二章 アメジストの城 1
「お兄ちゃんの髪、真っ白なのね。詩人さんかと思っちゃった」
ルカは、いやエリカと名乗る少女は、やはり僕のことなど少しも知らない様子だった。木の根元に腰かけたまま、珍しそうに僕の白い髪や顔を見ている。
『詩人さんって?』
動揺しつつも、尋ねてみた。エリカは「詩人さんは詩人さんだよー」と無邪気に笑った。本当に別人になってしまったようだった。
「詩人さんはね、すごくかっこいい男の人でね、すごく綺麗な歌を歌うの。楽器も弾くのよ。こういう……指ではじくようなやつ」
エリカは何かの弦楽器を弾く振りをした。『リュート?』ふとそんな単語が思い浮かんだので言ってみると、「あー! それだ、それ!」と、彼女ははしゃぎながら、うなずいた。話がよくわからない。
『ところで、君はどうしてここにいるんだい?』
とりあえず状況を整理しようと尋ねたが、
「なんでだろ? わかんないや」
エリカはあっけらかんと笑った。まるで答えになってない。
「それより、お兄ちゃんはどうしてさっきから紙に書いてばっかりなの?」
『僕は声が出せないんだよ。喋れないんだ』
「ほんと? じゃあ悪いフクロウに会ったのね」
『悪いフクロウ?』
「女の子の声を盗んだ悪いフクロウだよ。それで、女の子は歌えなくなっちゃった」
『残念だけど、僕はたぶんそういうんじゃないと思うよ』
また話がアヤシイ方向に流れていきそうだったので、僕はあわてて否定した。「ふーん、そっか」エリカはつまらなさそうに首をかしげた。
『本当に、君はエリカという名前で間違いないんだね?』
「そうだよ。お兄ちゃんはなんていうの?」
『ライムストーンだ』
「じゃあ、ライムお兄ちゃんだね」
彼女は挨拶代わりといった感じで、手を握ってきた。指を動かすと、その指先に昨夜できた擦り傷がちゃんと残っているのがわかった。
「……いたっ」
と、エリカは急に手を引っ込めた。傷に触れられると痛むらしい。僕は『ごめん』と謝った。内心はやはり、信じられない気持ちでいっぱいだった。ルカは、昨日まで僕のそばにいた少女は、いったいどこへ行ってしまったんだろう。
それに、ここは……?
僕は改めて周囲を見回した。やはりエメラルド色の木々が生い茂っているばかりだ。どこにも、あの村の面影はない――いや、あれは……?
瞬間、ある木の幹に何かが埋まっているのに気づいた。よく目を凝らしてみると、それは何か細長い建物――いや、塔のようだっだ。
もしかして……?
僕はゆっくりとそこに歩み寄った。人の手から離れて長い時間経っているのだろう、それはすっかり酸化しきって黒ずんでいた。幹に抱かれるように埋もれていなければ、とうの昔に崩壊していたかもしれない。表面にさわると、手にザラザラとした赤茶色の金属の粉がついた。元の大きさを思うと、昨日見た塔とほぼ同じくらいのようだった。
じゃあ、やっぱり間違いないのかな。
ここに村があったこと。人の営みがあったことは。僕はあの人達の姿を思い描いた。どういう理屈で会えたかはわからないけれど、たぶん、あの人達はもうずっと前にここからいなくなっていたのだろう。老婆が言ったようにみどりに飲み込まれたか、助けが来て別の場所に移り住んだかして。
どっちだろう? 助けは、来たのかな……?
