三章 銀の街 4

 僕はもう「テディ」という少年ではなくなっていた。髪や肌は白くなっていて、声も出なくなっていた。そう、僕は「ライムストーン」という一人の青年だった。


 走りながら、あの日の記憶が思い出されてきた。あの日、僕は確かにルカと出会った。そして、約束した。また次の日も同じあの場所で会おうって。でも、翌日、ルカはそこにこなかった。その次の日も、またその次の日も、彼女はこなかった。僕は彼女を探した。でも、街は広かったし、僕は彼女の名前すら知らなかった。ほんのわずかの手掛かりすらも、見つけることが出来なかった。やがて、あの綺麗な女の子にはもう二度と会えないのだと気づいた。


 それから、なにもかもが上手くいかなくなった。歌の仕事はどんどん減っていき、僕達の生活は荒み、壊れていった。そして、ある日、僕のギターがなくなった。僕は強く狼狽した。「もう歌わなくていいの」骨と皮だけになったエセルは僕に言った。けれど、僕は歌を諦めることができなかった。歌い続けていれば、いつか必ず美しく幸福なところへたどり着けるはずだと、そんな夢を見ていた。


 あの日なくしたギターは今、僕の腕の中にあった。


 声はまだ戻らない。でも、僕にはもう自分が何をすべきか知っていた。そうだ、あの涙の海の歌だ。僕はそれを彼女に聞かせなくてはいけない。きっとルカはずっと待っている。まるで冷たく暗い海の底で僕を待っているように……。それがはっきりとわかった今、迷いも恐れもなかった。どこまでも探そう。あのとき救えなかった彼女を――。


 屋敷に着いたとき、あれから何度訪れてもあったはずの「売家」の看板は門になかった。家の中は暗かったが一部屋だけ灯りがついていた。あそこに僕が求めるものがあるに違いない。すぐに門をくぐり、鍵のかかっていなかった玄関から家の中に入った。


 唯一灯りがついている部屋は一階の奥にあった。子供部屋のようだった。子供用の小さな寝具や椅子やテーブルが置かれており、壁際にはぬいぐるみがたくさん並べられていた。窓際には、ピッグテールの黒い髪の女の子がいた。今は寝転がったまま何かしているようだが、窓のほうを向いているのでよくわからない。その白いふくらはぎが落ち着きなく遊んでいるのが見える。


「あ、こないだのお兄ちゃん?」


 やがて、彼女は、エリカは僕に気づいて振り返った。見ると、その胸の前に何か本が広げられているようだった。そしてさらに奥には黒い髪の少女の人形が置かれている。


「今日はね、ママはお友達とおでかけしてるの。だから、ルカお姉ちゃんとお留守番なの」


 エリカはにっこり笑うと人形を持ち上げ、僕に見せびらかすように振り回した。「お留守番でも、ルカお姉ちゃんと一緒だから、さみしくないんだよ」その無邪気な表情に、胸を深く刺される思いだった。二人はもともと一人なんだ。でも、エリカはそれを、自分が切り離した痛みからルカという女の子が生まれたことを知らないんだ。だから、こうやって笑っていられるんだ……。


