一章 鉄の村 2

 外に出ると、日はもうすっかり暮れていた。村の粗末な建物の中に、オレンジ色の光が灯っていた。それは地上でひっそりと燃えるかがり火のようだった。濃紺の空は、それらのか弱い光に惑わされることなく、悠然と闇をたたえていた。星がそこにいくつも瞬いているのが見えた。中心には黄金色の光を放つ、半円形の、ひときわ大きな星があった。


 あれは、何だろう?


 僕はその輝きを知ってるような気がした。じっと夜空を、その星を見つめた。


 すると、


「月がそんなに珍しいかい?」


 老婆がささやくように言った。


 月? そうか、あれはそういう名前の星か。


 それは不思議と、とても懐かしい響きに思えた。


「でもね、あれは本物じゃないんだ」


 老婆はさらに独り言のように言った。僕と同じく夜空を見上げながら。月の光が、幻のようにその老いた皺だらけの顔を照らしている。


「人がこの星にやってきたとき、空に浮かべたまがいものなのさ。それがそのままずっと残ってる」

『どうしてそんなものを空に浮かべたんだろう?』


 僕は紙にペンを走らせて、老婆に尋ねた。彼女は、さあね、とため息を漏らした。


「きっと恋しかったんだろう。生まれ故郷の星が。だから、少しでもそこと似たような景色にしたかったんだろうね。あたしはそう思う。ここは日の光も、一日の長さも、気温も、あたしら人間が生まれたところとほとんど一緒らしいからね」


 老婆の横顔に、ふとさみしげな影が宿って見えた。


 それから僕達はゆっくりと村を歩いた。まだそれほど夜は更けていなかったが、村は静かだった。おだやかというよりは、精彩を欠いたような静けさだった。一つ一つの家屋の中から、押し殺したような人の息遣いが感じられた。まるで、それらは僕達が砂利道を歩く音に怯えているかのようだった。


「なにもない、つまらないところだろう?」


 老婆はそれらの気配を払拭するように、明るく大きく言った。


「それにとびきり辛気臭い。いやなところに来たもんだね、あんたも」

『それほどでもないと思うけど』


 僕はせいいっぱいお世辞を言った。「はは、そうかい」老婆は僕が渡した紙をランタンの光に照らしながら笑った。


「仕方ないのさ。みんなあの森に飲まれちまうのが怖いんだ。それで毎日、ビクビクしながら暮らしてる。最近、また一つ大きな街がなくなったそうだしね」


 まるで他人事のような口ぶりだ。彼女は「森に飲まれる」ということが怖くないのだろうか。


「この星はもうダメさ。そしてここは、そんなどん詰まりの星の中でも特にどん詰まりの村だ。今は何とかやっていけてるが、あと何年もつのやら……」

『森を焼き払ったりは出来ないのかい?』

「ああ、はじめはみんなそうやったらしいね。火を使って、薬を使って、大きな機械を使って、あの森をどうかしようとしたらしい。でも無理だった。森は広すぎるんだ。大きすぎるんだよ。何をやってもすぐ元通りになっちまう。だから、結局みんな逃げちまったのさ。あたしら貧乏人を置いてね。バカな話だよ。元は人間が撒いた『種』だってのにね……」


 老婆は重く息を吐いた。


『助けはこないの?』

「助け? さあて、ね……」


 鼻で笑われてしまった。とても愚かなことを聞いたようだった。


「……あんたは、善人だね。良くも悪くも人がいい。あたしはそんな気がするよ」


 と、老婆は思いついたようにつぶやいた。


「そんでもって朴訥で、誠実で、正直で、嘘がヘタだ。どうだい、当たってそうかい?」

『うーん?』


 そう言われるとそんな気もするし、そうじゃない気もするし。首をかしげるしか出来なかった。


「なんだい。ちっとはババアの勘を信じてごらんよ。あんたは、たぶんそんな人間だよ。そんでもって、あんたの口は昔は言葉が喋れたって感じだ。どこかで声を落としたんだね、あんたは」

『声を?』

「そうだ。あんたの『無口』は生まれつきのもんじゃない。これもたぶん、間違いのないことだよ」


 老婆は自信たっぷりだった。


『そうかもしれないな』


 僕もそう思えた。ルカに何かを伝えようとするとき、知らず知らずのうちに口が動くことがあったからだ。きっと、老婆の言う通り、僕は昔、声を出すことができたんだろう。そして、あの森でそれを失ってしまったんだろう。過去の記憶と一緒に。そんな気がした。


