バターの月となりたがりみどりの歌

真木ハヌイ

プロローグ


 みどりはなりたがり。

 みどりは何者でもあって、

 みどりは何者でもない。

 生も死も、始まりも終わりも飲み込んで、

 みどりはただ夢見るだけ。墓守のように。




 森は静かだった。


 陽光は森の木々を照らし、その葉を美しいエメラルド色に輝かせていた。それらの木々は、葉だけでなく幹まで緑色だ。森は、僕の今いる世界は限りないみどりに満たされていた。


 そして――死にも。


 心地よい微風が吹き抜けていくのを感じながら、僕は周囲を見回した。動くものは、風に揺れる木々の葉ばかり。他は何もない。当然だ。こんなところで生きていける生物なんていやしない。このみどりの世界は、高濃度の酸素で満たされている。それは生物にとって毒そのもの。そう、いわばここは――死の森だ。


 じゃあ、なぜ僕は死なないんだろう。


 昨晩から幾度も考えてきた疑問が、またふと浮かぶ。僕が身につけているのは、粗末なジャケットとコットンシャツとデニムのズボンのみ。猛毒の酸素から身を守る装備なんて、何もない。それなのに、僕は生きている。何の不自由もなく呼吸している。


 そもそも、僕はなんでこんなところにいるんだろう。


 記憶は何もなかった。僕は昨晩、この森に遺棄される様に倒れていた。それ以前のことは、何一つ思い出せなかった。ただ、なぜか不思議とこの森がどういうところなのかは知っていた。自分の名前すら定かでないほどだというのに――。


 ……ああ、でもあれは――。


 ふと、その瞬間、残像のようにどこかの街の景色がまぶたに浮かんだ。それはとても猥雑でにぎやかだった。そして瞬くと、その景色は一変した。街を覆う透明の天蓋を突き破って侵入してくる緑のツル。それらに街は破壊され、人々は一瞬にしてその場に倒れた。緑のツルは彼等の屍に絡みつきながら、地を這い、建造物をなぎ倒し、天に向かって伸びていく――。


 僕もそこにいたのかな……。


 そんな気がした。きっとそれは僕の記憶だろう。そう、僕はその街のどこかにいて、緑のツルがある日その街を破壊して、猛毒の酸素が外界から入り込んできて、人々は一瞬にして死んで……。


 ああ、でもやっぱりわからない。


 僕はどうしてそのとき死ななかったんだ? 僕のとなりにいたであろう誰かと一緒に。急にとても悲しい気持ちになった。僕は一人だった。何もわからなかった。森のみどりは美しく、寡黙だった。僕は歩いた。昨晩からずっと歩き続けていた。この限りなく不確かな世界で、はっきりとした何かを探していた。 


 やがて少し開けた明るいところに出て、風が変わった。湿っぽい大気がはらむ独特の振動。それは何かの音色――いや、歌声だった。前方から歌が聞こえてきたのだ。


 それは森の木々のあいだをこだまするように、幾重にも重なって響いていた。澄んだ、伸びやかな歌声だった。エメラルドの葉は、それらに呼吸をあわせるかのように揺らめいて、まばゆい木漏れ日を地上に散らしている。一羽の鳥の鳴き声すら存在しない死の森で、その歌はまるで絶対の支配者のようだった。


 僕はその歌声の聞こえてくるほうに歩いた。確かなものがそこにあると思った。夢中で歩いた。走った。足を動かすたびに、前に進むたびに、聞こえてくる歌声は大きくはっきりしたものになっていく。


 やがて、それは僕の目の前に現れた。


 森はそこだけ大きく開けて丘のようになっていた。中央には巨大な樹がそびえ、その根元には幾人もの裸の人が腰かけて、空に向かって口を動かして――ああ、歌を歌っていた。男も女も、子供も老人もそこにいるようだったが、その頭髪や肌はみな真っ白だった。彼らは、まるで山のように泰然としていて、雲のように幸福そうだった。そして、抜けるような青い空と巨大な樹を背に歌う彼らの姿は、宗教画の中の世界のもののようだった。歌は美しく、一切の歌詞を持たず、純粋だった。調和は完璧で、まるで歌によって人々は一つに溶けてつながっているようだった。


 これは、何だろう……?


 僕は思わず圧倒され、足を止めた。彼らは人ではない気がした。そう、彼らは――世界だ。世界の一部、あるいは全てだ。きっと声を掛けたところで、僕の求める答えは得られないだろう。なぜだかわからないが、そんな気がした。そして、ここから早く立ち去らなければと思った。彼らの歌は、世界は美しく、悲しかった。ずっとここに留まっていると、彼らのようになって、僕が僕でられなくなってしまうと思った。踵を返した。


 しかし、その瞬間、巨大な樹の幹に何かが埋まっているのに気づいた。それは黒っぽくて長いもので――いや、人だ。黒く長い髪の少女が樹の幹に抱かれるように埋まっているのだ。


 少女は眠っているのか死んでいるのか微動だにせず、目を閉じていた。白い人々の歌声がつむぐ世界がそこだけ隔絶されているようだった。僕はそこへゆっくりと近づいた。もしかしたら確かなものがあるかもしれない。