「お兄ちゃんどうしたの? 元気ないよ?」


 と、エリカが不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。


 そして、


「そうだ、わたし、お兄ちゃんにこの本読んであげる」


 さっきまで読んでいたらしい本を掲げた。絵本のようだった。表紙には若い女と、白いフクロウが描かれている。タイトルは『涙の海の娘』とある――。


 これは……。


 間違いない。これこそ、僕の探していたものだ。


「お留守番のときは、いつもルカお姉ちゃんと一緒に読むの。わたしの大好きな本なんだよ。えっとね……」


 エリカはおもむろにページをめくり読み始めた。僕は彼女の後ろに回り、その絵本を覗き込んだ。




 昔、あるところに、金色の髪をもつ、一人の娘がいた。

 赤ん坊のときに森に捨てられていたのを、魔女に拾われて育てられた娘だった。

 娘は大変美しかったが、森から出ることがなかった。

 魔女は、いつも娘に言っていたのだ。

「娘や。お前は決して街や村に行ってはいけない」

 そして、もうひとつ。

「娘や。お前は決して鏡や水に映る自分の姿を見てはいけない」

 娘はその言い付けを守った。

 街や村に行ってみたいと思いながらも森から出ることはなく、自分の姿を知りたいと思いながらも鏡を見ることはなく、鳥や動物相手に歌を歌って過ごしていた。



 そんなある日のことだった。

 銀の羽を持つフクロウが、娘のところにやって来た。

「おや、なんて美しい娘だろう。私はあなたに恋をしてしまったようだ」

 フクロウはずる賢い目つきで、こう言った。

「美しいってこの私が?」

 娘にはフクロウがなぜ自分のことをほめるのかわからなかった。

 娘は自分の姿を見たことがなかったから。

「ああ、そうですよ。娘さん。あなたは美しい。それがわからないというなら、私が教えてあげましょう。いらっしゃい」

 フクロウは森の奥にある泉に娘を案内した。



「さあ、この岸に立って、水面に映るご自分の姿をごらんなさい」

 娘は魔女の言い付けを思い出したが、本当に自分が美しいのか知りたかった。

 言われたとおりに泉を覗き込み、そこに映る自分の顔を見た。

 そして、

「まあ、なんてことだろう」

 娘は驚いた。自分がこんなに美しかったなんて。



 しかし、そのときだった。娘は急に声を出すことができなくなった。

「愚かな娘だ」

 銀の羽を持つフクロウは娘をあざ笑った。

「聞け、娘よ、人の子よ。

 知ることは失うことの始まり。

 感じることは孤独の始まり。

 そして何かを美しいと思うのは、愚かしさの始まりだ。

 なりたがりのお前は何者にもなれない。

 ただ、涙を流すばかり」

 銀色の羽を持つフクロウはこう言うと、空高く飛んでいった。



 声を失った娘は、深く悲しんだ。

 来る日も、来る日も、泣いて過ごした。

 娘の涙は水たまりとなり、池となり、湖となり、やがて海になった。

 娘の涙の海は森を沈め、村を沈め、街を沈めた。

 人や動物達は家の屋根や、塔や、丘など高いところに逃げた。

 そして、口々に娘に頼んだ。

「どうか娘さん、もう泣かないで下さい」

 しかし、娘が泣き止むことはなった。

 娘は一人、涙の海を漂いながら涙を流し続けた。



 そんなある日のことだった。

 一隻の小船に乗って、一人の男が娘のところにやってきた。

 銀色の髪の若い男で、手には古い楽器を持っていた。

 男は詩人だった。

「娘さん、さあ、思う存分お泣きなさい。悲しみなさい。

 私があなたの涙に音楽を与えましょう。あなたの悲しみに言葉の形を与えましょう」

 男はそう言うと楽器を奏で、歌を歌い始めた。



 すると、不思議なことが起こった。

 高いところに逃げていた人や動物達が魚に姿を変えて、海に飛び込みはじめたのだ。

 それはもう、一人一人、一匹一匹、次々に。



 やがて、人や動物達がすべて魚になったときだった。銀色の髪の詩人は娘に言った。

「さあ、私達も行きましょう。ともに、あの涙の海の向こうまで」

 そう言って、詩人は楽器の弦をぼろろん、と軽く弾いた。

 たちまち、娘は金色の魚に、詩人は銀色の魚に姿を変えた。



 魚になった二人は、いや二匹は、身を寄り添って海の中を飛ぶように泳いでいった。

 どこまでも離れることなく泳いでいった。

 水面から差し込む太陽の光が、二匹の金と銀のうろこをかすかに照らしていた。



 最後のページには、一面、海の中の景色が描かれていた。その海の色は、それ以前のページの暗く重いそれとはうって変わって、とても澄んだ明るい青だった。魚になった二人のはるか下には、海に飲み込まれた建物や木々がおぼろに描かれていた。


 ああ、そうか。ここなんだ。ルカはここに行きたかったんだ。


 その澄みわたった世界は僕の胸を強く打った。それは、決して幸せな結末ではないのかもしれない。けれど、僕もそこに行きたいと思った。ルカとともに魚になって、この美しい海の向こうに飛んでいきたいと強く思った。


 次第に自分の喉に失われたものが返ってくるのを感じた。僕はもう自分が何をするためにここにたどり着いたのか知っていた。そう、僕は帰ってきた。歌を歌うために。ルカという少女の、涙の海の色を変える歌を歌うために。


 僕はギターケースからギターを出し、その弦に指を置いた。そして、大きく息を吸い込んだ。


 なみだはうたかたに

 こころは空に

 金と銀の光重ねて

 二匹の魚飛んでいく

 海の底に飛んでいく


 かなしみは喜びに

 愛は歌に

 夢と現の光重ねて

 二匹の魚飛んでいく

 手を取り合って飛んでいく



 旋律も歌詞もよどみなく口からあふれてきた。懐かしくさえ思えるほど、自然だった。胸のうちにわだかまっていた闇が払拭され、あらゆるものが明瞭に鮮明になったようだった。まるで初めて歌を歌ったような気がした。まるで初めて声を出したような気がした。