僕は幹の中に埋もれている塔をじっと見つめた。その、あの村における希望の象徴とも言うべきものが緑のツルに緊縛されながら朽ち果てている姿は、老婆の言葉どおりになったことを思わせた。しかし、本当のところは何もわからない。助けが来たかもしれない。いや、来たに決まっている。みんな、あんなにがんばってたじゃないか……。
「ライムお兄ちゃん、何見てるの?」
と、エリカが僕の袖を引っ張った。はっとした。なんでもないよ、と答える代わりに首を振って笑った。
ずっとその何もない場所にとどまっていることはできなかった。僕達はやがて、再び森の中を歩き始めた。行くあてなど何もなかった。ただ漠然と、確かなものを探すだけだった。
「どうして、こんなにいっぱい木があるのかな?」
エリカは本当に何も知らないようだった。そして、そのことに何の疑問も感じていないようで、まるで子供だった。道すがら、僕は必死にルカのことを尋ねたが、たいした手掛かりは得られなかった。彼女の答えは終始曖昧で、しかも彼女は集中力がなかった。僕と筆談している最中でも急に余所見をして、ふと思いついたこと、全然話の流れとは関係ないことをしゃべりだした。そして、それで僕が少しむっとすると、「だって、字を読むのって苦手なんだもん」と言い訳した。
結局わかったのは、「ルカお姉ちゃんはね、わたしのお誕生日にパパが連れてきてくれたの」ということだけだった。
……これじゃ何もわからないのと同じだ。
空はバカみたいに晴れ渡っていたが、暗澹たる気持ちだった。あの村のことといい、ルカのことといい、いったい何が現実で何が正しいんだろう? それに僕は誰なんだ? 元はどんな人間だったんだ? エセル? バターの月? ああ、何もかもでたらめだ。わからない……。
考えるほどに、頭の中がこんがらがってくるようだった。ただ今はもうルカに会いたかった。何も考えずにルカを抱きしめたかった。
「ライムお兄ちゃん、どうしたの? さっきからすごく暗い顔してる」
と、エリカが僕の前に立ちふさがった。その黒い瞳は罪のない、無垢で無知な光をたたえている。どうしたら彼女はルカに戻るんだろう。さっき、もしかしたらエリカの中にいるルカに伝わるかもしれないと思って、試しに彼女の手をとり、思いつく限りの悪口……「ペチャパイ」だの「鈍ちん」だの「仏頂面」だの念じてみたが、何の反応もなかった。何も思考は伝わらなかったのだ。ただ変な罪悪感と、僕という人間が悪口に関しては貧弱な語彙しか持ち合わせてないことを思い知っただけだった。きっと僕は口ゲンカが弱いタイプなんだろう……ああ、自分のことでようやくはっきりわかったのがこれだったなんて! だんだん情けない気持ちでいっぱいになってくる。エリカは僕が顔をしかめ続けているので、ますます心配そうにこちらをのぞいてくる。悪い子じゃないんだよな、きっと……。
「あ、見て、あれ」
と、彼女は何かを発見したようだった。何だろう。その視線の先を追うと――ここから少し離れたところのくぼみに、獣の骨らしきものがたくさん散らばっているのが見えた。
「……動物のお墓かな?」
確かにそう見えた。いや、むしろ獣の屍を遺棄するための場所のように見えた。そう、おそらくこの穴は、かつてこの近くに住んでいた人々に作られたものだろう。そして、これらは、この森に棲むという獣、樹機獣とやらの屍だろう。近づいてよく中をのぞいてみると、白い骨の内部に酸化した金属の塊のようなものが見えた。大きさは馬より少し小さいぐらいだろうか。骨の造りを見る限り、四足で歩く生き物のようだが、死後長い時間が経っているようでそれ以上のことは何もわからない……。
と、そのとき、骨の下に何か動くものを見つけた。何だろう。目を凝らして見ると――あれ? 何だか妙にすばっしこい――。
「ライムお兄ちゃん!」
と、エリカが急に僕のジャケットを後ろに引っ張った。「ぶつかっちゃうよ!」そう彼女が叫んだ瞬間だった。穴の底から一匹の獣が駆け上がってきて、僕達のすぐ目の前に躍り出た。
それは全身に緑色の草を生やした、なんだかよくわからない生き物だった。大きさはやはり馬より少し小さいくらいで、四本足で直立不動していて、それだけならどうということはない特徴なのだろうが、その頭は獣のものというよりは鳥のものに酷似していた。くちばしは鮮やかな赤い色をしていて、目は猛禽のそれのように鋭い。頭の後ろには白い短い角が伸びている。尾は長く、綺麗な放物線を描きながら下に垂れている。背中にはところどころ鱗のように光るものが見えるが――ああ、これはもしかして機械の部品かな? つまり今僕の目の前にいるのは……樹機獣? その生き残りってやつだろうか?
