二章 アメジストの城 2

 アメジストの城での日々は快適そのものだった。食事はとてもおいしかったし、ベッドはふかふかだった。


 サキは僕達にそれぞれ、別の寝室を用意してくれたが、エリカは夜毎に枕を抱えて僕のところにやってきた。一人では寝付けないのだという。僕はそこでベッドの隣に空きを作ってエリカを寝かせた。床に入っても彼女は落ち着きがなかった。いつも、僕は先に寝た振りをして、彼女が静かになるのを待った。


 本当に、別人になってしまったんだろうか……。


 そんな彼女の振る舞いを目の当たりにするたびに、ルカのことを考えずにはいられなかった。どうして彼女は消えてしまったんだろう? 僕がエリカを探そうと言ったから? でも、それにしたって、一人の人間の体に二つの心があるなんて変だ。姉妹だと言ってたけれど、こういう形の姉妹ってありえるのだろうか? それとも、もしかしてこれはルカなりの演技なのだろうか? そう、ルカは今、「エリカ」という少女になりきって――ああ、でもなんでそんなことをする必要がある? ないだろう。だって、ルカはあの夜僕と約束したじゃないか。遠くに行かないって。それなのに、自分からその約束を反故にする様な真似をするとは思えない……。


 考えてもわけがわからなくなるばかりだった。ただ、怖かった。ルカにもう二度会えないのではないかという気がした。そして、もしかしたら今、ルカはエリカの心の奥底で一人きりで、とてもさみしい思いをしてるのではないかという気もした。暗い床の中で、まぶたを閉じると闇がいっそう濃くなって、あの夜の彼女の泣き顔がありありと思い出された。それはとても弱々しくて、痛々しかった。


 ルカ、僕はここにいるよ。


 すっかり眠っているエリカの手を握って、もしかしたら伝わるかもしれないと心の中でささやいた。ルカに会いたかった。






「それはきっと解離性人格性障害じゃないかしら?」


 翌朝、ルカのことを話すと、サキはこう言った。まだ日は昇ったばかりで、アメジストの城の一階のテラスは淡い曙光でいっぱいだ。サキの鎖も それを受けてきらきらと輝いている。


『解離性……? 何かの病気ってことかい?』

「そうなるわね。子供のころに何か特別に強いストレスを受けると、それから自分を守るために別の人格を形成してしまうことがまれにあるの。あの子もそうなんじゃないかしら?」

『でも、姉妹だと言っていた』

「そう思い込んでいるだけでしょ」


 サキは冷ややかに一刀両断する。よく彼女のことを知らないくせに……。思わずむっとしてしまう。


「あら、私の見立てに何か不満?」

『ああ。赤の他人のあなたが結論を出すのは早すぎるだろう。いくらなんでも』

「そう。じゃあ、あなたは彼女の何を知ってるの?」

『それは――』


 答えにつまった。ルカやエリカについて、僕は知らないことが多すぎた。


「やだ、ほとんど何も知らないの? それにしては随分親しげだったけれど?」

『エリカは子供なんだ。だから誰にでもすぐ打ち解けられるんだと思う』

「そうは思えないけど」

『? というと?』

「女の子が、毎晩男の子の寝室に通うなんて、普通の関係じゃないってことよ」

『そ、それは違う! 一人では眠れないって言うから、添い寝してるだけで、彼女とは別に何も――』

「わかってるわ。まだ子供だものね。あなた達は」


 からかうようにサキは笑う。やっぱり僕は口下手なほうなんだろうか。こういうタイプはすごく苦手だ。


「ねえ、どうやってあなた達は出会ったの? 話して」


 何か変に関心を持たれたようだった。適当に、今までのことをかいつまんで話した。


「……そう、面白いわ。彼女のことだけでなく、あなたはまるでこの森のことも自分のことも知らないのね。とても幸せなこと」

『幸せ?』

「ええ、知らないということは幸せなことよ。なんにせよね。皮肉じゃなくてよ?」


 サキは唇に指を立て、ささやくように言った。確かに僕のことをバカにしている口調ではないようだけど……。


『でも、僕は知りたい。自分のことも。この森のことも。ルカ達のことも』

「それはきっと不幸せなことよ。私はおすすめしないわ。死んだときのことを思い出したくはないでしょ?」

『死んだとき?』

「そう。あなた達はもう死んでいる。だからこの森にいられるんでしょう?」

「!」


 自分がもう死んでいる? そんなことは考えもしなかった。


 けれど、ルカが言うには僕達は「ケリフのなりそこない」で、そのケリフは人が死んでからなるもので……確かにそうなのかもしれない。そう、僕達はもう死んでいる。だから、高濃度の酸素の中でも平気でいられる――。