「ルカ、帰っておいで」


 僕は目の前の黒い髪の少女の手を握り締め、名前を呼んだ。彼女は呆然と僕を見ている。


「ルカ、僕のルカ。帰っておいで、僕のところに」

「……ライ……ム」


 にわかに、黒い髪の少女の瞳が潤み始めた。それは瞬くたびに宝玉のように煌いて、光をまなじりにこぼした。僕はもう一度、ルカ、と名前を呼んだ。微笑みながら。彼女の、ルカの、涙の海をたたえた瞳をじっと見つめながら。


「ああ……ライム。私は……」


 とたんにルカは、桜色の唇を、肩を震わせて、力が抜けたようにもたれかかってきた。僕はその小さな細い体を胸に受け止め、いっぱいに抱きしめた。


「ライム……ライム……やっとお前に……会えた……」


 ルカはすっかり泣きじゃくっているようだった。彼女の涙が胸の中にあたたかく満ちていくのが感じられた。


「会いたかったのだ、ぞ……。ずっとお前に会いたくて……私はずっとお前を待って……」

「ごめん。随分待たせちゃったね。ごめん……」


 僕はピッグテールに結われたルカの髪をほどいて、そっと撫でた。そして、彼女の額にキスした。本当に、また会えた。やっと会えた。僕も涙があふれてきた。彼女を再び抱けて、たまらなくうれしかった。彼女のことがたまらなくいとおしかった。


 しばらくのあいだ、僕達はそうやって何も言わずに抱き合った。もう触れるだけでルカに意思を伝えることは出来ないようだった。きっとお互いの存在に曖昧さがなくなって、確かな輪郭が得られたからだろう。悲しくはなかった。僕にはもう意思を伝え合える声があったし、むしろ心の混濁した流れがとだえて、彼女のことをよりはっきりと感じられる気がしたから。


「……お前は、あたたかいな」


 ルカは僕の胸の中で小さくつぶやいた。


「こんなにもあたたかかったのか。人の肌というものは……」

「思い出した?」

「ああ。今ならはっきりわかる。お前はあたたかくて、こうしていると、すごく、すごく……うれしい」


 ルカは顔を上げて、花が咲くようにふっくらと笑った。


 それは、とても可愛らしい笑顔だった。





「涙というものは、悲しくなくても 苦しくなくても出るものなのだな」


 屋敷から出たところで、ルカは言った。


「うれしくても出るものなのだな。同じ涙なのに、不思議だ……」


 日はもう落ちていたが、空の端には黄昏の光が淡く残っていた。その色はまるで、さっき見た絵本の最後のページに描かれた海のような透き通った青だった。僕達は手を取り合って、その青さが残る空のほうへ歩いた。


 屋敷はすでに廃屋になっていた。街も、表向きは先ほどと変わらない賑やかさがあったが、一切の奥行きを失って、平坦な、頼りない存在になっているように見えた。


「ライム……あれは」


 と、ルカが急に足を止めた。その視線の先を見るとレストランがあり、ショーウィンドウには様々な料理とともにブルーベリーのミルフィーユが並んでいた。


「あれは確か、甘くて美味しいものだな」


 ルカは目を輝かせている。


「食べようか」


 僕は笑って、彼女の手をとって店に入った。そして、そのミルフィーユを注文して一緒に食べた。やはりそれは甘くて美味しいものだった。「この味は好ましいな、本当に」ルカもとても気に入ったようだった。すぐにぺろりとたいらげてしまった。あんまり幸せそうに食べるので、僕は追加でいくつか他のケーキを頼んだ。すると、彼女は「好ましい味だ」と言いながらそれらを全部食べてしまった。意外と健啖家だったようだ。いや、女の子ってこんなもんかもしれないな。エセルも甘いものはいくらでも食べられるものだって言ってたし……。おいしそうにケーキを口に運ぶ彼女を見ているだけで、僕は天にも昇るような甘い気持ちになった。ルカは、本当にすごくかわいい。