「馬なのかな? ううん、鳥? それとも機械? あ、でも草が生えてるし……」
エリカは目の前の生き物をどう理解したらいいのかわからず、戸惑っているようだ。僕も実に同感だ。なんなんだろう、こいつは。
と、僕達が頭に疑問符を浮かべていると、その獣がゆっくりこちらに近づいてきた。そして一声、馬のものとも鳥のものとも機械のものとも判別がつかないような鳴き声を発すると、いきなりエリカのワンピースを口にくわえて持ち上げた。
「……きゃ」
と、彼女が驚くや否や、獣はそのまま森の奥へ駈けていく。びっくりした。あわてて、それを追いかけた。いったいどういつもりで彼女を連れて行くのだろう? 餌? まさか食べるのか? ついばむ気なのかあのくちばしで? っていうか肉食なのか、あいつは? なにがなんだかもうさっぱりわからなかったが、彼女を見失うわけにはいかなかった。必死にその後を追った――が、獣はとても俊敏なようで、めいっぱい足を速めてもちっとも追いつけない。それどころか、どんどん距離が開いていくようだ。くそ、このままでは……。だんだん息が上がってくる。
と、そのとき、開けたところに出て、獣は急に脚を止めた。下がりっぱなしだった顎を上げて前を見ると、先に、何か巨大な建造物がそびえているのが見えた。これは……城? そう、それはまさにそう呼ぶにふさわしい外観だった。
獣は僕のほうに一瞬振り返ると、ゆっくりと城に向かって歩いていく。まるでついてこいと言わんばかりだ。「すごーい」エリカが驚きの声をあげるのが聞こえた。あの状況でもあまり危機感を感じていなかったのだろうか。なんだか必死になって損をしたような気がする。はあ、と息を整えて、ゆっくりと彼らに近づいた。
城は堀で囲まれていたが、獣がそばに立つと、たちまち堀の中から何か銀色の細長いものが無数に出てきて橋を形作った。これは……鎖かな? 獣は悠然とその上を闊歩して門の奥へ、城の内部へ入っていく。僕もそれに続き、鎖の橋を渡って中に入った。僕が渡りきったとたん、橋は崩壊し、鎖は再び水中に沈んでいった。
城は、壁も柱も門も、尖塔の先端にいたるまで、すべて透明感のある紫色の石で造られているようだった。まるでアメジストの城だ。天井や壁紙の装飾の意匠もきらびやかなものだったが、やはりアメジスト色で、変化に乏しかった。この城の主はよっぽどこの色が好きなんだろうか。だだっ広いホールを、エリカとぼんやりながめながらそう思った。獣は僕達の様子をじっとうかがうように隣に立っている。
「へえ、今日はまためずらしいわね」
やがて、その主らしき人物が城の奥から現れた。若い女のようだった。ホールの奥の階段をゆっくりと降りながらこちらに近づいて来る。その風貌は随分変わっているようで、彼女は衣服らしきものを一切身につけておらず、代わりに胸と腰周りに鎖を幾重にも巻きつけていた。髪は美しいブロンドで、うなじやこめかみからいくすじかの後れ毛を垂らしながら頭頂部でゆるくまとめている。瞳は青く、肌はうっそらと桃色がかかったクリーム色で、目鼻立ちは完璧なほどに整っている。すらりとした手足に、鎖にきゅっと締め付けられた豊麗な乳房。うーん、これはまるで……。
「お姫様みたーい!」
そう、そんな感じだ。なんとなく神秘的で近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「ふふ、お嬢さん、ありがとう」
女は艶っぽく微笑した。そしてさらに近くに、僕達のすぐそばにまでやって来た。獣が一声いなないて、彼女のもとへすり寄っていく。女はやさしくその頭を撫でる。