「……朝からそんな顔をするもんじゃないわ」


 と、サキの鎖が頬にゆるくまとわりついてきた。まるで慰撫するように。


「あなたは、楽しいことだけ、幸せなことだけ考えてもいいのよ。もう死んでしまったあなたには、そういう自由があるのだから」


 サキは朝日を浴びながらやわらかく笑う。


 自由、か。「くびき」の鎖をまとった彼女にもそういうものがあるのだろうか。ふと、考えた。





 その夜、サキは僕達を城の一番広いホールに呼び出した。これから舞踏会を開くのだという。


『舞踏会? ここで?』


 驚いた。いきなりそう言われたこともそうだが、そのホールには壁際に古い甲冑が並べられている他は何もなかった。こんなところで、三人きりで舞踏会なんて出来るのだろうか。


「準備なんて、すぐ済むわ」


 そう言って、サキは携えていたランプを上に放り投げた。それは天井に当たると、砕け、花火のように光を飛散させた。いったい何の真似だろう、そう思ったのもつかの間、たちまちそれらの光は天井を這い壁を伝って甲冑の中に入っていく。そして、ぽう、という小さな音とともに中で炸裂した。薄暗かったホールが昼間のように明るくなった。


「さあ、みんな、起きて」


 サキは甲冑を見回し、叫んだ。すると、今度は甲冑の手足が動き始めた。それらは、こちらにむかってゆっくりと歩いてくる。動くたびに中に灯った光が外にあふれ、その外套をまとって、さらに甲冑達は姿を変化させていく――。


 それは、ほんのまたたく間の出来事だった。気がつくと、甲冑達はきらびやかなドレスで着飾った女や、燕尾服に身を包んだ男に変わっており、ホールも薄暗く殺風景なものだったのが、明るく絢爛豪華なところへと変わっていた。


「すごーい! お姉ちゃんって、やっぱり魔法使いだ!」


 エリカは今の光景にとても興奮しているようだ。


『……自動人形かな、あれは?』


 ドレスの女達と燕尾服の男達を指差し尋ねると、サキは「まあね」とうなずいた。とりあえず、魔法じゃないみたいだ。ちょっと安心した。


「さあ、あなた達も着替えて。そんな格好じゃ舞踏会なんて出来ないわ」


 サキは僕達を隣の衣裳部屋に案内した。たくさんの衣装や装飾品が並べられた部屋だった。


「これ、全部着ていいの?」


 エリカはやはりとてもうれしそうだった。「一度に全部は無理だけどね」サキは笑って、ホールに戻って行った。僕はあまり気がすすまなかったが、エリカがすっかり乗り気なので一緒に衣装を選んだ。彼女はしばらく迷っていたが、やがてバラの刺繍が入った白いドレスを選んだ。ふわふわのレースがたっぷり入った可愛らしいデザインだ。とても気に入ったようで、それに身を包んだ自分の姿を鏡に映してうっとりと眺めている。肩の小さな極楽鳥も、首を細かく傾けつつ鏡を覗き込んでいる。


 そういえば、ルカは鏡を見るのをいやがったっけ……。


 鏡に中の黒い髪の少女をじっと見つめた。その表情はとても幼くて、愛くるしかった。何の恐怖もそこにはなかった。エリカという少女が、たった一人でそこにいるだけのようだった。


 ルカは何て言ってたろう? 確か……銀色のフクロウ?


 あのときの言葉を思い出してみたが、漠然としすぎて何の手掛かりにもなりそうになかった。そして、その頼りなさが、彼女にはもう二度と会えないのではないかという不安をかきたてた。どうすればルカにまた会えるんだろう? サキは病気だと言っていたが、それが治ればまた会えるんだろうか。でも、だとしてもいったいどうやって治せば……?