 そばへ行ってみると、巨木の幹が、たくさんの細い木々が集まってできたものだということに気づいた。少女は、それらのツルの様になった木に手足を捕えられて、まったく動けない状態になっているようだった。僕はその肌に触れた。あたたかかった。この少女は、生きている。すぐに彼女をここから助けてやらなければと思った。力を込めて、彼女の体にからみついたツルを取り払う。


 彼女は裸だった。ツルを引き剥がすたびに、その瑞々しい肌があらわになっていった。年のころは十二、三歳くらいだろうか。折れそうなくらいに華奢な体の、とても美しい少女だった。


 僕は彼女を巨木から解放すると、地面に横たえ、ジャケットを毛布のようにその体にかけた。白い人々は僕の姿などまるで目に入ってない様子で続けている。いったい、ここはどこなんだろう。彼らは、そしてこの少女は何者なんだろう。疑問が今にも胸のうちからあふれてきそうだった。すぐに彼女の体を揺さぶり、声を掛ける。「君は誰なんだ」と……。


 しかしその瞬間、


「…………っ!」


 愕然とした。言葉が、いや声が出ない――。


 まるで喉が一切の働きを放棄しているようだった。そう、僕は唖だった。


 やがて、少女は目を開けた。


「……お前は」


 彼女は僕を不思議そうにじっと見つめた。なんて反応すればいいんだろう。声が出せない僕はどうすればいいのかわからなかった。彼女は大きな、黒真珠のような瞳で僕の顔を覗き込んでいる。


 そうだ、声が出せないなら文字で……。


 僕はとっさに思いついて、彼女の手を取った。そこに人差し指を立てて、ゆっくりとなぞる。文字を書く。最初の文字は「H」。まず伝えるべきは「Hello」だ。


 しかし、その途中で、


「そうか、口が聞けないのか、お前は」


 彼女は僕の状態を察したようだった。僕は全力でうなずいた。


「それで……記憶も定かでないままこの森をさまよっていた?」


 僕の手を握りしめ、彼女はつぶやく。まるで僕の心を読み取っているかのように。


 僕はまたしても全力でうなずいた。そうだ、だから往生してるんだ。わからないことが多すぎて。


「わからない、か。何が知りたいのだ?」


 少女はまたしても僕の考えを読み取った。


 そこで僕はそばで無心に歌う白い人達を指差した。彼らはいったい何者なんだ。


「彼らはケリフ。この森の家畜だ」


 家畜?


「そうだ。もはや人ではない」


 じゃあ、ここは――。


「ケリフィン。その苗床だ」


 ケリフィン?


「これら、だ」


 彼女は背後の巨木を指差した。


「ケリフィンによって、この星はテラフォーミングされるはずだった。しかしそのやり方は性急過ぎた。ケリフィンは爆発的に成長し、またたく間にこの星は高濃度の酸素の大気に覆われることになった。どのような生物も活動できないほどに」


 それが……この森の正体?


「ああ。そして人々はこの星から離れた」


 彼女は、ゆっくりと起き上がった。僕のジャケットをマントのように肩に羽織りながら。


「お前は私と同じだ」


 同じ?


「そうだ、同じケリフのなりそこないだ」


 僕の手を強く握って彼女は再びこちらを覗き込む。その表情はとても落ち着いたものだったが、日差しの加減で少しだけ微笑んでいるようにも見えた。僕は深く安堵する思いがした。笑った。やっと確かなものを見つけたと思った。


「お前は……ライムストーン、だな」


 と、彼女は何か思いついたようにぽつりとつぶやいた。


 ライムストーン(石灰石)? それはもしかして僕のことなのか?


「ああ。今、私が考えた。……名前がないのは不便だろう?」


 それはそうだけど、なんで石灰石なんて名前なんだ?


「白いからだ」


 彼女は僕の髪を指差した。はっとした。そのとき初めて、僕は自分の髪や肌がびっくりするぐらい白いのに気づいた。


「他の名でもよいぞ。ミルクでも、ギプスでも、スノウでも……」


 いや、いいよ。ライムストーンで。


 あくまでも白にこだわる彼女におかしくなって笑ってしまった。彼女はそんな僕の顔を不思議そうに見て「そうか、ならライムストーンでよいか」とまとめた。


 それから彼女は自分の名前を教えてくれた。ルカ、というのだそうだ。


 そうか、このとびきり可愛らしい女の子の名前はルカというのか。名前を教えられただけなのに、とてもうれしくなった。彼女の小さな手をぎゅっと握った。


「さあ、行こう、ライムストーン。我らがあるべきところを探そう」


 ああ、そうだね。


 僕はうなずいた。そして、彼女と一緒に歩き始めた。


 と、そこで、さっきまで聞こえていたはずの歌がぱったりやんでいるのに気づいた。周りを見回すと、白い人々の姿もない。


「彼らはどこにでもいる。だから、どこにもいない」


 まばゆい陽光に目を細めながら、ルカは言った。

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