彼女が世界の法則を壊すのが先か、僕が世界のすべてを直すのが先か。
跳びはね、着地し、また跳びはねる。
彼女が地面を離れるたびに、地面の落葉はわずかに舞い立ち、スカートは揺れ、靴の裏からは土が落ちる。
精密に物理演算された自然物。ゲームとは思えないグラフィック。PS社謹製の家庭用VR装置のおかげで8月の暑さの中の木陰の涼しさすら僕には感じられる。
じわりとした汗が僕の背中に広がる。でもこれは体温調節のための汗じゃない。
僕にとっては一ヶ月ほど前、彼女にとっては約二年前、あのテラス席でにじんだ汗と同じ汗が僕を不快にさせる。
ただ眺めているだけなら巨木の隣でセーラー服姿の少女が可愛らしく跳びはねている、それだけの景色だ。
実際、彼女が何をしようとしているか聞いた後でも、僕にはそれはどこか間抜けでシュールな光景に見えている。
でも、違う。
これは重大な事件なんだと脳の一部が騒ぎ立てる。
どうにか気分を落ち着かせようという生理反応と事態を収拾しろという理性が互いに争いながら僕を動かす。
「あ、ジャ……ジャン」
喉がカラカラで、うまく声が出ない。音声認識は何度目かの呟きでやっと反応した。
「ジャンプしつ、続けるって……どれ……どれぐらいの間」
「とり、あえ、ず、この一、ヶ月、はやっ、てみよう、かな、って思、ってる、よ」
跳ねるたびに彼女の声は途切れる。自然だ。自然すぎてそれが素晴らしい技術の集大成だということに誰も気が付かないだろう。僕ですら意識しなければその存在を忘れてしまう。合成音声を呼吸に合わせて区切る技術はうちの会社の開発スタッフの苦心の成果で、四年前にリリースした『Tao ng paggunita』以降、こぞって他の制作会社も取り入れた手法だった。一時期は、ボイスアクターを廃業させるつもりか、と俳優協会から意見を申し入れられたぐらいだ。
「……なんで、ここなの?」
「んー?」
「こ、ここ、あの、ええっと、なんでここで、その跳びはねる必要が……そうじゃなくて……まずなんで跳びはねるのかってこと、あの……」
言葉は形を成さない。焦りが言葉を追い越して、僕の発話はAI以下になる。
「なんで、この、場所、を、選んだか、って、こと?」
しかしそんな不完全な文章も彼女はきちんと理解して、返答を作成する。素晴らしい。素晴らしいじゃないか最新の会話エンジンは!
どこをどう取ってもこの世界は完璧だった。ひょっとすると現実よりも。
だってほら現実のやつなんて、こんなに心臓が激しく鳴って、呼吸が荒くなり、発汗量は増えているっていうのに、アラートも鳴らさなければ自動で救急車を呼びもしない。なんて不便なんだ。
現実ってやつはとことんUI設計がなってない、いつもこうだ。
「前の周で、ね、ここ、で、ジャンプ、した時、に、感じたの、違和、感、ってい、うの、かな」
「違和感……違和感?」
僕にはもう彼女の言っていることの意味がほとんどわかっている。違和感の正体も。彼女がなぜここを選んだのかも。だからこそ僕は彼女の返答を最後まで聞かなければいけない。
なぜなら僕はこの世界の住人ではないから。この完璧な世界じゃなくて、不便で不自由な世界の人間だから。不自由で不便な世界の人間として、この世界の完璧を守る義務があるから。
「そう、違、和感、ここ、で、ジャンプ、した、時、どこか、へ、フワッと、意識、が、飛ぶよう、な感覚、あった、の、一瞬、だけど、ね、だから、試し、て、みよ、う、って」
その言葉ですべては確定した。
僕は改めて、さっきまで自分が手掛けていた仕事をウェアコン上で確認する。間違いない。
彼女が今跳びはねている箇所はさっきまで僕が直していたバグがあったエリアだった。
スダイ山のある位置で一定以上の速さで背景スキンに触れると転送システムが誤作動して市街のどこかに瞬間移動してしまう……そういう内容のバグだ。
偶然の一致だとは思えない。彼女が確実にバグに気が付いてこの行動を取っていることは明らかだった。
既に本社に報告済みのそのバグは僕でも修復可能なもので、今は綺麗に消え去っている。彼女がそこで跳びはね続けても何かが起きるということはおそらく、ない。
でも…………。
「あの……もしかして、前回の8月でなにもしないで町をふらふらしてたのってさ」
「うん、そう、いう、風に、違和、感、を、お、ぼえ、る、とこ、ろを、探し、てた、の」
「……ここ以外にも、あるの?」
「あ、る、よっ」
彼女は少し声を高くする。それでも跳ねるのをやめない。
そして次々と、彼女の感じた異変、この町の違和感を口にしていく。得意げに跳びはねながら。
それを聞く僕の全身からは冷や汗が流れ続ける。
彼女は実に的確にこのゲーム内のバグを探し当てていた。
その上で彼女は……バグの状況を再現し、バグを誘発しようとしている。
彼女がいうところの「普通じゃない世界の法則」を、8月のループを崩すために。
彼女は世界をデバッグしようとしている。
彼女なりの方法で。
彼女の口から出て来る違和感の大半は、僕もまだ検証しきれていない内容のバグだった。同僚からの報告もあがっていないものばかり。
もしそれらのバグが僕よりも先に彼女の手によって再現されたら?
対処法の不明なバグが、ただでさえ不安定でバグを抱えた彼女の手によって引き起こされたら?
場合によっては確かにこの「普通じゃない世界」の法則は崩れ去るだろう。
でもそのとき崩れ去るのは8月のループだけじゃない、このゲームデータそのものかもしれない。
跳びはね続ける彼女を残して、僕は急いでスダイ山を後にした。
彼女から聞いたバグを残さずウェアコンに保存して、早速手近なバグから検証をし始めなくてはいけなかった。
彼女が世界の法則を壊すのが先か、僕が世界のすべてを直すのが先か。
時間はあまりなさそうだった。
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