三章 銀の街 3

 歌が聞こえた。目を開けると、すぐ上にエセルの顔があった。


「どう? 眠れた?」


 ぼくと目が合うと、エセルは歌うのをやめて笑った。ぼくはどうやらエセルに膝枕されながら寝ていたようだった。どれくらいかな。楽屋の時計を見ると、ステージが終わってから三十分ちょっと経っていた。


「疲れてたのね。今日はたくさん歌ったから」

「うん……喉がカラカラだ」


 ぼくはエセルの膝の上からゆっくりと体を起こした。一張羅のタキシードの皺を伸ばしながら。


「おかげで変な夢を見たよ」

「どんな夢?」

「えーと……忘れちゃった」


 まあどうせたいしたことじゃないさ、夢なんだもの。ぼくは髪をかき上げながら笑った。


 エセルも舞台衣装の白いドレスを着たままだった。ぼく達は着替え、荷物をまとめて楽屋を出た。そのまま家路に着いた。


 夜はもうすっかり更けていた。劇場の裏口を出ると、すぐに夜の街の喧騒が聞こえてきた。酔っ払った男の人の話し声や、女の人のちょっと色っぽい声とかだ。いろいろな店の明かりと道を行き交う無人タクシーのヘッドライトが、贅沢な星屑のように街を彩っている。


「そういえば、もうすぐあなたの誕生日だっけ」


 並んで歩いていると、エセルが思い出したように言った。


「もう十五になるのね。立派な大人ね、あなたも」


 エセルはにこにこしている。でも、なんとなくその言い方には含みというか、他に言いたいことが隠れているように思えた。ぼくはあいまいに「うん……」とうなずいた。そして、「おなかがすいたね」と話を変えた。


 でも、


「ねえ、テディ、知ってる? ロジャーさんとこのお店、最近若い人が一人抜けて大変みたいなの」


 今夜のエセルは自分の話したいことを続ける。らしくないほどに。


「それでね、よかったら誰かって話になったんだけど――」

「エセル! 早く帰ろう。ぼく、もうおなかペコペコだよ」


 嫌な予感がしたので、ぼくはせいいっぱい子供ぶって叫んだ。エセルはため息をついた。


「人の話は最後までちゃんと聞きなさい。もう十五歳なのよ、あなたは」

「まだ十五だよ。エセルより九つも下だ」

「年の差はいくつになっても変わらないわ。私達が老人になってもね」


 エセルはくすりと笑った。


「私はね、心配なの。あなたのことが。最近喉の調子が悪いでしょ」

「そんなの今だけだよ。声がなくなったわけじゃない。まだ全然歌えるよ」

「違うわ。あなたの声はもうすぐなくなるわ」

「え?」

「子供の声が、ね」


 エセルはぼくの喉に人差し指を立てて、片目をつむった。ああ、そうか。そういう意味か。エセルが何を心配しているのかようやく気づいた。近頃は、喉だけじゃなくて体のいろんなところがおかしいんだ。成長期ってヤツだ。


「だいじょうぶだよ。大人の声になってもぼくは歌える。これもあるし」


 ぼくは脇に抱えていたギターケースを持ち上げた。


「……本当に?」


 エセルは形のいい眉をひそめてまだ心配そうな顔をしている。「ぼくがだいじょうぶって言ったら、だいじょうぶなんだよ!」もう一回強く言ってみた。


「そう……。じゃあ、この話はまた今度ね」


 なんだかまだ何か言いたげだったけど、エセルはとりあえず納得したようだった。


 やがてぼく達のアパートの近くまで戻ってきたときだった。道の隅の暗がりから、小さな女の子を連れた女の人が駆け寄ってきた。


「エセル、テディ、少しいいかい。こんな時間に悪いんだけどね」


 見ると、ぼく達のよく知った顔だった。そう、女の人はキャシー、女の子はメリッサ。ぼく達の部屋の二つ隣に住む人達だ。親子なだけに二人とも似たような亜麻色の髪に、似たような鷲鼻をしている。