 やがて、僕達は村の外れに来たようだった。ドームの外にたくさんの男達が集まって、何か作業をしているのが見えた。裸電球の灯りの下、彼らは一様に防護服をまとい、鉄で出来ているらしい塔を囲んでいる。塔のそばには、大きな鉄の塊のようなものがあって、その前にうずくまって何かしている男もいるようだ。


『あれは? 彼らは何をしているの?』


 老婆に尋ねた。


「電波塔を作ってるのさ。遠くに救援信号を送るためのもんだとよ」

『救援信号? じゃあ、あれが完成したら、誰かがここに……?』

「ああ。もしかしたら来るかもしれないね」


 彼女はまるで期待してないようだった。


『じゃあ、あれは?』


 僕はさらに、塔のそばの鉄の塊を指した。裸電球の灯りは薄暗く、それが何なのか、僕のいるところからはよくわからなかった。


「あれは樹機獣の死骸さ。今日はたんまり獲れたらしいからね。男どもも浮かれてるのさ」

『樹機獣?』

「おや。それも忘れちまったのかね? 森に棲んでるんだよ。体に草を生やした、機械仕掛けの獣がねえ」


 老婆は顔をランタンの光で下から照らしながら、おどろおどろしく語った。『そりゃあ、怖いな』僕は震えるふりをした。


『でも、そんなの僕達は一度も会ってないし、鳴き声みたいなのも聞かなかったけれど?』

「数が減ってるらしいからね。樹機獣狩りでなんとかやっていってるこの村も、やばいところなんだよ」


 そう重く息を吐いて、「売りさばけないパーツは、ああして塔の材料にするのさ」と、さらに説明した。


 僕は改めて、その塔を眺めた。それは土台の直径が十五メートルほどあって、かなり大掛かりなもののようだった。完成したらどれくらいの高さになるだろう? 今は地上から二十メートルほどまでしか出来上がっていなかった。


『あんなに高い塔が必要なのかい?』


 僕はふと、老婆に尋ねた。老婆は「さあねえ」と、やはりどうでもいい感じに答えた。


「塔の高さとか、きっとどうでもいいことなんだろうね。でも、あの連中は言うんだ。塔が高ければ高いほど、遠くに信号が送れるだろう、って」


『そんな単純なもんなのかな』

「単純なのさ。あの連中にとってはね」


 老婆は呆れたように薄く笑った。


「それにね、どうせ作るなら、なるべく完成に時間がかかるほうがいいのさ。出来上がってしまったら、あの連中のやることはなくなる。終わっちまうんだよ、そこで、何もかもが」


 わかる気がした。あの男達の動きは、みなきびきびとしていて、村の中の様子とは対照的に活気があふれているようだった。


「手を伸ばしても月には届かない。月の光を手に入れることは出来ない。でもね、人は月をバターみたいに溶かすことは出来るんだ。人生なんて、そんなもんさ。確かなものなんてどこにもない。ただ、信じるだけだ。自分の都合のいい真実をね」


 老婆はまた、月を見上げて独り言のように言った。その眼差しは、全てを悟っているようにも、全てを諦めているようにも見えた。


『月をバターみたいに溶かすって?』


 気になって尋ねた。


「昔の歌さ。【Like a Butter moon,streaming your worlds.(バターの月、流れていく世界)】ってね」


 老婆はそう言うと、ふと、懐かしそうに歌を口ずさみだした。



 かたつむりは無理強いしない

 ツバメは気分屋だ

 バターの月 流れていく世界

 それは僕達だけの秘密



 不思議だった。聞いていると、胸の奥が熱くなっていくのを感じた。


「そうかい。あんたもこの歌を知ってるんだね」


 老婆は僕の反応に敏感だった。『たぶん』と、僕はうなずいた。泣きたい気分だった。


『その歌はそれだけ? 続きは?』


 もっと聞きたかった。何かが思い出せそうな気がした。


 しかし老婆は、「さあねえ。あったと思うが、もう忘れちまったよ」と首を振るだけだった。


 と、そのとき、


「あ、ババさま! ババさまだ!」


 暗がりから小さな子供達が集まってきた。


「ねえ、なんかちょうだい」

「ちょうだい、ちょうだい」

「おなかがすいたの」


 子供達は老婆を囲み、いっせいに手を差し伸べた。その身につけている衣服は、穴が空いていたり擦り切れていたりでボロボロで、その肌は、ほのかな月の光と下でもはっきりわかるくらいに垢で汚れていた。