 やがて、そろそろ店を出ようというときだった。僕はジャケットのポケットの中に金がまったく入ってないことに気づいた。ポケットを裏返しても、靴やら尻やらまさぐってみても、金は一切出てこない。どうやら記憶の迷い路から戻ってきても、僕は金に困る運命らしい。参ったなあ。ルカに助けを求めてみたが、彼女も金は持っていなかった。うーん、どうしよう。幻だろうが何だろうが、ここにはちゃんと店員がいて、客の僕達は食べたぶんだけお金を払わないと外には出られそうにないし。


「……そうだ」


 店内を見回したところで、ふと閃いた。


「ちょっとそこで待ってて」


 僕はルカにそう言うと、ギターケースを持って席を立った。そして、店の隅でピアノを演奏している女のすぐそばに立って、その曲にあわせてギターを即興で奏でた。


 女も、客達も、店員も、みなびっくりしているようだった。その反応は、僕にとっては懐かしいものだった。昔はよくこうやって、知らない店で弾き語りしたもんだっけ。みんな最初は驚くんだ。でも、すぐに聞き入るんだ。音楽ってそういうもんさ。理屈じゃない。楽しいかどうか、それだけだ。僕はピアノを弾いている女の顔をちらりと見た。僕と目が合うと女はやはり楽しそうに笑った。


 結局、僕のその傍若無人ともとれる振る舞いは、大好評だった。曲が終わると同時に、店の客達はいっせいにこちらに向かって拍手してきた。そして、店長らしい男が満面の笑みでこちらに近づいてきた。これは勝算がありそうだぞ。僕は彼がねぎらうように僕の肩を叩いた瞬間、こっそり耳打ちした。「実は僕達財布を忘れてきちゃったんだ。今ので、なんとかツケにしてもらえないかな」そう、これも昔はよくやったことだった。たいてい、演奏が好評だとこちらの頼みを聞いてくれるんだ。中にはしぶちんな店もあったけど……ここはどっちだろう? どきどきしながら返事を待ったが、彼はとてもいい人のようだった。「代金を支払っていただこうなど、思いませんよ。今のあなたの演奏を聞いたあとではね」そういうわけで、僕達はなんとか金を払わずに店を出ることが出来た。


「お前の奏でる曲は……いいな、本当に」


 再び手を取り合って街を歩いていると、ルカは僕に言った。「そうかなあ?」彼女が感心しきっているようなので照れくさくなってしまった。


「そうだぞ。私はお前のギターが好きだ。歌が好きだ。お前が……大好きだ」


 まっすぐにこちらを見つめて言う。顔が熱くなってしまう。あの日のようにルカの瞳はキラキラしていて本当に綺麗だ……。


「こうしていると、夢のようだ。いや……間違いなく夢なのだろうな。だから、こんなに幸福なのだ」


 ふと、ルカはさみしそうに眉根を寄せた。そして、「私はあの日、死んだのだからな」そうつぶやいて、僕から目を反らした。


「ルカ、それは僕も同じだよ」


 僕は彼女の手を強く握って言った。


「僕も思い出したんだ。この街で最後に過ごした日のことを。あれは確か、君と会った日から二年くらい経ったときだったかな……」


 ゆっくりと、心の底から記憶の欠片を拾い上げる。


「エセルが、僕の姉さんが、その夜は何時になっても家に帰ってこなかったんだ。連絡も全然取れなくて、僕は心配になって、探しに出かけたんだ。すごく不安だった。姉さんはまともな体じゃなかった。酒と薬で、傍目にはもう死んじゃうんじゃないかってくらい弱ってた。だから、本当にすぐ見つけて、すぐ家に連れて帰りたかった。でも、だめだった。僕が見つけたときはもう何もかもが遅かったんだ。姉さんは、昔付き合ってた男の家にいた。その部屋の扉を開けると、嫌なにおいがした。床の上に姉さんとその男が倒れていた。二人は息をしてなかった」


 その記憶の欠片は、とても鋭く尖っていた。引き上げるほどに、胸に強い痛みが走った。


「二人で何か薬をたくさん飲んだんだと思う。姉さんはもうすっかり冷たくなってた。いくら名前を呼んでも返事をしてくれなかった。目を開けてくれなかった。僕はどうしたらいいのかわからなかった。信じたくなかった。姉さんはもう二度と覚まさないだろうってこと、信じたくなかった。息をしてなくても、血の流れが止まっていても、そこにいるのは僕のたった一人の姉さんだったんだ。だから、僕は……僕は姉さんを背中にかついで、その家を出たんだ。姉さんを、僕達の家に連れて帰ろうって、昔みたいに一緒に寝ようって……ただそう思ったんだ」


