三章 銀の街 2
僕はそれからすぐにホテルを飛び出し、あの屋敷に向かった。ルカはあの屋敷の庭にある人形を見てから様子がおかしくなったのだ。だから、ルカが消えた手掛かりはあそこにあるはずだと思った。
無人タクシーから降りて、屋敷の門の前まで駆け寄ったとき、僕は異変に気づいた。さっきまでは確かにあったはずの「売家」の看板は今はそこにはなかった。中を見ると、庭の芝はきちんと手入れがされているように刈り込まれている。ブランコもぴかぴかだし、人形も転がっていない。家の中には明かりが見える。
どういうことだ?
わけがわからなかった。塀沿いに歩いて、さらに中の様子をうかがった。
すると、裏庭の花壇の前に小さな人影がうずくまっているのを発見した。頼りない黄昏の光の中、目を凝らして見ると、それは黒い髪の少女のようだった。
ルカ!
彼女に間違いないと思った。沸き立つように、胸が激しく高鳴った。塀をよじ登り、飛び越え、一目散にルカのもとへ走った。
ルカはすぐにこちらに振り返った。その可憐な面差しはやはり彼女のものに間違いなかった。
しかし、
「お兄ちゃん、だれ?」
ルカはまるで僕のことなど覚えていないようだった。
いや、そもそも今の話し方はルカのものじゃない。そう、今目の前にいるのは――エリカだ。
僕は全身に冷や水を浴びせられたような気持ちになった。ルカは、ルカはどこに行ってしまったんだろう。そして、エリカはどうして僕のことを覚えていないんだろう。それに、そもそもこの家は……。
「お兄ちゃん、もしかして、ママのお友達?」
と、呆然としているとエリカが尋ねてきた。彼女は今は袖なしの水色のワンピースを着ていて、ピッグテールというんだろうか、髪を左右に二つに分けて結んでいる。そのせいか、さっきまで僕の隣にいたルカよりいくぶん幼く見える。
『ルカを探しているんだ』
僕はそこで、棒切れで地面にこう書いて、エリカに見せた。
「ルカお姉ちゃん? お兄ちゃん、ルカお姉ちゃんのお友達なの?」
エリカはルカのことを何か知っているようだった。『ああ、そうだよ。ルカに会わせてもらえるかな?』はやる気持ちをおさえながら、さらに地面に文字を書いた。
「そっかあ。じゃあ、ここじゃないよ」
『?』
「んーとね、ルカお姉ちゃんは、今ママとお話してるの。おうちの中で」
エリカは屋敷の中を指差した。
あそこにルカがいる! ただちに屋敷のほうへ走った。そして鍵のかかっていなかった裏口から中に入った。
屋敷の中は、広々としていて清潔で明るかった。裕福な家なのだろう、天井は高く、家具や花瓶や絵画はいずれも値が張りそうなものばかりだ。二階建てのようで、吹き抜けになっている玄関ホールの左右に上へと続く階段があった。
一階、二階の部屋という部屋を探し回ったが、人の気配は不思議となかった。ルカはどこにいるんだろう? 母親と一緒にいるはずじゃないのか? だんだん不安になってきた。もう一度エリカに詳しく話を聞こうと一階の裏口に向かった。
すると、その途中、キッチンの床の上にぺたんと座り込んでいるエリカを見つけた。彼女は僕に気づくと、「こっちだよ」と手招きしてきた。
「ママはね、ルカお姉ちゃんとお話するときは、いつもここを使うの」
近づいていくと、エリカはそう言って、キッチンの床に埋め込まれたハンドルを操作した。たちまち、床の一部がずれ、下へ続く階段が現れた。
ここは食糧貯蔵庫だろうか? でもなんでこんなところで……?
疑問を感じずにはいられなかったが、今はルカに会いたい気持ちが何より強かった。すぐにその階段を降り、地下に、ルカ達のいるところに向かった。
半分ほど降りたところだろうか、下からかすかに声が聞こえてきた。扉の向こうから響いてくるらしいそれは、女の、ひどく激昂したような叫び声だった。
何だ、これは?
聞こえてきたのはそれだけではなかった。何かを激しく打ち付けるような音と、何か動物の鳴き声のような――いや、違う、これは人のうめき声だ。そう、女の叫び声に比べるとずっと弱々しく小さなものだが、確かに誰かが苦しみの声を上げている。何かを激しく打ち付ける音が響くたびに。
まさか――。
想像したくはなかった。けれど、そのうめき声は、僕がよく知っている誰かのものに間違いなかった。
ルカ――。
胸が潰れそうだった。なんてことだろう。彼女は今まさに、母親に暴力を振るわれている!