「あ、この人だーれ?」


 と、その一人が僕のマントをぐいと引っ張った。僕は思わず、そちらのほうに体を傾けてしまった。はずみで、フードが頭から外れる。


「あー、白い髪!」

「白い顔! ケリフだ、ケリフ!」


 子供達はたちまち興奮したようだった。しまった、と思った。あわててフードを被りなおした。


 しかし、


「ねえ歌って、早く歌って!」

「おいら達をケリフにしてー」


 その反応は昼間の男達のそれとはまるで違っていた。なぜかみんな一様にはしゃいでいる。


『君達は、ケリフになるのが怖くないのかい?』


 ためしに尋ねてみたが、彼らは字が読めないようだった。僕の渡した紙をランタンの光に透かしながら不思議そうに眺めている。


「ねえ、ババさま、なんて書いてあるの、これ?」

「ああ、これかい。『よい子は早く寝ましょう』だとさ」


 老婆は適当なことを言った。「えー、つまんな-い!」子供達は頬を膨らませた。


「いいから、今日はとっととお休み。これをあげるから」


 老婆は懐から何か小さなものを取り出して、子供達に握らせた。キャンディーだろうか。受け取った子はみな喜んでそれを口に入れた。そして、それで満足したのか一人、また一人と、暗がりの中に消えていった。


「ケリフになれば毎日歌って暮らせる。もうひもじい思いをすることも、大人にバカにされてみじめな思いをすることもなくなる。あの子達は、誰かがそう言ったのをずっと信じてるのさ。バカげた話だよ。あんたもそう思うだろう?」


 老婆は僕の顔を仰いだ。僕はどう答えればいいのかわからなかった。森で見かけたあの白い人達はとても幸福そうだったし、今見た子供たちはとても不幸に思えた。


「……あんたもそう思うのかい」


 やがて、老婆は悲しそうに息を吐いた。


 それから、僕は元の地下室に戻った。


「あんた達はこれからどうするんだい?」


 別れ際、地下室に続く階段のところで、ふと老婆が尋ねてきた。


「どこか、行くあてはあるのかい?」


 僕は首を振った。


「そうかい。なら、いっそしばらくここにいるかい? 周りの連中にはあたしがうまいこと言っとくからさ」


 老婆はやさしく微笑んだ。『ありがとう』僕はまず礼を言った。そして、ゆっくりと首を振った。


『申し出はすごくうれしいと思うけれど、ここの料理は僕達の口には合わないよ』

「そりゃあ、すまなかったね」


 老婆は僕が渡した紙を見たとたん、からからと笑った。別に嫌味を言ったつもりではなかったし、老婆もそれをわかっているようだった。あのまずいスープが、この村では当たり前の料理なのだろう、きっと。