 キャシーとエセルは仲が良くて、ぼくは二人が遊びに行くとき荷物を押し付けられるみたいにメリッサの子守りをさせられたことがあった。でも、今日はそういういつもとはちょっと雰囲気が違っていた。キャシーはいくつもトランクを抱えていて、メリッサも小さなリュックを背負っていた。旅行に行くにしても随分大荷物だけど、これは……。


「あんた達には、お別れを言っておきたくてね」


 キャシーはさみしそうに言った。


「この街を出るの?」


 ぼく達姉弟は、とっさに同じことを尋ねた。キャシーはやっぱりさみしそうに「ああ、ここにはもういられない」と答えた。


「最近、仕事もめっきり減ってきたしね。借金で首が回らなくなっていろいろやばいのさ。この子のこともあるし……新しい土地で出直すことにしたんだよ」


 キャシーは重く息を吐きながら、メリッサの亜麻色の髪をぐりぐり撫で回した。キャシーはダンサーをやっているそうだけど、最近はとんと不景気らしい。街のコヨウモンダイってやつがどうとかこうとかいう話で。ぼく達もそれを肌で感じていたころだったし、他人のことには思えなかった。一緒に重く息を吐いた。


「ここからちょっと離れたところにね、村があるらしいんだよ。開拓者の村さ。あたしらはそこに行くよ。なに、女二人だけだ。なんとか食い扶持ぐらいは稼げるさ」

「そう……さみしくなるわね」

「着いたら手紙を書くよ。辺鄙なとこだそうだし、ちゃんと届くかどうか自信ないけどね」


 キャシーは笑った。そして、それで感情がおさえられなくなったというふうに、ふいに涙ぐんだ。キャシーとエセルと抱き合った。


「テディ、あたしもおてがみ書いてあげるね」


 と、メリッサがぼくに言った。


「あとね、これあげる」


 彼女はポケットから何か出してぼくに手渡した。キャンディーだった。


「ありがとう」


 ぼくは微笑んで、それを口に入れた。


「ママがね、言ってたの。遠くに行ってもお月様は同じだって。一個しかないって」


 メリッサは夜空を、そこに浮かぶ月を見上げながら言った。


「だから、お別れしてもへいきなの。お月様が、ちゃんと見てくれてるからって」

「何だ、それ? よくわかんないよ」

「うん、あたしもわかんない。でもママがそう言うから、へいきなの、きっと」


 メリッサは幸せそうに月を見ている。そんなもんなのかなあ。ぼくも一緒に夜空を見上げた。三日月が、誰かが置き忘れたバナナみたいにぽつねんと浮かんでいた。


 やがて二人は去って行った。ぼく達もアパートに戻った。そして、遅い夕食をとって眠った。狭いアパートだ。二部屋しかないので、ぼく達はそれぞれ、二段ベッドの上と下を使っていた。


 けれど、その夜ぼくが目を覚ましたとき、エセルはベッドにいなかった。台所兼食堂兼お客様をもてなす用に使ってるもう一つの部屋に行くと、灯りがついていた。そして、エセルが下着姿でテーブルに突っ伏していた。そばには酒の瓶と琥珀色の雫が底に少し残ったグラスが置いてある。