すぐに彼女を助けださないと……!
絶望しているいとまはなかった。僕は即座に食料貯蔵庫らしき部屋の前まで降り、扉に手をかけた――だが、中から鍵がかかっているようで扉は開かなかった。
「お前なんか、生まれなければよかったんだ!」
扉の向こうから激しい罵倒が聞こえてくる。殴打する音と、ルカの悲痛なうめき声とともに。
やめてくれ! 僕は必死に扉を叩いた。けれど、それで扉の向こうの暴力が収まる気配はなかった。「死んでしまえ!」憎しみに満ちた女の声が僕の耳をつんざき、ルカの殴られる音が僕の胸を裂いた。
やめてくれ! やめてくれ!
僕は扉に体当たりした。扉は固くとても分厚いようだった。全力でぶつかるたびに激痛で体中の骨が砕けそうな気がした。それでも、僕は何度も扉に体当たりした。ここを開けてルカを助けなければと、ただそれだけだった。
ルカ! ルカ!
声に出して叫びたかった。僕がここにいることを彼女に伝えたかった。しかし、喉に力を入れても、かすれた呼吸音が漏れるだけだった。悲しかった。涙があふれてきた。
やがて、体当たりを繰り返しているうちに、蝶番が外れたようだった。扉はにわかに中に向かって倒れた。僕はすぐに中に駆け込んだ。
しかし――そこには誰もいなかった。
どういうことだ?
わけがわからなかった。そこは四メートル四方ぐらいの小部屋だった。ひどく暗く、何も物が置かれていない部屋のようで、階段の上から差し込んでくる光が、その殺風景な室内をかすかに照らしている――いや、あれは……?
僕はそこで床に何か落ちているのに気づいた。これは――人形? そう、女の子の服を着た人形が床に置かれていたのだ。
暗い中、よく顔を近づけてみると、それは木で出来たとても簡単な作りのもののようだった。そして、その身に着けているのは白いニットのシャツと薄桃色のスカートで、黒く長い髪を後ろで一つにまとめた髪形だった。
これは――。
僕は頭を何かで強く殴られた思いがした。まるでルカだ。いや、この人形はルカそのものなんだ……。
しかし、そこで今度は、人形の周りの床が黒っぽい何かで濡れているのに気づいた。指先につけて光にさらしてよく見ると、これは――血だ。はっとして周りをうかがうと、床一面、いや、壁も天井も全て、いっぱいに血で濡れていた。
ああ、なんて……なんてことだろう!
間違いない。この血は全部ルカのものだ。そして、ここはルカの痛みの記憶の場所なんだ。まぶたに傷だらけの彼女の姿が蘇ってくる。あんなに殴られて……こんなに血を流して……ああ、ルカ……どうして――。
僕は苦しくて悲しくてたまらなかった。床に落ちている人形をそっと手にとった。しかし、その瞬間、人形の頭は下にぽとりと落ちた。そして、そのまま人形は砕けて粉々になってしまった。
「……もう、何もかも終わったのだ」
ルカの最後の言葉が頭の中でこだました。僕はその場に崩れ、慟哭した。
どれくらいそうしていただろう。やがてそこから出たとき、もうエリカはどこにもいなかった。屋敷はもう人が何年も住んでいないようにくもの巣とほこりまみれになっていていたし、庭の草は伸び放題に生い茂っていたし、門には「売家」の看板が掲げられていた。
近所に住む住人の話によると、その家にはかつて母と娘が二人で暮らしていたのだという。父親は多数の不動産会社を経営していたが、ここには数ヶ月に一度しか帰ってくることはなく、家には母親の愛人の男が頻繁に出入りしていたそうだ。
そして、ある日、父親が宇宙船の事故で死に、母子は屋敷を出たのだという。屋敷は他の者の手に売り払われた。
だが――、
「それからしばらくしてね、家の地下室の壁から女の子の骨が出てきたんだよ」
話を聞かせてくれた中年の女は、険しい表情でこう教えてくれた。
「やったのは、あのアバズレの母親に違いないよ。元々血のつながりはなかったっていうし、男と暮らすのに邪魔だから殺したのさ。かわいそうにね。綺麗な子だったのに……」
僕は『ありがとう』と紙に書いて、その中年の女に手渡した。
それから、僕は街をさまよった。何日も歩き回った。
過去を、失われた声をなんとしても取り戻さなければならないと思った。
「……だから、ライム。もしこの先、私が私でなくなったら、遠くへ行ってしまったら、名前を呼んでほしい。お前の声で。そうすれば、私はきっと帰ってこれる。お前のそばにいられる。……そんな気がする」
今はこのルカの言葉だけが頼りだった。そう、声を取り戻せば、それでルカの名前を呼べば、また彼女に会える。僕はそう信じるしかなかった。
けれど、街は広く、僕の記憶はひたすらとぼしかった。唯一の手掛かりであるエセルという女を探したが、その名はありふれていて、赤毛という特徴はもっとありふれていた。彼女がもしかしたら見つかりそうな劇場やバーを回っても、
「さあねえ? そんな女もいたっけな……」
あいまいに首を傾げられ、そのままそこを追い払われることがほとんどだった。
もしかして、エセルなんて女はもうどこにも……?