「なら、これを渡しておこうか」


 と、老婆は僕に、地下室のカギを差し出した。


『? これを僕が持っていると、誰も外からカギをかけられないんじゃ?』

「いいんだよ。カギなんて。あすこで一休みしたら、勝手に村を出て行くといい。あのちっこいお嬢ちゃんを連れてね」


 周りの連中にはあたしがうまいこと言っとくからさ、とまた老婆は言った。


『ありがとう』


 僕はカギを受け取った。金属製のカギは固くて冷たくて、けれどそれを包む老婆の手はとてもやわらかくあたたかかった。


「じゃあね、ちゃんと休むんだよ」


 老婆はそこで踵を返し、階段を登り始めた。しかし、僕はふとその肩を叩き、呼び止めた。


 そして、こう紙に書いて渡した。


『ここの人はきっと人のまま幸せになれる。あの塔はちゃんと完成するし、助けも来る。あの子達もおなかがすくことはなくなる。僕はそう思う』


 それはやはり、とても愚かな言葉だったのかもしれない。


 けれど、やがて老婆は、


「……あんた、ほんとにいい男だね」


 かすれた小さな声でこう呟いた。






 地下室に戻り、扉を開けた瞬間、中からルカが飛び出してきた。


「ライム!」


 彼女はぎゅうっと僕の胸に抱きついてくる。ちゃんと毛布を被っていなかったのだろうか、その体はすっかり冷え切っているようだった。


 どうしたんだろう。


 僕はただちにしゃがみ、ランタンの光で彼女の顔を照らした。すると、そのまぶたは赤くなっていて、まなじりと頬に涙の流れた跡があった。


「……お前が、いないから……私は……」


 ルカはすっかり涙声だった。なおも僕の首にしがみついてくる。


「私は……変になってしまった。動悸がして、呼吸が上手く出来なくて……涙が出た……」


 そうか……怖かったんだね。


 僕は彼女の震える小さな体を抱きしめて、背中をさすった。


「怖かった? 私が……?」


 そうだよ。ごめん、一人にして。


「そうか。私は、怖かった、のか……」


 鼻をすすりながらつぶやくのが耳元で聞こえた。こんなになってもなお自覚がなかったのだろうか。


 もう大丈夫だよ。僕がついてるから。


「本当に? また遠くに行ったりしないか?」


 しない。約束するよ。


 僕は彼女の顔をのぞきこみ、笑った。


「約束……だぞ?」


 黒い瞳から涙がすうっと引いていくのが見えた。


 と、その瞬間、


 ――約束だ。


 誰かの声が頭の中に遠く響いた。何だろう? これは僕の記憶……?


「ライム、どうした?」


 ルカが不思議そうに顔を近づけてきた。


 なんでもないよ、と僕はかぶりを振った。曖昧な記憶よりも、今はルカのほうが大事だ。


 それから、僕はルカを着替えさせた。彼女はずっと素肌に僕のジャケットを引っかけただけの格好だった。冷えるわけだ。老婆が持ってきた色あせたワンピースと下着を彼女に渡した。彼女はすぐに裸になって、それを身につけた。相変わらず羞恥心なんてみじんもないようだった。目のやり場に困った。


 着替えが終わったところで、彼女の手の指先が血で赤くにじんでいるのに気づいた。どうしたのか尋ねると、「扉を開けようとした」と彼女は答えた。


「押しても、叩いても、扉は開かなかった。私の力ではどうすることもできなかった」


 なるほど、どうやら、扉を開けようとしている間に出来た傷らしかった。僕は彼女の手をとって、ランタンの光に晒した。全ての指先が、同じように赤く擦り剥けていた。すごく痛そうだったが、僕が傷口にさわってもルカは平然としていた。痛くないのかい、と尋ねると、彼女はうなずいた。


「何も……感じない」


 痛みも?


 僕はやはり、とてもショックだった。こんなになってるのに痛みを感じないなんて。


「どうしてそんな顔をする。私も痛みを感じたほうがよいのか?」


 僕はあわてて首を振った。いや、いいんだ。痛みなんて感じないならそれで……。


「しかし、お前は感じるのだろう?」


 と、ルカは何を思ったのか、僕の指を口に含み、思い切り噛んだ。


「……っ!」


 痛い! 痛すぎる!


 思わず飛び上がった。


「ライム、逃げるな。その手を貸せ」


 ルカは僕がとっさに引っ込めた手、つまり今自分が噛んだ唾液まみれの手をつかみ、引き寄せた。そして、自分の指と絡めた。


「……こうすれば、あるいは」


 それは探るような手つきだった。何をするつもりだろう。僕はされるがままに、彼女の様子をじっとうかがった。彼女は神経を集中するように目を閉じて、難しそうな顔をしている。じんじんと痛む指先に彼女の指の感触が重なる。


 やがて、


「……なるほど」


 彼女は目を開け、僕の手を離した。


 今ので何かわかったのかい?


「ああ。お前の痛みが伝わってきた……ような気がした」


 ような気が?


 僕はおかしくて笑ってしまった。


 痛みなんて、感じなければそれにこしたことない感覚を知るために、こんな突飛なことをしたなんて。


「確かに、あまりよいものではないようだな。痛みというものは……」


 彼女は実に真面目腐った顔で、指先を撫でている。本当に今ようやく初めて、痛みというものを感じたようだ。


 どうして、君はそんな当たり前の感覚がないんだろう?


「……わからない」


 ルカは困ったように首をかしげた。


 わからない? じゃあこれは――。


 僕はふと思いついて、ルカの体を再びぎゅっと抱きしめた。


「ライム? どうしたのだ?」


 こうやってると、何か感じないかい?


「何か? 何だ、それは?」


 あったかくないかな、僕の体?