「帰りが遅いと思ったら、こんなお客様を連れてくるなんて。物好きな子だこと」
女に撫でられるのが気持ちいいのか、獣は猛禽のような目をうっとりと半開きにしている。
『あなたは? そして、ここは?』
僕は質問を紙に書いて渡した。女はそれを一瞥すると、ふと顔を上げ、「いいのよ、しゃべっても」とささやくように僕に言った。
しゃべってもって言われても僕は声が……。自分の状態をまず説明する必要があると思い、さらに紙にペンを走らせた。しかし、その半ばで、女の身につけている鎖の一本が蛇のように動き、僕の手から紙とペンを奪い取った。
「言ったでしょ。しゃべってもいいのよって。あなたの喉から声が出ないことなんて、ここではそれほど問題じゃないわ」
いや、あの、それはどういう……。
「口を動かせばいいの。話したい言葉どおりにね。私はその動きを読むわ」
女は自信たっぷりに言う。本当にそんなことが出来るんだろうか。
僕はそこで、今日はいい天気だね、と、今までの話の流れとは全然関係のない言葉を口を動かして表してみた。すると、どうだろう、女は「そうね、今日は本当にいい天気ね」と答えた。
『なるほど、確かにあなたとは唇の動きだけで会話できるようだ』
「わかってもらえてうれしいわ」
女の鎖がまた動いて、僕にペンと紙を返した。まるで人の手のような細やかな動きだ。
「ねえ、ライムお兄ちゃん、さっきからこのお姫様と何の話してるの?」
と、エリカが僕達の間に割り込んできた。
「ああ、このお嬢さんには、あなたの言葉はわからないのね」
「ううん、わかるよ。だってライムお兄ちゃん書いて教えてくれるもん」
「そう。じゃあ、書かなくてもわかるようにしてあげるわ」
女の鎖がまた動き、近くの壁にかかっていたタペストリーを外して彼女の手元に引き寄せた。鳥の模様が描かれたものだったが、女が無造作に息をそれに吹きかけると様相がまるで変わった。手品のようだった。鳥はタペストリーの中から浮き上がり、実体を持って翼を広げ、こちらへ飛んでくるではないか。「すごーい! 魔法使いみたい!」エリカが手を挙げてはしゃいだ。
「この子があなたの声になってくれるはずよ」
女はその鳥をエリカの肩に乗せた。瑠璃色の翼と紅色の尾羽を持つ、小さな極楽鳥のようだった。
「さあ、話してみて」
そう言われたので僕は試しに「こんにちは」と唇の動きだけでその鳥に語りかけてみた。
すると、
『こんにちは』
鸚鵡返し。鳥は僕の言葉をそっくり真似てしゃべった。
「この子は、あなたの唇の動きを読んでそのまま声に出すの。どう、面白いでしょ?」
「おもしろーい!」
エリカはやはりはしゃいでいる。
うん、これは確かに面白い。というより、すごく便利だ。
「ここをひねるとね、声が変わるのよ」
女は鳥の脚についていた金属の輪に触れ、何か操作したようだった。たちまち、鳥はいろいろな人間の声で『こんにちは』としゃべりだした。子供の声も、老人の声も、女の声も、男の声も、鳥は話せるようだった。
『随分たくさんバリエーションがあるんだな』
鳥に鸚鵡返しされながら女に言うと、
「そうね。ケリフになった人の数だけあるんじゃないかしら」
女は悪戯っぽく笑った。ありえない例えだとはいえ、妙に引っかかる言葉だ。それに、この短時間でこんなものを用意できるなんて、どう考えてもただ者じゃない。エリカが好みの声を選び終わるのを待って、僕は改めて尋ねた。『あなたは何者なんだ?』
「何者? それは私が答えることじゃないわ」
『というと?』