次第に不安が胸のうちに渦巻いてくる。歩き回っても、探し回っても、何も見つからない。それはまるでルカにもう二度と会えないことを示しているかのようだ。疲れと孤独だけが重く体にのしかかってくる。
どうしたらいいんだろう……。
ホテルのダブルベッドは一人で寝るには広すぎた。僕は夜毎にルカのことを、そのぬくもりを思い出した。涙が出た。さみしかった。また彼女を胸に抱きしめ、あのやわらかい唇にキスしたかった。
僕はもう、僕と離れたとき泣いていた彼女の気持ちがよくわかった。彼女にとって確かなものは僕だけだったんだろう。それは僕にとっての彼女と同じだ。そうだ、今までいろいろ見てきたけれど、僕にとって確かなものはルカだけだった。ほかは全部、嘘っぱちの幻だった。この街も、今僕がいる場所も、全部そうだ。夢なんだ。本当じゃないんだ。
わかっている。エセルなんてどこにもいやしない。そんな女はきっともうとっくに死んでいる。探したって見つかるはずないんだ。ここには何もないんだから……。
だんだん、何もかもがわからなくなってくる。僕はどうしてここにいるんだろう。サキの言うことが本当なら、とうの昔に死んだはずだろう。それなのに、どうして僕だけがこんな苦しみを抱えてさまよい続けなければならないんだ。死んでしまったのなら、森に飲まれてしまったのならそのままこのふざけた幻の世界に溶けてしまえばよかったんだ。何が過去だ。そんなものを探して何になる? 見つけたとしても、ルカのように苦しい思いをして消えてしまうだけかもしれないじゃないか。それに、よしんば消えなかったとしても、声が戻るとは限らないし、声が戻ったとしても、ルカに会えるとは限らない――いや、むしろ会えるはずないんだ。だって、彼女はもう死んでるんだ。あの家の地下室で。それは僕が実際に見てきたことじゃないか……。
苦しかった。確かなものがどこにもないということが、とてつもなく苦しかった。「ライムストーン」とルカに名付けられた僕の世界が壊れてしまいそうだった。それに、僕は気づいてしまった。ルカは嘘をついた。僕達は「同じケリフのなりそこない」なんかじゃなかった。そうだったのは僕だけで、ルカはそうなる前に死んでいたんだ。死んで、あの家の地下室で骨になってたんだ。
じゃあ、ルカは、あの黒い髪の女の子はなんだったんだ? この街と同じように、今まで見てきた景色と同じように夢だったのか? 幻だったのか?
違う! 違う! ルカはちゃんと僕と一緒にいた! 夢でも幻でもない!