「また飲んだの?」


 酒の瓶はすっかり空になってるようだった。ぼくはため息をついた。エセルってば、最近は本当に飲んでばかりだ。


「エセル、寝るならちゃんとベッドで寝なよ。冷えちゃうよ」


 ぼくはぐでんぐでんになってるらしいエセルの腕を引っ張った。


 すると、


「……ほっといて」


 かすれた声でエセルはそう言って、ぼくの手を振り払った。見ると、泣きはらしたようにその目元は真っ赤だった。


「ちょっと考えごとしてたの。それだけよ」


 エセルは巻き舌でぶっきらぼうに言うと、ごしごしと目元を手の甲で拭った。けれど、そうするとますます目元は赤くなっていった。


 きっと、キャシーと別れて落ち込んでるんだろう。ぼくはどう声を掛けていいのかわからなかった。ぼくはエセルほど二人と仲良くなかったし。


「……あなたも、そのうち私から離れていくでしょうね」


 と、エセルは急に変なことを言い始めた。


「でも、いいのよ。それが普通なんだもの。家族なんてそんなもの。ずっと一緒にいられるわけないじゃない……」


 ぼくが何か言うのも待たずに勝手にそう決めると、おいおい泣き出してしまった。まいったな。泣き上戸ってやつだ。ぼくはまだお酒を飲んだことないけど、酔っ払ってこうなっちゃう人間って一番めんどくさいんだ。とりあえず水をグラスに注いで渡した。エセルはそれをやけくそのように一気にあおった。


「エセル、もう寝ようよ」


 もう一度腕を引っ張った。今度はエセルは素直だった。子供みたいに「……うん」とうなずくと、ぼくに寄りかかりながら立ち上がった。ぼく達はそのまま寝室に入った。


「……テディ、今日は一緒に寝ましょ」


 と、エセルの体をベッドの下段に放り込んだところで、抱きつかれた。


「やだよ。狭いし」


 酒臭いし。


「いいじゃない。たまには」


 エセルはやっぱり酔っ払いだった。強引にぼくをベッドの下段に引きずり込んだ。うーん、思ったとおり、いや思った以上に酒臭いぞ。「わかったから、ちょっと離れてよ」エセルの胸はむにゅむにゅしていてやわっこくて、顔をうずめていると息苦しくてかなわなかった。ぼくはその酔っ払いの少し体を押し戻した。


「恥ずかしがっちゃって。あなたも年頃なのね」


 今度は変ににやにやしはじめる。困ったもんだ。


「いいから。早く寝なよ」


 今さら恥ずかしいも何もあるもんか。ずっと二人っきりで暮らしてたのに。ぼくはエセルの体にシーツをかけた。


「……相変わらずやさしい子ね。あなたは」

「エセルと一緒だと自然とこうなるよ」

「ううん。あなたはやさしい子よ。今日だって無理して声出してたでしょ。調子が悪いのに」


 エセルは細い指をぼくの喉に絡めて、瞳を潤ませたまま微笑んだ。この酔っ払いは、また何だよ急に……。さすがに恥ずかしくなってしまう。


「でもね、テディ。大人になるってことは今まで通り歌えなくなるってことよ。お客さんに気に入ってもらえるような声になるとは限らないし」

「またその話? だいじょうぶだって言ったじゃない」

「……だいじょうぶじゃないわ。大事なことよ。私はあなたが心配なの。無理をして欲しくないの」

「無理なんかしてないよ」

「してるわ、ずっと……。あなたはやさしい子だもの」


 エセルはまたぼくを胸に抱き寄せた。そのあたたかい感触がぼくの体をいっぱいに包んだ。


「聞いて。もうあなたは歌わなくてもいいの。大人になるんですもの。違う仕事はいくらでもあるわ」


 その言葉に、ぼくはむっとせずにはいられなかった。今までがんばってきたこと、練習してきたことを全部捨てろって言うんだから。「エセルはぼくが邪魔なの? ぼくと一緒だと歌いなくないって思うの?」不機嫌に噛み付いた。


「違うわ、テディ。私はあなたの将来のことを考えて――」

「ぼくの将来? そんなのぼくが決めるよ。もう十五だ。子供じゃないんだ、ぼくは!」

「……そうね。あなたはもう子供じゃないものね」


 エセルは悲しそうにつぶやいた。


「でもね、これだけは覚えておいて。もしあなたが、違う仕事を選んで私から離れていったとしても、私達がたった二人きりのきょうだいであることは変わりないわ。ずっと、永遠に。だから、あなたは自分が思う、本当になりたいものになっていいのよ」

「なりたいもの……?」

「ええ。私のために無理をする必要なんかないの。好きな道を選んでいいの。それで、何か辛いことがあったら私のところに帰ってくればいいわ。そのときは、こうやって抱きしめてあげるから。私達がいくつになっても、ね」


