちょっと後ろ向いてて」
と、エリカは強引に僕に背を向けさせた。何だろう? ジョリジョリなおまじないって……。
「じ、じっとしててね。ぜったいにおわるまでこっち向いちゃダメなんだから、ぜったいだよ」
なんだか声がうわずっているようだ。とりあえず、そのまま待ってみた。
すると、エリカは首に手をゆるく回してきた。そして肩越しに顔を近づけてきて頬に何か当てて――いや、これは唇だ。どうやら、ほっぺたにキスされたようだった。
「……も、もういいよ。こっち向いても」
と、声がしたので振り返ると、エリカの真っ赤な顔があった。目を合わせると彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
「あ、あのね、パパとはちゃんと前を向いてするんだけど、ライムお兄ちゃんとは最初だから後ろ向きなの。そういう決まりなの」
決まりなのか。
「こうするとね、遠くにいてもわたしのこと忘れないんだって。ずっと覚えていられるんだって」
なるほど。そういうおまじないなのか。
しかし、なんでジョリジョリなんだろう? 今のはむしろ、ふにゅふにゅって感じだったぞ?
「でも、ライムお兄ちゃんってパパみたいにおひげないから、ほんとのジョリジョリのおまじないじゃないかも……」
エリカは自信なさそうに首を傾げた。そうか、ひげか。ほんとのジョリジョリのおまじないとやらは、頬ひげをエリカのほっぺたに当てながらキスすることなんだろう。きっと。
「ちゃんと、きいたかな?」
うん、きいたと思うよ、という答えを込めて僕は笑ってうなずいた。「よかった」エリカもふっくらと顔をほころばせた。その黒い瞳にわずかにたゆたっていた不安の光が消えた。
やっぱり似てるな……。
一瞬、その瞳の奥に、もう一人の少女の影が垣間見えた気がした。彼女はあの晩、僕がそばにいなくて泣いていた。そして、エリカは今「ずっとわたしのことを忘れないで」と言った。同じだ。二人とも、すごくさみしがりなんだ。
『だいじょうぶだよ。僕は君のことを忘れないし、遠くにも行かない』
彼女にさらに顔を近づけて、ゆっくりと唇の動きだけでささやいた。
「約束だよ」
黒い瞳の少女は、じっと僕を見つめ返しながら言った。
エリカはやがてそのまま眠ってしまった。僕も疲れていたのでランプを消してすぐに眠った。タキシードとドレスが皺だらけになってサキは怒らないかな、と、ぼんやり考えながら。
眠りは浅く、短かった。再び目を開けたとき、まだ外は暗かった。部屋に差し込んでくる月明かりの帯がさっきより長く伸びていた。
「……ライム」
と、隣で声が聞こえた。エリカも目が覚めているようだ。もしかして、一緒にトイレに行ってくれとかかな? 寝ぼけた頭でランプに手を伸ばした。
すると、
「ライム、私はここだ」
それを止めるように、彼女はしがみついてきた。この感じは、まさか……? はっとした。
ルカ? ルカなのかい?
彼女の心に呼びかけた。闇の中で、彼女がこくんとうなずくのが見えた。
ああ、よかった。また会えた! うれしくて、彼女を胸いっぱいに抱きしめた。その小さな体はとてもあたかかかった。そう、とてもあたたかくて、肌はすべすべで――って、あれ? そういえば、エリカはさっきドレスを着ていたはず……?
ルカ、ドレスは?
「取った」
着替えたの?
「いや、何も着てない」
……なんで。
「邪魔だからだ」
よくわからないが裸らしい。そして、またよくわからないが僕のシャツも前が大きく破れている。ボウタイもいずこかへ消えているようだ。
「これも、邪魔だから取った」
取ったじゃなくて、破っただろう?