それ以上何も考えたくなかった。考えてしまったら、心が本当にバラバラになってしまいそうだった。僕はいつもそこでシーツを被り、目を固くつむった。けれど、そうやって得たまどろみは浅く、しかも決まって、あの、みどりに飲み込まれる街の幻影を見てしまうのだった。それはまさに、僕が今いるこの街に違いなかった。
あれはきっとそう遠くないことだろう。
毎日、あてどなく街をさまよいながら、僕はそう思った。街の誰もが森に対して無頓着だった。「ケリフィン」なんて名前は彼らの世界には存在していなかったし、その胞子を吸うと死後人は「ケリフ」となって森に取り込まれてしまうことを教えても失笑されるだけだった。最初に訪れた村はみどりの胞子に対して警戒しているようだったのに、ここはまるで無防備だ。胞子がこの星の大気に充満しているものだとしたら、ここの街の人たちはきっとすでにそれを吸い込んでしまっていることだろう。そして、いつか、なにかのきっかけで、そこからケリフが……。
それはある意味悪くない想像だった。街は一見とても華やかだったが、僕にはその中身が熟れ切った果実のようにただれて腐っているものに思えた。ここには二種類の人間しかいなかった。金を持っている人間とそうじゃない人間だ。その境界はおそろしくはっきりしていて、残酷だった。金持ちの多くは投機目的でこの星に滞在している者達だった。バーなどで彼らの口上を耳にすることが度々あったが、いずれもこの先どれほど自分達が儲かるかしか考えていないようだった。
「この星は素晴らしいよ。なんていったって、環境がいいんだ。ありとあらゆる要素が、人が住むのに最も適してるんだ。これからたくさん街が出来るよ。人が多く移り住んでくるだろうね。この星の大気は、どこぞの惑星と違って清浄だからね。汚染されてない。妙な病原性ウィルスもない。ここは美しい楽園になる。間違いない」
彼らは決まってこんなふうに管を巻きつつ語るのだった。そして、勝手に上機嫌になって、隣で飲んでいる僕に「君、よかったら一つ物件を紹介しようか」と、さも親切そうに持ち掛けてくるのだった。
『間に合ってるよ』
僕は彼らを相手にしなかった。欲にまみれた彼らの姿は、どんなに高価な衣服で着飾っていても醜悪だった。
そして、そんな人達のいるバーを出て少し歩くと、すぐに違う種類の人達を見かけることが出来た。彼らは、建物と建物の間や、通りから離れた隘路にけだるそうに座っていて、そばを通りがかると無気力な視線を送ってくるのだった。
彼ら、金を持たない人達の世界は灰色だった。彼らは灰色にくすんだ服を着て、うらぶれた灰色の家に住んでいた。その体はたいていやせこけているか、極度に太っているかのどちらかで、やはり目の下は灰色のくまがあった。
話を聞くところによると、彼らの多くは街を造成する際に労働力として他の星から連れて来られた人々なのだという。そして、街のインフラがあらかた完成した今では大半が職を失って、近くに新しい街が建設される予定も今のところない以上、このように道端にあふれているのだという。
「ねえ、何か仕事はない? なんでもするよ」
彼らの多くが住んでいる通りを通ると、こんなふうに声を掛けられることがあった。その声の主は、たいてい十かそこらの少年だった。
『じゃあ、これでドーナツを買ってきてくれないか』
僕はいつもそう書いたメモと小銭を少年に渡した。そして、少年が買い物に行ったとたん、あるいはその書かれている内容が読み取れず顔をしかめ始めたとたん、踵を返し、そこから立ち去った。
わずかな憐憫など無意味だ。むしろ惨めな気持ちを強めるだけだ――。
いつもそんな考えが泡のように浮かんで消えた。彼らの姿を見ていると、憐れみを感じるとともに、胸の奥がねじれて痛むような不快感を覚えた。もしかすると、僕もかつて彼らのように、金と仕事を求めてさまよっていたのかもしれない。この街で、こんな通りで。だから、こんな気持ちになるのかもしれない……。
けれど、それ以上は何もわからなかった。考えるほどに、涙が出てくるだけだった。僕は泣き虫だった。ルカを見失って、この街に一人取り残されて泣かない日はなかった。街は空虚でいびつで、人々は愚かで、あるいは醜くて、あるいは惨めだった。ルカのいるところに、あのあたたかい幸福な場所へ帰りたかった。ほかには何もいらなかった。
僕は毎日たくさん酒を飲んだ。何も考えたくなかった。悲しみも苦しみも酔いに身を任せて忘れてしまいたかった。けれど酔いが回るのは体と意識の表面だけで、心の芯はむしろ鮮明になっていくようだった。飲むほどに、僕はルカのことばかり考え、泣きじゃくった。ああ、どうしてこんなところに戻ってきたんだろう。あの城で二人でずっと一緒にいればよかったんだ。何もかもサキの言う通りだった。この街に来て、僕達は傷ついた。そして離れ離れになってしまった。過去なんて、意味のないものだ。思い出しちゃいけないものだったんだ。それなのに……。