 エセルはおだやかにそうつぶやくと、ぼくの額にキスした。「おやすみ。愛してるわ、テディ」やがて、そのまま眠ったようだった。


 なりたいもの、か。漠然としすぎていまいちピンとこなかった。今はただ、母さんに会いたいなあと思うばかりだった。ぼくは母さんのことをよく覚えてないけど、エセルはそうじゃないみたいで、時々昔のことを思い出して今日みたいに泣くことがあるんだ。だから、会わせてあげたい。そして、みんなで一緒に暮らしたいんだ。そうなったらきっとすごく楽しいだろうし、エセルもお酒を飲むことはなくなるだろう。


 でも、そのためには何はともあれお金が必要だ。お金があればいっぱい探偵を雇って母さんを探せるだろうし。それに、ベッドだってもうちょっと広いのが使えるはずだ。そうだ、ぼくはお金持ちになりたい。いや、なってやるぞ、いつか――。エセルの胸にむにゅむにゅ押しつぶされながら、ぼくはひそかに固く決心した。


 翌日はぼく達は仕事が入っておらず、休みだった。エセルは朝食をとってすぐに出かけてしまった。朝っぱらからダニーという男がアパートにやってきて、カワセミが魚を捕まえるみたいな素早さでエセルをさらって行ったのだ。デートだって話だけど、体中に刺青入ってるし、変な薬の売人やってるって噂だし、実にいけすかない男だ。とりあえず見送る際、その背中を十秒ほどにらんでやった。早くあんな男と別れればいいのに。


 結局一人残されたぼくは、たまっていた家事を片付けた後、ギターの練習をすることにした。歌は今日は休みだ。喉の調子がまた一段と悪いから。でも、隣の部屋に住むおじさんが騒音にはめっぽううるさいので、練習は家じゃ無理だ。ギターケースを抱えて外に出た。どこか広いところでやろう。


 いい天気だったし、街の大通りは相変わらず多くの人でにぎわっていた。スーパーマーケットの前を通りかかると、ショーウィンドウに立体映像の果物や野菜が並んでいるのが目に止まった。美味しそうだ。この街に来てから毎日安い樹機獣のミートパイばかり食べているぼくはちょっとよだれが出た。ああいう新鮮な野菜や果物は、街の地下のプラントで作られるらしいんだけど、それはもう高いんだ。ぼく達みたいな、穴あきの靴下をだましだまし履いてるような人間には。樹機獣ミートパイの味は悪くないけど、たまにはああいうものも食べたいなあ。やっぱりお金持ちにならなくちゃ。とりあえず、接客用のキューブロボットが飛んでくる前にそこを立ち去った。そのままなんとなく街の中央にある公園に行った。


 広くて綺麗で緑の多い公園だった。立体映像の小鳥が花壇や植え込みの間を飛び回り、そのさえずりがのどかに響いていた。ぼくは適当に噴水の前のベンチに座った。そしてギターケースからギターを出して練習を始めた。時々、そばを通りかかる人が珍しそうにこちらを見ていった。


 やがて、


「ぼうや、リクエストしてもいいかしら?」


 声を掛けられた。顔を上げると四十歳くらいのおばさんが前に立っていた。金髪で青い目で、高そうな、けどとても上品な感じのスーツを着た、綺麗なおばさんだ。


「リクエストですか? ギターだけならだいじょうぶですけど……」


 お金持ちの臭いを感じたぼくは、すぐに襟を正して、丁寧に言った。こういうおばさんに気に入られるとだいたいにおいていいことがあるんだ。今までの経験からして。


「あら、歌は無理かしら?」

「今日は喉の調子が悪いんです」

「そう。残念ね」


 おばさんはがっかりしている。まずいぞ。ここはもうちょっと点数を稼がないと。


「い、いや、もしかしたら歌えるかもしれません。歌によっては。何を歌ってほしいんですか?」

「バタームーンよ」

「バター……? うーん、それはちょっと……」


 きついなあ。最近高い音出ないし。


「そうね。女の人の歌だものね。ぼうやには無理かしら」

「あ、でも、この曲、ギターだけならいっぱい練習してます。エセル、いや、ぼくの姉さんが好きでよく歌うから。ぼくは正直、あんまり好きじゃないんだけど……」

「大人の歌だものね」


 おばさんはくすりと笑った。そして、「じゃあ、ギターだけでも弾いてもらえるかしら」と、ぼくの隣に腰かけた。ぼくは喜んで、それを受けた。すぐにバターの月の曲を奏でた。おばさんは、時々鼻歌を歌いながらそれを聞いていた。