「あなたが見い出し選ぶこと、判断することよ。それがどんなものであれ、あなたにとっての真実になるわ。この森ではね」
よくわからない答えだ。適当にはぐらかされたのだろうか。
『じゃあ、あなたの名前は?』
「名前? ふふ、そうね……どんなのがいいかしら……」
女はまた悪戯っぽく笑った。そして、ふと思いついたように「鎖姫……サキというのはどうかしら?」と言った。
『サキ? それがあなたの名前?』
「ええ、鎖姫(Chained princess)だと響きがいまいちでしょう? だから読みを変えたの。私の母語に従ってね」
またよくわからない答えだが、とりあえず便宜上、彼女の名前はサキということになったらしい。
『じゃあ、サキ。僕の名前はライムストーンだ。彼女は――』
「エリカだよー!」
と、エリカがまた僕達の間に入ってきた。サキは彼女の髪を撫でながら「そう、よろしくね。ライムストーン、エリカ」と艶笑した。
『それで、僕達は一言で言うと迷っている』
「あらゆることに?」
『ああ、そうだ。この森で、僕達はあらゆることに迷っている』
「そう。じゃあ、迷いが晴れるまでここにいるといいわ」
サキの答えはひどくシンプルだった。
それから、サキは僕達に言った。
「森を歩きまわって、疲れたでしょ。お風呂を用意してあげるわ。体にたまった酸素もすぐに抜けるような熱いお風呂をね」
そういうわけで、僕達はそのアメジストの城の風呂に案内された。
そこはやはり浴槽も壁もランプも豪奢で、きらびやかで、アメジスト色だった。円形の浴槽は人が二十人は入れそうなぐらい広くて、下から泡がもこもこと沸き上がっていた。泡風呂らしい。肩まで浸かると実に気持ちがよかった。なんだか本当にどこかのお姫様に賓客として招かれた気分だ。リラックスして、伸びをし、腕を思い切り浴槽のふちに広げた。別室の風呂に入ってるエリカも、今頃は大いに満喫していることだろう……。
と、そのとき急に、先ほどの獣がバスルームに入ってきた。そして、あろうことか、いきなり浴槽に飛び込んできた。ざぶん。お湯が豪快にこぼれた。
な、なんなんだいきなり……。
目を丸くせずに入られなかった。獣は実にすました顔で湯に浸かっている。その背中の銀色の部分から湯気のように白い煙が出てくる。
「こうやって毎日酸素を抜かないと、この子の体は錆びてしまうのよ」
と、今度はいきなり隣から声が聞こえた。はっとして振り返ると、サキが立っていた。い、いつのまに……。とっさに腕やら足やらを組んで、見られても恥ずかしくない体勢をとった。
「あら、隠さなくても」
サキは笑って、浴槽のふちに腰かけた。しゃりん、と、その身に付けている鎖が鳴った。
『エリカと一緒にいるんじゃなかったのかい?』
「あの子はもう上がったわ。今はシャーベットを食べてるんじゃないかしら?」
『そうかい。じゃあ、僕もそろそろ上がろうかな』
こんな状態ではちっとも落ち着かないし。角度を工夫しつつそろそろと腰を上げる――が、とたん、
ざぶん。
獣が僕のほうに覆い被さってきた。やはり湯を豪快にこぼしながら。また、なんなんだよ、いきなり! 溺死しないように、あわてて浴槽から這い上がった。今ので、お湯をしこたま飲んでしまった。
「この子はあなたが好きなのね。女の子だし」
女の子? メスなのか、こいつは? というか、性別がちゃんとある生き物だったのか?
「それで、あなたに巻いて欲しいみたい」
『巻く? 何を?』
「ネジを」
『…………ネジ?』
ちょっと待て。こいつはネジで動いてるのか? そういうメカニズムなのか?