僕はよくバターの月の歌を聞いた。それはこの街の女達の間ではちょっとした流行になっているようだった。何気なく立ち寄ったカフェで、ショッピングモールで、シネマハウスで、公園で、それを口ずさむ女を見かけた。そのメロディを耳にするたびに、強い嫌悪感を覚えた。一つだけ思い出した。僕はこの歌が嫌いだった。その、どうとでもとれるような曖昧な歌詞が大嫌いだったのだ。
「これはロストバージンの歌よ」
あるバーの女は僕に言った。
「違うわ。これは心中の歌よ」
と、別の女が言った。
どうして女達はこの歌に夢中になるんだろう。こんなやりとりを目の当たりにするたびに、むかむかしてしょうがなかった。『どっちでもあるんだろう。だから、どっちでもないさ』一度、歌詞についてしつこく尋ねられたので、こんなふうになげやりに答えた。「まあ素敵、あなたって詩人ね」女達は僕が渡したメモを見て笑った。
街は夜も昼も光で満ちていたが、それらはみな虚ろだった。死んだはずの人達の幻影は僕に何の真実も与えてくれなかった。
「結婚は人生の墓場って? 違うね。俺達は初めから墓場にいるのさ」
ある劇場でコメディアンの男がこう言っているのを聞いた。小太りのその男は、その言葉とともに骸骨のお面をかぶって、リズミカルに体をくねらせた。観衆はその動きに笑った。
ああ、そうだ。ここは墓場だ。そして、僕もお前達も、そこをさまよう死霊なんだ! 声に出して怒鳴り散らしたかった。
自分がどんどん摩滅していくのがわかった。感情も感性も酒に飲まれて鈍磨していき、足取りはいつも雲の上を歩いているようにおぼつかなかった。ある晩、僕はバーを出たあと数人の男達に襲われた。
「景気がいいんだな。助かるぜ」
彼らは僕を殴り、金を奪って去って行った。
ポケットの中を探っても、もう札束は出てこなかった。文無しになったようだった。僕はゆるく笑って、その場に、何もない路地裏に腰を落とした。殴られた箇所がずきずき痛んだ。ルカもきっとこんなふうに痛かったのかな。いや、あの傷だ。こんなもんじゃない。もっとずっと痛かったはずだ。ああ、かわいそうなルカ。僕はどうしたらよかったんだろう……。また涙が出てきた。金なんかもうどうでもよかった。ルカに会えないなら、このままここで野垂れ死にすればいいと思った。
「ねえ、今夜は一人なの?」
と、声が聞こえてきた。見ると、近くに女が立っていた。暗くて顔はよく見えないが、赤いキャミソールとデニムのホットパンツを着た若い女のようだ。その体はほとんど骨と皮といっていいくらいに痩せ細っていて、自力ではまともに立っていられないというふうに壁によりかかって僕を見下ろしている。
「私を買わない? 五十……いや、あなたなら三十でいいわ」
女は僕にもたれかかってきた。その息は、甘ったるい嫌なにおいがした。
僕は首をゆっくりと横に振った。疲れていた。こんな女を振り払う気力もないくらい疲れていた。
「あら、もしかしてお金がないの?」
首を縦に振ってうなずいた。早くどこかへ行かないかな。
「そう……じゃあ、タダでいいわ」
女の声音にしっとりとしたやさしさが混じった。同情されてしまったようだ。まあ、もうどうでもいいか。好きにすればいいさ。僕も女の骨ばった体にもたれかかった。
「辛いことがあったのね。ケガをしてるわ、こんなに……」
女は僕の首筋に唇を這わせながらつぶやいた。どうやら殴られたあとがあざになってるらしい。
「痛かったでしょう。近頃は乱暴な人が増えたから……住みにくくなったものね、この街も」
ああ、そうだ。これからもっと住みにくくなるはずだよ。ぼんやりとうなずいた。女は僕のシャツのボタンを外している。
「……どうしてこんなことになっちゃったのかしらね。この街に来た時はそうじゃなかったのに」
ふと、女は悲しげに声を震わせた。
「みんな、来る前は聞かされていたはずよ。ここは素晴らしいところだって。私達もそう思ってた。ここに来る途中、宇宙船の窓からこの星が見えたわ。海は青くて、大地は緑色で、とても綺麗だった。夢の世界みたいだった。ここならきっと何もかも上手くいくような気がしたわ。でも……そうじゃなかった」
女が鼻をすする音が聞こえた。
「上手くいってたのは最初だけ。だんだん仕事もお金もなくなって、その日食べるものにも困って、こんな有様。惨めよね。バカみたい。夢なんか忘れて早くこの街を出て行けばよかったんだわ。あの子のためにも……」
あの子? 子持ちなのかな、この女は?