「……ぼうやにはお姉さんがいるのね。お母さんやお父さんは?」


 曲が終わったところで、おばさんはぼくに興味を持ったようだった。こう尋ねてきた。


「両親はいないんです。姉さんと二人暮しで」

「そう。大変ね」

「あ、でも、そのうちぼくは母さんを見つけるつもりです。それで、みんなと一緒に暮らすつもりで……。母さんがぼく達のこと覚えてるかどうかわかんないけど」


 おばさんを見ていると、なんだか顔も知らない母さんと話しているような気持ちになってきた。普段あんまり人に言わないような身の上話までつるっとしゃべってしまった。


「覚えてるわよ、母親ならね。どんなに時がたっても」


 おばさんは急にしんみりした口調になった。「そうかなあ?」ぼくは首をかしげた。


「そうよ。私も母親だからわかるわ」

「へえ、おばさん、子供がいるんだ?」


 と、思わず素の口調になってしまった。しまった、こういう年頃の女の人に「おばさん」はまずいぞ。今までの経験からして。あわてて「へえお姉さん、お子さんがいるんですね」と言い直した。


「いいわよ。おばさんで。そういう歳ですもの」


 しかし、おばさんは怒ってないようだった。よかった。本当に。


「私はその子に会いにこの星に来たのよ」

「ふうん。おばさんの子供だから、きっとおばさんに似て綺麗なんだろうな」

「そうね。綺麗ってよく言われるみたい。人間ではないけれどね」

「人間じゃない?」

「ええ。私の、私達の子供はここにいるわ」


 と、おばさんは近くの植え込みを指差した。なんだろう。ぼくはさっぱり意味がわからなかった。


「聞いたことはない? この植え込みも花壇の花も街のあちこちに植えてある街路樹も、全部、街の外にある『森』と同じものだって。それを見た目だけそれらしくしたのが、こういうものだって」


 おばさんは植え込みの葉っぱをやさしく撫でながら言った。そういえば、そういう話を聞いたことあるような、ないような……?


「私達はね、この星の環境をよくするために、あの森を作ったの」

「緑でいっぱいにするために?」

「ええ。それで人が住みやすくなるためにね……」


 おばさんはなんだか浮かない顔だった。話を聞く限りでは、すごい立派な仕事なのに、なんでそんなしょんぼりしてるんだろう。「何か心配事があるの?」尋ねてみた。


「そうね。心配なことはたくさんあるわ。そのなかでも特に一番なのは、この子に友達がいないことよ」

「友達? 植物に?」


 なんだかまたよくわからない話だ。


「植物じゃないわ、この子は。そういう『生き物』じゃないの。植物によく似た植物ではないただの道具なのよ」

「ニセモノの植物?」

「そうよ。例えば……そうね」


 と、おばさんは何か閃いたようだった。携えていたハンドバッグから一冊の本を取り出し、膝の上に置いて開いた。そして、そのページの一枚をびりびりと破り取った。


 ぼくはびっくりした。その本がペーパーディスプレイじゃなくて紙で作られたものだということと、そういう珍しいものをいきなり破くおばさんに。


「いいの?」

「ええ。もう内容は頭に入ってるし。いらないものだから」


 そういう問題なのかなあ。見ると、おばさんはそのページを長方形から正方形に爪で切って、折り畳んでいる。何をするつもりなんだろう。それにこの本は……? 首を伸ばして、ページに書いてある文字を見ると、わけのわからない数式や記号がたくさん並んでいるようだった。一応英語で書かれた本みたいだけど、ぼくにはたぶん一文たりとも理解できそうにないだろう。こんな本を丸ごと頭に入れてるおばさんって……もしかしてすごく賢い人なのかな? ちょっとどきどきした。