 あの夜のエセルの体の、軽さと冷たさがはっきりと思い出されてくる。深い悲しみとともに。


「声をなくしたのはそのときだと思う。姉さんをかついで帰る途中、急に声が出なくなってるのに気づいたから。でも、そのときは、そんなことどうでもよかった。姉さんを家に連れて帰ろうって、ただそれだけを考えてた。ああ、そのときだった。急に動いたんだ。動かないはずの背中の姉さんが。僕はうれしかった。姉さんが生き返ったと思った。でも、振り返ってみると、なんだか様子がおかしいんだ。姉さんの髪も肌も真っ白になっていて、僕のことなんかまるで見えてないって顔をしてて……。僕は姉さんを道端に降ろして、ゆさぶって、僕がここにいるって必死に伝えた。それでも、姉さんは僕に気づいてくれなかった。虚ろな目でぼんやりしてて、そして、しばらくして……歌い始めたんだ。歌詞のない、僕の聞いたことのない歌を」


 最後の記憶が、はっきりとよみがえってくる。


「それから、急に街の様子がおかしくなったんだ。最初は地響きだけだったけど、やがて大きな音がして、街のドームが粉々に砕けて、そこから緑色の蔓が街になだれ込んできた。道行く人たちはみんな驚いてたよ。僕も驚いた。ただ事じゃない、すぐにここから逃げなきゃって、僕は思ったし、みんなもそう思っただろう。でも、思っただけだった。行動には移せなかった。僕達はすぐにその場に倒れてしまったから。ほんの一瞬だった。息苦しさは不思議となかったな」

「では、お前はそのとき……」

「そう、僕はそのとき死んだ。君と同じだよ」


 同じ同じ、と、あの日のように笑って見せた。


「意識を失う直前、姉さんの肩越しに月が見えたよ。少し欠けた満月だった。そして、またたくと、その月の光がバターみたいに涙に溶けて流れていったんだ。綺麗だった。この月の光に何もかもが溶けて流れてしまえばいいって思ったよ……最後にね」


 上を仰ぐと、あの日見たのと同じような少し欠けた満月が浮かんでいた。ニセモノの森に抱かれたニセモノの街を見下ろすニセモノの月だ。ここは、本当に嘘ばかりだ。けれど、全てが偽りってわけじゃない――。


「ルカ、僕はあの日から君にずっと会いたかった。僕が姉さんに何を言われても歌を諦められなかったのは、いつか君に歌を聞かせたかったからなんだ」


 僕はルカの瞳をじっと見つめて言った。


「僕達は確かにもう死んでいるのかもしれない。ここにも、そう長くはいられないだろう。でも、こうやって僕達がまた会えたことが嘘だとは僕は思わない。君はちゃんとここにいる。君は僕にとってのたった一つの真実なんだ」


 ルカは何も言わなかった。いや、何か言いたいようだったが、言葉が上手く出てこないようだった。彼女はただ、桜色の唇を震わせて、黒い瞳から涙をこぼすばかりだった。僕は彼女を抱き寄せた。「ルカ、愛してる」耳元でささやいた。


「ライム……ありがとう……」


 やがて、かすれた涙声でこう言うのが聞こえた。


 僕達はそのままホテルに戻った。そして、一緒に眠った。ルカの体にはまだ無数の傷あとが残っていて、さわると痛むようだったが、彼女は気にせず抱きしめてほしいと、僕に強く頼んだ。


「痛くてもいい、お前を感じていられるのなら」


 僕はその華奢な体が折れないようにそっと抱き寄せた。ルカは美しかった。そのぬくもりは本当に心地よくて幸せだった。


「ライム、私の名前を呼んで。私自身がぶれないように」


 腕の中でルカは何度もそう言った。僕は求められるがままに何度も彼女の名前を呼んだ。ルカ、ルカ、誰よりもかわいらしいルカ、僕だけのルカ……。声に出してそう言うと、気持ちが強まっていくようだった。名前を呼ぶたびに彼女にキスした。「ライム……うれしい」彼女は目に涙をためて微笑んだ。


 そうやって体温を通わせあって、やがて僕達は眠りについた。


「ライム、思い出した。私はすごく……さみしかったのだ」


 まどろみに沈む直前、ルカはかすかにつぶやいた。


「でも、もうさみしくない。お前がいるから。お前が、私の名前を呼んでくれたから……」


 彼女はそう言って、ぎゅっとしがみついてきた。僕はその体を強く、深く抱きしめて、ゆっくりとまぶたを閉じた。

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