「きっとあの子は今も探してるでしょうね、見つかるはずないのに。誰かに盗られたなんて嘘。私が売ってしまったんだもの。悪い女よね。でも、そうしないと、あの子はずっと夢を見るわ。それはとても悲しいこと。夢なんて、歌なんてとても儚いものだもの。追いかけちゃだめなのよ。世界はそんなに綺麗じゃないのよ」
夢? 歌? この女は何を言っている――。
「ああ、私、あの子になんて言えばいいのかしら。謝れば許してくれるかしら。ごめんねって。あなたのギターを盗んだのは私よ、ごめんねテディって、こう言えば――」
女はゆっくりと顔を上げた。夜の、遠い街の光にその青白い面が晒された。僕は息を飲んだ。それは僕がよく知っている誰かのものだった。
エセル!
とっさに、口がそう動いた。しかし、そのとたん、彼女の姿は忽然と闇に溶けてなくなってしまった。
ああ、そうか……僕は……エセルは……。
僕は頭を抱えその場にうずくまった。思い出した。僕達はたった二人きりの姉弟だった。父親も母親も僕達にはいなかった。母親は、僕が生まれてすぐに遠くへ行ってしまったのだとエセルに聞いていた。
この星に、この街に来たのは、僕が十四歳のときだっけ。金を稼ぎに来たんだ。劇場やカジノがたくさん出来て、そこで働く人が足りないって話だったから。そうだ、エセルは僕が小さいときから歌を歌っていた。それで僕を育ててくれた。だから、僕もエセルのために何か出来たらって、ギターを弾き始めたんだ。生活はいつも苦しかった。でも、なんとかやっていけた。この街に来るまでは――。
僕は、僕達はずっと探していた。僕達を捨てた母親を。別に恨んでたわけじゃない。会いたかったんだ。一目だけでも。だからこの街に来た。探すためのお金と、手掛かりを求めて。僕は夢を見ていた。母さんが見つかれば、きっとなにもかも上手くいくはずだって。僕達はもうお金に困ることもなくなって、満ち足りた、幸せなところにたどり着けるはずだって……。
でも、僕達は結局何も見つけることが出来なかった。困窮し、身をすり減らしていっただけだった。歌うだけでは僕達は生きていけなかった。僕もエセルもよくない仕事をした。よくない仕事をして、エセルはとてもよくない薬を覚えた。そして、どんどん痩せ細っていった。悲しかった。綺麗なエセル。僕の姉さん。ずっと歌って欲しかった。僕はエセルの歌声が大好きだった。
ああ、エセル……また一緒に二人で……。
僕はよろめきつつ立ち上がり、歩き始めた。帰ろう。エセルのいる場所へ、僕達の家へ帰ろう。もう他に何も考えられなかった。記憶を頼りに、そのまま街の奥まった通りを進んでいった。
その灰色にくすんだアパートはやがて目の前に現れた。間違いなかった。この二階の角部屋が僕達の家だ! すぐに階段を上がり、その部屋の扉を開けた。
鍵はかかっていなかった。部屋の中は灯りがついていて明るかった。
「遅かったわね。お帰りなさい」
奥から女が出てきた。赤毛の美しい女だった。
「あら、どうしたの、その傷? 誰かに殴られたの?」
女は心配そうに僕の顔のあざに触れた。やわらかい、あたたかい手の感触だ。胸が熱くなって涙が出てきた。「痛む?」女の澄んだ声は心地よく胸に響いてくる。涙は止まらない。
「……あなたは本当に泣き虫ね、昔から」
ふと女は微笑み、僕を胸に抱き寄せた。そのぬくもりがいっぱいに僕を包んだ。
「だいじょうぶよ、テディ。辛いことも痛いことも、もうないのよ。今夜は私がずっと一緒にいてあげるから」
テディ? ああ、そうだ。僕の名前はセオドア。そしてこの人はエセル。僕の姉さん。僕の誰よりも大切な人……。
「今はゆっくり休みなさい。いやなことは全部忘れてね」
エセルは僕の背中をやさしく撫でた。痛みがすうっと体から引いていった。僕はエセルの胸に顔をうずめた。そして、ゆっくりとまどろみの底に沈んでいった――。
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