「……できたわ」


 やがて、おばさんは何か作業が終わったようだった。ぼくの手に折り畳んだページを差し出した。それは細長い菱形に折られていた。「ここを広げるとね」と、おばさんは説明しながらその端をひっぱった。たちまち、折られた紙は均一に、綺麗に広がった。これはまるで……。


「花みたいだ!」


 そうだ。これは紙で出来た花だ! ぼくは感動してしまった。一枚の紙を折るだけでこんなのが作れるなんて。


「魔法みたいだ。おばさんって魔法使い?」

「まさか。これは折り紙というの。紙を正しく手順通り折れば、誰でも作れるものよ」


 おばさんは紙の花びらをいっぱいに広げ、根元をつまんでくるくる回した。


「私が言いたいのはね、この紙の花とあの森は同じだってことよ。本当じゃないの。偽物なの」

「おばさんの手で作られた?」

「ええ。そしてそれはきっと悲しいことよ。本当の生き物じゃないってことは、何者とも交わることがないってこと。ずっとひとりぼっちだわ」

「ひとりぼっち?」


 ニセモノの植物が? また変な話だ。


「生物は一対の鎖のようなDNAを持ってるわ。そしてさらに対になっている染色体があって、多くはさらに他の個体と対になって、新しい世代を形成するの。そうすることで多様性が生まれるのよ。でも、私達はあの子にそれを望まなかった。道具だから。多様性なんて不安定な要素、必要ないから」


 なんだか難しい話でよくわからないけど、おばさんはとても悲しそうな顔をしている。


「大人って汚いものよ。間違ってると思っても、周りの顔色とかいろいろなしがらみとかで、そうじゃないって考え直さなくちゃいけないの。そうしないと、前に進めないの」


 おばさんは重く息を吐いた。そして、立ち上がった。


「なんだか愚痴っぽくなっちゃったわね。そろそろお暇するわ。素敵な曲を聞かせてくれてありがとう」

「うん」


 ぼくも立ち上がって、おばさんと握手した。おばさんはハンドバッグの中からチョコレートを出し、「あなたにあげるわ」と紙の花と一緒にぼくに手渡すと去って行った。


 ぼくはまた一人でギターの練習を始めた。時折、チョコレートをかじりながら。


 やがて、日ももう落ちるというころだった。ぼくは足元に何かの影が伸びているのに気づいた。なんだろう。顔を上げた。すると、少し離れた前方に一人の女の子が立っているのが見えた。


 十一歳か十二歳くらいの子だった。長く黒い髪に黒い目をしていて、ほっそりした体つきで、びっくりするぐらい綺麗な顔をしている。身につけているのは、靴もドレスもチョーカーも全部真っ黒だ。夕日を背にして立っていて、何か言いたげにぼくをじっと見ている。


「あの、ぼくになにか用?」

「待ってるの」

「え?」

「あなたが歌いだすのを」


 女の子はそれだけ言うと、ぼくのそばに近づいてきた。


 そうか。ずっとギター弾いてたからなあ。そのうち弾き語りでも始めるんじゃないかと待ってたんだろう。


「ごめん、今日は喉の調子が悪いんだ。歌はお休みなんだよ」

「歌えないの?」


 女の子は綺麗な顔を近づけてくる。うう……かわいいなあ。


「う、歌によっては、歌えるかも! どんなのが聞きたいんだい!」


 すっかり声がうわずってしまった。まずいぞ。これじゃ結構、いやかなり変なヤツだ。ガラガラの声といい、第一印象最悪だ。


「私が聞きたいのは、涙の海の色を変える歌」


 しかし、女の子はぼくの動揺なんてまるで目に入ってないようだった。うーん、なんだか無表情で落ち着きすぎるぐらい落ち着いてるし、もしかしてちょっと変わった子なのかな? 全身黒づくめの格好だし。