「あたたかい? それは……どうだろう……」


 彼女はまた目を閉じ、しかめ面になってしまった。僕の感覚を読み取ろう、感じ取ろうとしてるのだろう。僕は息を飲んでその様子を見守った。今感じているこのぬくもりが、ほんの少しでも伝わったらいいなと思った。


 やがて、


「む……! わかったぞ、ライム」


 何か発見したように彼女は目を見開いた。なんだか反応がおかしいような気がするが、ちゃんと伝わったのだろうか?


「間違いないぞ。これはきっと……好ましい感覚だな?」


 彼女は確かめるように、さらにぎゅうっと体を寄せてきた。その長い髪が胸元に絡み付いてきて、くすぐったくなってくる。僕は笑って、彼女から少し離れた。安堵の気持ちで一杯だった。


 たぶん、僕があの森で声を無くしたように、君もあの森で何かを失ったんだろう。


「失った? そうだろうか……」


 そうだよ。だから少しだけいろんなことに鈍くなってるんだ。


 僕は彼女の肩に毛布をかけながら、心の中でささやいた。


 何か、思い出せることはあるかい、ルカ?


「私自身のことか?」


 そうだ。何でもいい。


「…………」


 彼女はふと、遠い記憶をさぐるように、地下室の暗がりをじっと見つめた。そして、やがて、「闇だ」と、呟いた。


「闇……このような闇の中で私は生まれた。いや――呼ばれたのだ」


 呼ばれた?


「そうだ。エリカという娘が私を呼んだ」


 エリカ? それは誰?


「彼女は私を姉と言っていた」


 じゃあエリカというのは君の妹?


「……そうなるのだろうか」


 彼女の答えは曖昧だった。記憶がはっきりしないのだろう、きっと。


 そうか。じゃあ君には家族がいるんだね。エリカという名前の女の子が。


 僕はとりあえず今聞いたことをまとめた。そして、これから一緒にその子を探そう、と、彼女に伝えた。


「探す? エリカを?」


 そうだよ。妹なんだろう? もしかしたら生きてるかもしれない。君に会いたがっているかもしれない。


「……わかった。そうしよう」


 ルカは自信なさそうにうなずいた。


 それから、僕達は毛布にくるまって横になった。ルカはさっき眠っていたせいか、なかなか寝付かなかった。時折思いついたように、僕の顔をつねって「痛いか?」と尋ねてきたり、ぎゅうっとしがみついてきて「あたたかいことは好ましいことだ」と、しみじみ呟いた。僕はそれらに適当に相槌を打った。いい加減眠かった。


 やがて、懐の中から安らかな寝息が聞こえてきた。ようやく眠ったようだった。


 それにしても……変な子だな。


 ふと、今までの一連の出来事を思い出して、おかしくなった。そして、彼女のことをもっとよく知りたい、彼女の笑った顔を見てみたいと思った。そう、それはきっと、とてもかわいらしいに違いない……。


 あの森で失ったものを取り戻せば、ルカも笑えるようになるのかな。


 それが何なのかはわからなかったけれど、もしそうなら、絶対に取り戻さなくてはいけないと強く思った。





 歌が聞こえた。誰かの――鼻歌だ。


「エセル、まだ終わらないの?」


 誰かが言った。――誰だろう?


「バカね、こういう準備が大事なのよ」


 その誰かに答える誰か。いや、若い女だ。そして、ここは――どこかの楽屋のようだ。女はその化粧台の前に座って、鏡の中の自分の虚像に向かって目を見開いたり笑顔を作ったりしている。化粧をしているのだろう。紅色のカクテルドレスを着た、赤毛の、よく整った派手な顔立ちの女だ。鼻歌を歌いながら、口紅を塗ったりしている。