「ライムお兄ちゃん、どうしたの? 早く着替えようよ」


 と、エリカがこっちに振り返った。はっと我に返った。


『ごめん』


 あわてて、近くのタキシードを取った。


 着替えてホールに戻ると、そこはもうすっかり様変わりしていた。自動人形達は手を取り合って踊り、ホールの隅の小さな舞台では、立体映像の楽団が軽やかにワルツを奏でていた。壁や天井の色とりどりの装飾は、シャンデリアの光を受けてまばゆくきらめいている。自動人形達の楽しげな笑い声やステップを踏む音が、ワルツの音色に重なってホールいっぱいに響いている。華やかで完璧な舞踏会がそこにあった。


「わたしたちも、踊ろうよ」


 エリカは僕の手を引っ張って、踊りの輪の中に入っていく。とりあえず、彼女に付き合って踊ることにした。周りの自動人形達の動きを適当に真似ながら。


「あ、あれ? なんかうまくいかないや……」


 エリカは乗り気なわりに、踊りはさっぱり下手くそだった。僕はすぐにコツがわかったので、彼女に教えた。「ライムお兄ちゃんって、踊りが上手なんだね」エリカはやはり、あまり上手く踊れていなかったがとても楽しそうだった。


 僕はこういうのが合ってるのかな……?


 音楽に合わせて体を動かしながら、ふと考えた。そう、こういうふうに、音と光と楽しげな人の声の満ち溢れた空間を僕は知っている……。胸の奥に鈍い痛みを感じた。記憶は遠くて、あまりにも曖昧すぎて、ただ、未熟な憧憬だけがせり上がってくる感じだった。息苦しくなった。


『ごめん……僕は少し休むよ』


 僕はエリカから離れ、バルコニーに出た。丸い月が夜空に浮かんでいた。


「あら、舞踏会はもういいの?」


 バルコニーには先客がいた。サキだ。彼女はバルコニーの欄干に腰かけていた。


「ああいう騒々しいのは苦手? 明日はあなたのために、そうね……七十二人の処女天使をご用意しようかしら?」

『いや、それはいいよ』


 僕はゆるく笑って首を振った。


「……何か、昔のことを思い出した?」

『わからない。ただ、胸が苦しいんだ』

「苦しいなら何も考えなくていいのよ」

『……そうかもしれないな』


 暗いバルコニーから明るいホールの中を眺めていると、胸の痛みが強くなっていくようだった。奥に、自動人形たちと楽しそうに踊るエリカの姿が見えた。


『解離性……なんとかって言ったっけ? それは治す方法があるのかい?』


 エリカの姿に、僕はやはりもう一人の少女のことを考えずにはいられなかった。彼女と一緒なら、この胸の痛みもやわらぐ気がした。


「治す方法ね。あるかもしれないわね」

『本当かい? 教えてくれ、僕はどうすればいい?』

「さあ? 大脳生理学や精神医学は私の専門じゃないし」

『専門? あなたは何か専攻していたのかい?』

「ええ、微細工学を少しね」


 内緒話をするように、彼女は微笑しながらささやいた。月の光が、彼女のブロンドを儚くおぼろに縁取っている。


「それに、治ったところで、あなたの望む結果になるとは限らないわ。あの子が苦しむだけになるかもしれない」

『苦しむ?』

「ルカ、という名前だったかしら? あなたの話を聞く限り、人格が乖離してしまった原因は彼女の中にあるはずよ。そう……とても辛い記憶がね」

「……!」

「それをエリカに思い出させることが、本当にあの子のためになるのかしら?」

『それは――』


 わからなかった。ルカに会いたいと願うばかりで、そんなことは考えもしなかった。


「苦しみは苦しみのまま、闇は闇のまま、深いところに眠らせておいてもいいのよ。あなたも彼女も。もう生きていたころの記憶に束縛される理由はないのだから」

『でも、思い出せなければ、僕はずっと迷うだけだ』

「迷えばいいわ。それで、ずっとこの城にいればいいわ」


 サキの答えはやはりとてもシンプルだった。


 ずっとここにいる? こんなふうに毎夜騒いで、楽しんで、何も考えずエリカと笑いあって? それはとても魅力的なことに思えた。城は光と幸福で満ちていた。


 ああ、でも、僕は……。


『僕は……ルカに会いたい』


 彼女のことを忘れることができなかった。


「好きになってしまったのね。その笑わない女の子が」

『今は無理でも、いつか一緒に笑いあえる。僕はそう信じてる』

「そう。バカな人」


 それは、やさしくたしなめるような口調だった。そして、「でも、嫌いじゃないわよ」と、サキはまた微笑した。

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