「歌えない? 涙の海の色を変える歌よ」


 と、女の子はぼくのすぐ前に立ってますます顔を近づけてきた。どきどきして、体が熱くなってきた。


「ご、ごめん。ちょっと知らないかな。涙の海の歌なんて」

「……そう」


 女の子はうつむいて、浅く息を吐いた。その顔に黄昏どきの暗い影が落ちて、がっかりしているように見えた。こ、これはまずいぞ。女の子をがっかりさせるなんて男の風上にも置けないってエセルも前言ってたし。


「ねえ、君。黒が好きなの?」


 とりあえずここは話題を変えて、女の子が好きそうなファッションの話を振ってみよう。彼女の黒い服を指差し尋ねた。


「……そうじゃないと思う」


 女の子はやっぱり淡々と答えるばかりだった。ファッションにはあまり興味がない子なんだろうか。


「そ、そう。全身黒づくめだから、もしかしたらそうかなって思って。ははは」

「今日はお葬式だったの」

「……え」


 なんだって! そうか、だから黒づくめで、だから暗い顔をしてたんだ! ぼくはなんだか自分が恥ずかしくなってきた。それぐらい気づけよ、バカ!


「た、大変だね。ぼくもお悔やみ申し上げるよ」

「死んだのは、誰かの父親」

「誰か?」

「ええ。それで、誰かの母親役の女が大勢の人の前で悲しいふりをしていたの」


 女の子はやっぱり感情を感じさせない口調で言う。普段滅多に会わない遠い親せきのお葬式に出たとかだろうか?


「……本当に歌えない?」


 再び女の子は尋ねてきた。そう言われても、困ったなあ……。


「そうだ。ぼくは無理だけど、エセルに頼めば……」

「エセル?」

「ぼくの姉さんだよ。すごく綺麗な歌を歌うんだ。きっとこの街で一番だ。涙の海の歌のことも何か知ってるかもしれない」

「そう。でも、あなたじゃなきゃ、だめ」


 と、女の子はぼくのギターを指差した。「これを持った男の人じゃないとだめなの」なるほど、そういう歌なんだろう、きっと。


「わかったよ。じゃあ、明日までに調べておくよ。喉の調子もよくなるだろうし」

「明日?」

「い、いやっ、都合が悪いんならあさってでもその次でもいいんだ。また会えたらいいなって、ぼくが思っただけで……」


 しどろもどろになってしまった。女の子とまた会う約束なんて、どういうふうに切り出せばいいかよくわからなかったし。


「わかったわ、明日の夕方、またここで」

「え、いいの?」

「……うん」


 女の子はこくん、とうなずいた。ぼくはすごくうれしくて、笑った。


「そうだ。これ、君にあげるよ」


 ふと思いついて、ぼくは紙の花を女の子に渡した。


「さっき魔法使いのおばさんにもらったんだ。紙で出来た花だ。ニセモノだけど、よく出来てるだろう?」

「ニセモノの花? そう……私みたい」

「私みたいって?」

「私もニセモノの人間だもの」

「え? 君もしかして……ロボット?」


 びっくりした。こんなにかわいい女の子のロボットってありうるんだろうか。いや、かわいいから逆にありうるのかも? 彼女の顔をじっと見つめた。でも、どう見ても人間だった。試しに黒いドレスの袖をちょっとばかりめくって手を握ってみると、あたたかくて、やわらかくて、それはもういい感触で、ちゃんと血が通っているのが感じられた。


「ニセモノの人間には見えないけど……」


 ぼくは首をひねった。角度を変えて見てもやっぱり人間の女の子だ。人形みたいに綺麗な顔ではあるけれど。


「本当に?」

「うん。だって、手はちゃんとあったかいし、目だってこんなにキラキラしてるし……ロボットだとしたら、きっとものすごくよく出来たやつになるんだろうけど、そういうのがこんな公園を一人で歩いてるのも変だ。すごく高いロボットになるだろうし」