「基本的に光と綺麗な水さえあれば、この子達は生きていけるの。でも心臓だけは別。一日二回、ネジを巻かないと止まってしまうのよ。やってくれるかしら?」
『いや、あの、どこにそんなものが……?』
「ここよ」
サキの鎖がまた手のように動き、獣の頭の後ろを指した。見ると、角の下にいかにもネジっぽい突起物があった。
『これを回せばいいのかい?』
「そうよ。時計回りに、なるべくたくさん。……あ、反対に回してはダメよ、絶対に」
『反対に回すとどうなるんだい?』
「大変なことになるわ」
よくわからないが、言われたとおりにやったほうがよさそうだ。獣の頭の後ろに手を伸ばし、ネジを時計回りに巻いた。僕がそうすると獣はうれしそうにクルクルと鳴いた。
「本当はね、樹機獣は仲間同士でネジを巻きあうの。でも、この子は最後の一匹だから、毎日私がこうしてあげないと」
『最後の一匹、か……』
そういえば、数が減りつつあるってあの老婆が言ってたっけ。
「あら、他にどこかで見たの?」
『いや、少し夢を見ただけだよ』
あの村が消えてからどれくらい月日が流れたんだろう。十年? 五十年? 百年? 時計回りにネジを巻きながら、ぼんやり考えた。まるで失われつつある時間を獣の体に補充するような作業だ。
「この子達にとって、ネジを巻かれることは愛の行為でもあるのよ」
『へえ……』
愛か。ネジ式の次はそう来たか。もう驚く気にもなれない。
「つまり、この子は今、あなたに心臓を預けながらとてつもない歓びに震えてるの。わかる?」
『わからないよ』
どうでもいいよ。
「あら、わからない? 例えば、こう――」
と、サキの鎖が急に首に絡み付いてきた。そして――強く締め付けてきた!
『な……何を……!』
苦しい! いったい、何の真似だ! もがくが、鎖はなおいっそう首に食い込んでくる。
「ほら、こうして――」
サキはさらにもう一本、別の鎖を動かしたようだった。それは蛇のように人の手のように滑らかに僕の体の上を這いまわり、絡みつき、緊縛してきた。そして、とある場所を捕えると、その先端は細やかな動きに変わった。
「……っ!」
それは舌で舐められているような感覚だった。思わず、熱い息が漏れた。
「どう? 首を締められながら責められるのは? ゾクゾクするでしょ?」
『は……なせ……!』
「あら、もうこんなに感じてるのに?」
サキは形のよい唇に舌を這わせながら微笑した。鎖がさらにきつく、さらに淫靡に蠢く。呼吸も出来ないほど苦しいのに、体が熱い――。
「ふふ……冗談よ」
と、そこで急に戒めが解かれた。鎖はまたたくまに僕から離れ、サキの体に戻っていく。どっと力が抜けるようだった。大きく息を吐いて、浴槽に背を預けた。冗談だって? 何をバカな……。
「怒ってる?」
『あ、当たり前だろう! いきなりこんな――』
「そう? でも悪くない反応だったわよ? 案外こういうのも楽しめたりして」
『ふざけるな!』
「ふふ」
サキはまるで悪びれる様子もない。相変わらずにこにこと笑っている。とことん、つかみどころのない女だ。
『だいたい、なんであんたは鎖をこう変なふうに動かすんだ? 何をするにしても普通に手を使えばいいじゃないか。そんなにものぐさなのかい。縦のものを横にするのも面倒って具合にさ』
腹立ち紛れに、けちをつけてみた。
すると、
「あら、気がついてなかったの?」
サキは少し驚いたように目を丸くした。
『気づくって、何を?』
「私の手を握ってみればわかるわ」
『握るって? こう――』
と、サキの腕に手を伸ばすと――、
『……あれ?』
ない! あるはずの手が、いや体がそこにないではないか。これはもしや……。
『お化け……じゃなくて、立体映像?』
「そんなところね」
なるほど。道理で会ったときから手を鎖みたいに使ってたわけだ。実体がないわけだし。
でも、なんでそんな状態に? 人間じゃないのか、彼女は? もしや、やっぱり亡霊……?
「この鎖は、私をこの森に留めるためのくびきなの」
『くびき?』
「そう、そして同時に、私を象るための影」
つかみどころのない女らしく、実につかみどころのないことを言う。
「さあ、あなたもそろそろ上がったら? このままではあなたのスープが出来てしまうわ」
サキは立ち上がり、バスルームを出て行った。獣が一声鳴いて、それに続いた。
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