「そうともいうかもしれない」
ルカは首を傾げたようだった。タキシードの上着は無事だったので、とりあえずそれを彼女の肩にかけた。そしてランプをつけた。
「ライム、これも邪魔だ」
しかし彼女はそれを一瞬で脱いでしまった。ランプのほの黄色い光のもと、その一糸まとわぬ華奢な体があらわになった。顔が熱くなるのを感じた。彼女はやはりとても綺麗だ。
「どうして目を反らす?」
ルカは相変わらず羞恥心なんて持ち合わせていないようだった。そのまま無造作に胸を寄せてきた。僕の胸板に彼女の淡いふくらみの乳房が重なった。たちまち胸が高鳴った。
「やはり、これは好ましいことだな」
え?
「あたたかい、だったか。この感じで間違いないだろう?」
ルカは僕の顔を見上げて、自信たっぷりに言い切った。もしかして、服が邪魔だと言ったのは、こうして僕と肌と肌を重ねたかったからなのだろうか。そう、あたたかい、という感覚を再確認するために……。なんだかおかしくなってきた。ルカはやっぱりルカだ。変だ。でも、そういうところがすごく可愛い――。
「可愛い? それは好ましいことか?」
と、ルカが勝手に僕の心を読んだ。しまった、久しぶりだから油断していた。あわてて、なんでもない、と言い訳した。
「そうか、お前は私のことを好ましいとは思わないのか」
い、いや、違う! 今のは言葉のあやというか、雑念みたいなもので――。
「しかし、『ペチャパイ』『鈍ちん』『仏頂面』は、好ましくないことを指すのだろう?」
……え?
「私のことをそう言っていただろう、お前は」
それは、あのときの? ……まさか、聞こえてたのか。
「聞こえたぞ。かすかにな」
ルカは強く僕を見つめた。なんとなく、怒ってるように見えた。違うんだ、僕は言い訳した。あれはなんというか、その、テストみたいなものなんだ。深い意味はないんだ。信じてくれ。
「なら、よい」
怒りが解けたようだった。ほっと胸をなでおろした。
「……つまり、今の話を総合すると、お前は私のことを好ましいと思っているということで相違ないな?」
と、今度は実に真面目な口調で言う。もう隠してもしょうがないようだ。そうだよ、とうなずいた。そして、こういうことはちゃんとはっきりつたえたほうがいいかと思い、好きだ、と強く念じてみた。体全体がものすごく熱くなるのを感じながら。
「好き? それは好ましいということと同じことか」
そうだよ。好ましいってことの最大の表現だ。
「最大か。量が多いのだな」
うーん? 量かな? どっちかっていうと、重なってる感じかな?
「重なるものなのか。よくわからんな」
そうだなあ……。例えば、好ましいっていうのが、いっぱい重なってミルフィーユになってる感じかな?
「ミルフィーユ? 菓子だな? それはまずいものか?」
いや、甘くて美味しいものだよ。
「甘い? 美味しい? それは……難しいぞ」
ルカは言葉どおり眉根に皺を寄せて難しい顔になった。食べ物の味に関しては、今のところ、あのまずいという感覚しか知らないのだろう。困ったな。甘いとか美味しいとか、どうやって伝えればいいんだろう。朝起きたらサキに頼んで、お菓子を用意してもらおうか――。
「そうか、こうすればよいのではないか」
と、ルカは何か閃いたようだ。顔を近づけてきて――いきなりキスしてきた。
「……っ!」
な、なんで、またこうなるんだ! びっくりして、少し飛び上がってしまった。
「ライム、なぜよける?」
い、いや、おかしいだろう。いきなり、こんな……。
「今のは、お前にとって好ましいことではなかったのか」
違う! 断じて違う! むしろすごくありがたい!
「なら、なぜよける」
も、ものには順番とか話の流れっていうものがあって、今はミルフィーユのことを話してたし僕は君にその味をどう伝えようかなって考えたわけで、つまりそれはある意味意識が君から離れてたわけで、そういう隙だらけの状態で、今みたいなありがたいことをされると、僕としてはなんだかもう、もったいないような、不意討ちを食らったような気分になるんだ。人道に反することだよ、これは!