 言いながら考えをまとめた。そして、「君はどう見ても人間だよ、ぼくと同じだ」と結論を出した。


「同じ? あなたと私、同じ……人間?」

「そうだよ。同じ、同じ」


 ぼくは手を握ったまま笑った。


「そう……同じなのね」


 と、女の子の顔に少しだけ笑みが浮かんだようだった。夕日のいたずらかもしれないけれど。


 やがて、女の子は僕のとなりに腰かけて、もたれかかってきた。ぼくはやっぱりどきどきした。でも、同時に不思議な気持ちだった。なんだか前にもこんなふうに体を寄せ合っていたような気がするのだ。変だな。今日初めて会ったはずなのに……。


「私、また明日ここに来るから」

「うん。ぼくも明日ここに来るよ」

「約束よ」

「約束だ」


 ぼく達は指切りした。黄金色の夕日が女の子の顔を照らしていて、夢みたいに綺麗だった。


「じゃ、じゃあ、もう暗くなるし、お互い早く帰らないと……」


 恥ずかしさもあって、ぼくはそのまま立ち上がった。また明日も会えるんだ。今日はこのへんで。


「そうね。私も行くわ」


 女の子もベンチから立ち上がった。


「明日は、あなたの歌を聞かせて」


 と、女の子は僕のほっぺたに軽く唇を寄せてきた。「離れていても、私のことを忘れなくなるおまじない」そう耳元でささやくのが聞こえた。


 それは心地よくて、同時にとても懐かしい感触だった。なんだろう。ぼくはやっぱり、この女の子を知っている……?


「私、ずっと待ってるから。あなたの歌を」


 女の子はそう言うと、夕日のほうへ去って行った。その細い影が黄昏の光に溶けて消えた。


 ぼくは自分の胸がいやに高鳴っているのを感じていた。どうしてこんな気持ちになるんだろう。胸の奥に、もやもやしたものがいっぱい広がっているようだった。そして、そのなかにとても大切なものが眠ってるように思えた。ぼくは……ぼくは、本当に「ぼく」なんだろうか? 急に自信がなくなった。まるで自分の立っている地面がどんどん崩れていくようだった。


 と、そのとき、「テディ!」という声が聞こえた。見ると、エセルがすぐ向こうに立って手を振っていた。


「今日はここで練習してたのね」


 もうデートは終わったのだろう、エセルは一人だった。朝ばっちり仕上げたはずの化粧は今は汗で少し崩れていて、その身につけているレザーの上下とブーツもちょっとくたびれているようだ。


「帰りましょ」


 エセルはこっちに歩いてきて、ぼくの手を取った。それはいつも通り、あたたかくて、やわらかかった。でも、さっきの女の子の手の感触に比べるとすごく頼りなかった。ぼくはエセルをじっと見た。夕日が、さっきの女の子と同じようにその顔を照らしていた。綺麗だった。でも、それは水の表面に広がる波紋のような儚い美しさに思えた。


「……どうしたの、テディ?」


 呆然と立ち尽くすぼくに、エセルが振り返る。いつも通りのぼくの姉さんだ。でも……違うんだ。だって、ぼくはきっと……。


「テディって名前じゃない。きっと違う。ぼくは違う誰かだ」


 そう言ったとたん、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような気持ちになって、涙が出た。そして、その涙で歪んだ視界の中に、さっきの女の子の影が陽炎のように浮かんだ。あの子に会わなくちゃいけないと思った。すぐに、今すぐに。


「エセル、ごめん。ぼく、行かなくちゃ」

「テディ? さっきから何を――」


「ぼく、エセルのこと大好きだよ。ずっと一緒にいたいよ。ぼくのたった一人の姉さんだもの。すっとそばにいて、ずっとエセルの歌を聞いていたい。でも……でも……それじゃ、だめなんだ。あの子が待ってるんだ。だから、ぼく、行かなくちゃ」


 あの子の――ルカのもとへ!


「さよなら、エセル。愛してるよ」


 そのあたたかい手を振り払い、ぼくは、僕は駆け出した。

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