「ねえ、またその歌?」


 と、誰かの声。


「あなたはこの歌、嫌いだっけ?」


 女は鏡をのぞいたまま、振り返らずに言う。誰かは「別に」と不機嫌そうに答える。


「変な歌だなって。それなのに、エセルはその歌好きだなって、ただそう思っただけ」

「変な歌じゃないわ。情熱的な恋の歌よ」

「どこが? 変じゃないか。バターの月なんて……」

「最後まで歌えば、あなたもわかるわ」


 と、女はゆっくりと歌を口ずさみ始めた。



 かたつむりは無理強いしない

 ツバメは気分屋だ

 バターの月 流れていく世界

 それは僕達だけの秘密


 雄牛は強がりを言って

 森は君を連れて行く

 バターの月 溶けていく夢

 それは瞳の中で溺れる月




 と、そこまで女が歌ったときだった。大きな音が――ブザーのような音が楽屋いっぱいに響いた。


「そろそろ私達も行かなくちゃ」


 女は化粧台の前から立ち上がった。





 目を開けると、あたたかい雫が頬を伝うのが感じられた。涙だ。夢を見ながら、僕は泣いていたようだった。


 エセル……バターの月……。


 それは僕のなくした過去、失った世界に違いなかった。再び目を閉じてあの女の顔を思い描いたが、もはやその輪郭はおぼろだった。胸の奥が焼けるように痛んだ。思い出せないことが、とても悲しかった。


 しかし、そこで、ルカが隣にいないことに気づいた。起き上がり周りを見回したが、やはり彼女の姿はどこにもない。暗い地下室に僕一人っきりのようだ。ランタンもない。


 どこへ行ったんだろう。


 気になった。すぐに探しに行こうと、暗い中、外に向かって歩いた。


 と、そこで今度は、地下室の扉が昨夜とはまるで様子が違っているのに気づいた。ルカが「押しても叩いても開かなかった」と言うほどに堅牢な金属製の扉だったはずなのに、今はすっかり錆び付いていて、ボロボロだ。


 これは、どういうことだ?


 一晩でこんなになるなんて変だ。何かあったのだろうか。胸騒ぎがした。足を速めて、地上に向かった。もうすっかり夜は明けてるようで、階段を登るたびに、周りはどんどん明るくなっていく。


 やがて、階段を登りきったところで、僕は自分の目を疑った。


 階段を登ったすぐ上には空があった。昨日まであったはずの天井が、いや建物そのものが消失しているのだ。


 さらに周りを見回してみても、家屋らしいものはどこにもなかった。周囲は一面のみどりの世界で、ただ木々が生い茂っているばかりだった。


 ここはいったい……どこだ?


 混乱せずにはいられなかった。確かに、ゆうべはここに村が、人々の営みがあったはずだ。それなのに、今は何の跡形もない。村を覆っていたはずのドームもすっかりなくなっている。


 ルカはどこにいるんだ?


 ひどく気がかりになった。彼女は無事だろうか。すぐに辺りを探した。


 すると、やがて何か――いや歌声が聞こえてきた。そう、聞き覚えのある少女の声が。


 よかった、無事だったんだな。


 僕は歌声が聞こえてくるほうに急いだ。彼女は一人で歌っているようだった。あの白い人々のものと比べると、まるで拙くて幼い歌い方だったが、僕はむしろそれに安心した。耳を済ませつつ、足を速めた。


 近づくにつれ、歌はよりはっきりと聞こえてくる――。



 なみだはうたかたに

 こころは空に

 金と銀の光重ねて

 二匹の魚飛んでいく

 海の底に飛んでいく



 と、そこまで聞こえたところで、僕はようやく彼女の前に躍り出た。彼女は、ルカは、大きな樹の根元にぽつねんと腰かけていた。その顔も、黒く長い髪も、色あせたワンピースも、昨日見たときのままだ。よかった、本当に。僕は少し呼吸を整えてから、おもむろに彼女に歩み寄った。


 と、そのとたん、


「……だれ?」


 ルカは、びっくりしたようにこちらに振り返った。


 誰って、僕だよ。ライムストーンだ。


 僕は彼女の手をとって意志を伝えた。しかし、彼女は不思議そうに僕の顔を覗き込んでいるばかりだ。


 そして、


「ねえ、お兄ちゃんだれ? わたしのこと、知ってるの?」


 まるで、今会ったばかりのように尋ねてきた。その幼い口調も、表情も、今までのルカとはまるで違っていて、別人のようだ。これはどういうことだ? こちらの考えてることも伝わっていないようだし。強い戸惑いを覚えた。


「お兄ちゃん、どうしたの? なんで、何も言ってくれないの?」


 ルカは、だんだん不安そうな顔になってくる。彼女は僕が口が聞けないことすら覚えてないのだろうか。


 僕はそこで、ゆうべ老婆にもらった紙とペンを懐から出して、こう書いた。


『ルカ、僕が誰なのかわからないのかい?』


 ルカは少しのあいだそれをじっと見ていたが、やがて、


「違うよ、お兄ちゃん。わたしはルカお姉ちゃんじゃないよ。エリカだよ」


 と、答えた。

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