「……よくわからんな。私はただ、お前の口を吸えば、お前の言っている味もわかるかと思ったのだがな」
ルカはきょとんしている。僕の動揺なんて、まるでわかってないようだ。まあ、自分でも随分変なことを言ってしまった気がするけれど……。
「とにかく、そういうことだ。もう一度口を貸せ」
と、ルカはまた強引にキスしてきた。その唇はやわらかく瑞々しくて、その舌の動きは貪欲だった。探るように、何かを得ようとするように僕の口の中に分け入ってきた。眩暈がした。頭の中が真っ白になった。彼女がそうするように、僕も何度も彼女にキスした。好きだ、と思った。そう、前にキスしたときよりはずっと彼女への気持ちが強くなっている……。お互いの唾液が混ざり合い、お互いの口の端から垂れた。
「……これが、甘くて美味しいという感じだろうか」
やがて、彼女は僕から離れた。そして、僕の手を取り、自分の左の乳房に当てさせた。いったい、また何を……。やはりどきどきしてしまう。
「ライム、わからないか。私は変だ」
変?
「動悸がする」
ルカは僕の手に自分の両手を重ねて不思議そうな顔をしている。その、なんともいえぬすばらしいさわり心地を無視して、指先に神経を集中させると、なるほど、確かにそんな感じだった。僕の心臓のほうが二倍ぐらい早く動いてる気がするけれど。
ルカ、これは甘いとか美味しいとかいう感覚じゃないよ。僕は手を重ねたままささやいた。
「違う? ではこれは何だ?」
それはきっと……今ので君が何かを感じたんだと思う。
「私が何かを感じた?」
そうだよ。だから、どきどきするんだ。僕は微笑みかけた。
しかし、そのとたん、ルカは「そんなはずはない」と目を固くつむって首を振った。
「ありえない、そんなはずは。私は何も感じない。そういうふうに、私はあるべきなのだ。なぜなら、私は――私は――」
ルカは苦しそうだった。その小さな肩は震え、額には汗がにじんでいた。僕はあわてて、いいんだ、と彼女に伝えた。そんなこと、無理して今考える必要なんてないんだ。彼女を抱きしめながらその額の汗をぬぐった。熱っぽい吐息が僕の鎖骨を濡らした。
「……お前の瞳は私にとって鏡のようなものなのかもしれない」
ふと、彼女は胸の中でつぶやいた。
鏡って?
「娘が初めて自分の姿を見たとき銀色のフクロウは言うのだ。『聞け、娘よ、人の子よ。知ることは失うことの始まり。感じることは孤独の始まり。そして何かを美しいと思うのは、愚かしさの始まりだ。なりたがりのお前は何者にもなれない。ただ、涙を流すだけ』と。そして、娘は声を失うのだ」
何の話かわからなかったが、とても悲しい言葉のように思えた。それは違う、と僕は思わず、とっさにつぶやいた。
「ライム、これはまじないの言葉だ。意味などない。だから、違うも違わないもない……」
その声はひどくかすれていた。
僕達はそのまま横になった。ルカはもう何も言わなかった。やがて眠ったようだった。
やっぱり、ルカの中には「辛い記憶」があるんだろうか……。
サキの言っていたことを思い出した。もしその通りだとしたら、僕はどうしたらいいだろう? ルカ達の今の状態は明らかに普通じゃない。一人の人間に、二つの心があるなんて変だ。やはり何かの病気なんだろう。でも、それを治そうとして今みたいにルカを苦しめることになったら? ずっと忘れていた苦しみや悲しみの記憶なんて、思い出す必要なんてないのかもしれない……。ふと、まぶたにエセルの顔が浮かんで、胸が痛くなった。そうだ、僕だって、思い出さなければ、バターの月の歌を聞かなければ、こんな痛みを感じることはなかったんだ。
ああ、でも、僕はルカが笑ってるところが見たい。一緒にいろんなことを感じあいたい。喜び合いたい。
彼女の寝顔をじっと見つめた。サキの言う通り、僕はまるで何も知らなかった。彼女のことも自分のこともこの森のことも。それらのすべてを知ることは僕に出来るのだろうか。そしてすべてを知ったとき僕達はこうして同じベッドで眠れるだろうか。
頼りない月明かりのように、なにもかもがあいまいだった。確かなのは、この胸の中にある彼女への気持ちだけだった。
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